食客商売1話ー5「あんた、この食客をどう思う?」
騎士たちの事件も日が経つとすぐ別の話題に上塗りされてしまう。
囚人護送船の座礁騒ぎが起きたかと思えば、今は珍獣のお披露目で大賑わい。
あっという間。気が付くと、何もかもが変わってしまう。
ぼんやり物思いに耽りながら、レミルは庭に置かれた台座から、店の前を横切る街道を眺めていた。
行き交う通行人から馬車、建ち並ぶ家々から木々草花まで、すべてが普段通り。ここだけは何一つ変わりない。
周囲はいつも通りの平穏。
今日は珍しくニトが一人で外出している。いつもの木陰では、代わりにシャスタが昼寝をしていた。
ここだけはいつもと違う。
他にはあるだろうか。
家の裏手――雑木林へと目を向ける。何も無いと分かっていながら、乱雑に生え並ぶ木々の隙間、あるいは薄暗い林の奥へ目を凝らしてしまう。
彼女自身、はっきりした理由は持っていなかった。なんとなく、である。
「どうかした?」
シャスタの問いに答えるように林が音を発する。枯れ枝を踏み砕いた音。乾いた音であった。
体を起こすシャスタ。
そして、息を呑むレミル。
二人の前に小さな人影が林の暗がりから出てきた。
「子ども?」
子ども――それも、レミルより、ずっと歳下の少年。
明瞭になった容姿に母娘は言葉を失う。
少年の衣服はボロボロだった。汚れてもいた。そして、血だらけだった。
その場で凍りつくレミルは、言葉はおろか、頭を働かせることすら忘れてしまう。震える両脚で立ち、大きく見開いた眼で、出会ってしまった衝撃と相対するので、少女は精一杯だった。
「どうしたんだい、アンタ?」
落ち着き払った声が、レミルを現実に引き戻す。シャスタが尋ねたのだ。
しかし、母もまた冷静ではいられなかったらしい。小麦色の肌からは血の気が失せ、唇も震えだす。シャスタは込み上げてくる感情を必死に抑えていた。
「坊や。何があったんだい?」
また尋ねた。しかし、沈黙だけしか、返ってくるものはない。少年からは視線すら返ってはこない。
生気も喜怒哀楽すら枯れ果てた、濁った目。この眼には、レミルもシャスタも、ただ狼狽するしかなかった。
少年は踵を返すと、一目散に林の中へ駆け込んでしまう。
「待って」
意を決したレミルは後を追うように林へと入った。
「ちょいと。行ってはダメ……レミル!」
シャスタが呼び止めたが、レミルの後姿は遠のくばかり。
あっという間に、二人の姿と足音が木々の薄暗闇へと吸い込まれていく。
程なくして、甲高い悲鳴が響き渡った。
レミルの声であった。
―――――――――――――――――――
「――女将さんは?」
ザムロは物憂げな顔でニトに尋ねた。
「寝床に運んだ」
夕刻、何の前触れなくもたらされた事件は、マギル商会の面々をドン底へとつき落とす。とりわけ――シャスタを。
レミル・マギルが誘拐された。
犯人は数日前に捕まったと噂された、あの強盗騎士たちだった。
彼らはレミルだけ捕らえ、例によって逃走中の安全と身代金を要求してきた。
数日前に一同の話題にのぼった手口そのものである。
絶望の二文字すら生ぬるく、形容すらできぬ程のショックに、気丈が取り柄のシャスタでさえも打ちひしがれてしまう。
更に娘から無理やり引き剥がされただけでなく、殴られ、けがを負っていた。
「今は女中に傍についてもらってる。怪我の具合は軽いが、一晩は、安静にしておくのが最善だ」
食客は静かに長椅子へ腰を落とす。
「分かった」
頷くと、ザムロは暗い面持ちのまま、こう言った。
「二人に危険が及ばないよう、身を挺するのがアンタの仕事だろうに。一体どうしちまったんだ?」
非難。感情的な口調でぶつけられるも、ニトは沈黙を通す。
ザムロの口はまだ止まらない。
「……こういう時の為に、俺らは店にいる筈だったのに。俺も耄碌しやがって。そう。噂の真偽を見極めるのが俺の役目。店に害が及ぶかどうかも、俺が探りを入れて、吟味し、判断をする。にしても、だ。ニトよ。本気でタダ飯食いに成り下がるつもりだったんじゃないよな? ええ?」
「つもりだった」
乾いた声でニトが言う。ザムロは大きな腹をしぼませる位、大きなため息を吐く。
「冗談止せ。お前さんに平和は似合わん。さて……」
――こんなことをしている場合ではない。
ザムロはやっと冷静さを取り戻す。
百回の謝罪より、一度の挽回で失敗を取り返す方が良い。
それに前代未聞の厄介事はこれが最初でもない。
今までに何度も、二人は陰で動いていた。
店のため、母娘のため、皆のために。
ザムロは乾いた態度で口を開く。
「賊のリーダー……ダダンだったかな。ヤツは死んだと聞いたがね。あちこちで仕入れた情報でも、やっぱり死亡扱いだったのに」
「奴の死体は、どこかの誰かだ。ボロ雑巾にしてしまえば、見分けなんてつかない。防人も細切れ肉は早く捨てたい」
ニトは落ち着き払って答える。
「乱戦の中で防人の誰かにすり替わったか、それとも、初めからいなかったのか。いずれにせよ、悪知恵の働く男だ。死体さえあがれば追及の手は緩む」
ザムロは質問を続ける。
「敵の規模と隠れ家は?」
「足跡の数から推測するに、5人以上はいる。途中で馬を使って移動した。連中はこの一帯に詳しくない。だから、人質を調達するリスクまで犯したんだろう。これならすぐに捕捉できる」
と、食客はザムロをまっすぐ見据えて答えた。目つきがまるで別人だった。
窓から差す夕陽に染められたニトからは、日頃の皆が知っているような、あの「タダ飯食い」の面影は感じられない。
もはや虚無といえるような、静かな殺気を漂わせる女。
「やれるな?」
と、ザムロは問う。
ニトは何も答えない。代わりに音もなく腰を上げた。
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レミルは林に潜んでいた強盗騎士たちに連れ去られ、郊外の農家に囚われていた。
背中に強い衝撃を受け、仰向けに倒れた頃には、意識も薄らいでいた。すぐ隣で必死に声を掛けてくれていたシャスタの声も、遠くから響き渡っているようだった。
その後の事は分からない。
目が覚めた時には後ろ手に縛られ、床に転がされていた。
記憶の片隅に残っていた髭面が、卑しい笑みを浮かべて見下ろしていた。
「どこかで会った気もするが、この際、どうでもいい。お前に恨みはないが人質になってもらう。理由?運が悪かった。それだけだ」
それだけ?
両目を白黒させていると、彼らは尚も卑しく笑った。
――ああ、こういう人たちなんだ。
ようやく理解できた。
彼らの非道さを。自らの保身の為には、平気で他人を踏みにじれる人間がいるのだと。そこに後ろめたさも躊躇も、理由すら持ち合わせない人たちなのだと。
ショックだった。
これまでレミルは固く信じていた。たとえ、どんな悪人であっても、僅かに一片だけ「心」というものがある筈だと。
それは絵空事だった。悪党はとことん悪党でしかなかった。
今まで信じてきたものは現実を知らない、子どもの幻想なのだと、レミルは深く思い知らされた。
そうして、打ちひしがれてからどれ位、時間がたったのだろう。
気がつけば日没を経て夜となっていた。
既に家中が荒らされ、二束三文でも、値のつく物品は全て奪われた後だった。
食べ終えた食事も卓上に散らかしたまま。床には食器や食べかすまで落ちている。
彼らは外に出払っていた。
見張りがどうとか言っていた気がする。
現在、散らかった狭い一室にいるのはレミルと少年の二人だけ。
互いに視線を合わせる事も、会話を交わすこともなく、長い時間、沈黙していた。
少年はずっと部屋の片隅に蹲っていた。顔にべっとりついた血は一度も拭われることなく、すっかり渇いてしまっている。
彼はこの家の子どものようだった。賊徒の話しぶりから、親兄弟は地下室に積み上げられているらしい。生き残ったのは彼一人。もしかしなくても見てしまったのだろう。最愛の者達を殺された瞬間を。
ここでやっとレミルは気付いた。
手が拳を作り、痛覚が鈍るまで握りしめていることに。自らの不運より、少年への憐憫。元凶となった男共への激しい怒りが勝ったのだ。
彼女の中では、滅多に抱いたことのない、粘っこい憎悪が込み上げていた。
――ダメ。
レミルは目を閉じる。大きく息を吐き、ニトの言葉を思い出す。
「怒りなんてのは長続きしない。そんなものに拘るくらいなら――」
彼女の言葉が脳裏をよぎった時、レミルは無意識のうちに大きく息を吐き、空になった肺にたっぷり空気を入れていた。
この作業を繰り返す内に、頭のてっぺんにまで昇り詰めていた熱気は、跡形もなく消えてしまった。
おまじない。教えてくれたのはニトだ。
考えろ。
レミルはぐるりと室内を見回す。
――助かる方法を。
その時だ。
彼女は発見した。食べかすやゴミに雑じってテーブルナイフが落ちているのを。
幸い足は縛られていない。レミルは静かに起きあがり、背中越しにナイフを拾った。
見えない、動かない、切れない。三重苦に焦りながらも、少女はやっと縄を切断した。
何やら外が騒がしくなった。
馬の嘶き、悲鳴、男達の喧騒。そして、夜空を赤々と照らす炎。
窓から窺うと、畑を挟んで建っていた納屋が、ごうごう、燃えていた。
その周りで騎士たちが暴れ馬を捕まえ、なだめるのに、躍起になっている。
何が起きているのか分からないけど。
逃げられる!
レミルは少年を見た。少年は窓の外に、
感情の失せた眼を向けていた。
この子も一緒に。小さな手を強く掴んで抱き寄せ、レミルは少年を伴い、外へ飛び出す。遠くへ。とにかく遠くへ。
恐怖を背負いながら、涙をボロボロ流しながら、少女は走った。
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