530 自分の行いは鏡を見て
ヒルデガルドが、あの子と称した相手はアマリアのことだ。
サロンでのことは、彼女の中ではこうなっていたのかと、シウは内心で衝撃を受けていた。
「あなたがわたくしに近付けないよう私怨で何か告げたのでしょう? 彼の様子もおかしかったもの。それでも、わたくしのことを迎えに来てくださると信じてましたわ」
そこで、彼女はわなわなと震えだした。
「それがまさか盗人のような真似までして攫われるとは思っておりませんでしたわ!」
「盗人だなんて」
「そうでございましょう!? 大勢の前でわたくしを侮辱し、しかも彼との仲を引き裂いたわ!」
引き裂いたって、最初から何も始まってないじゃないですかー。
とは言えなかった。これはもう思い込んでしまってる感じだ。危ない雰囲気の。
「彼とて貴族ですもの。家格の違いを悩んでいたのでしょうね。それで傷物のあの子を押し付けられて、仕方なく受け入れたのでしょう。でも、そんなやり方が通用すると思って? あなたの卑怯さには呆れかえりましたわ。ですから、わたくしが、誰も言わないからこそ、わたくししかないと思って、諭しに参りましたのよ。それさえも、無駄でしたわね」
所詮、流民には高位な人間の言葉は理解できないのでしょう、と聖女のような微笑みを浮かべて笑う。
本当にどこかの世界に行ってしまっているようで、シウはゾッとした。同時に感覚転移で見えているベニグドの笑顔にも、同じような気持ちを抱いた。
溜息を噛み殺していると、話がひと段落したことを感じたらしい衛兵たちが、彼女たちを連れていった。
さすがに抜剣したわけでもないヒルデガルドを捕まえることはなかったけれど、女性騎士などがやってきて取り囲みながら移動させていた。
騒ぎの原因がいなくなると、場がシンとするのが分かった。
いたたまれないので、そろっと歩き始めると途端にざわざわし始め、ついで人が集まってきた。
「シウ!!」
「とんでもねえな!」
「大丈夫でしたか!?」
びっくりしたと言う者や、何事か分からなくて呆然としていた者、貴族相手に怖くて見てるしかできなかったと謝る者などでごった返してしまった。
その騒ぎの中、ベニグドはつまらなさそうな顔でサロンの個室へ戻っていってしまった。ヒルデガルドがあっさり消えたので面白くなくなったのだろう。
子供特有の残酷さというのか、無責任な我が儘さが垣間見えてうんざりした。
自身の持つ力、影響力を分かっていないのだ。いや、分かっていて遊んでいるのだけれど、本当には理解していない。
ああいうのが一番、たちが悪い。
今後も面倒なことが起こるのかもしれず、想像しただけで溜息が出るシウだった。
お昼の休憩時間はかなり過ぎていたのだけれど、生徒は席も立たずにむしろ興味津々でシウの話を聞いていた。
「じゃあ、ポエニクスから祝福を受けたってのも本当なんだ?」
生徒の疑問を代表して、ディーノが質問係を引き受けてくれたようだ。もぐもぐ食べながらではあるが、いつもの席で、いつもよりも声を張り上げて聞いてくる。
「本当だよ。嘘なんてついたら、それこそ不敬罪で捕まるよ。たとえ流民でもね」
「ぶはっ、……だよなあ」
ディーノが噴き出したものを、そっとコルネリオが片付けている。
「でも考えたら流民って損だよね? 罪は問われるのに、普段は侮辱されたり蔑まれたりして」
作業をしながらコルネリオが補足を入れてくれたので、シウも頷いた。
「税金もしっかり取られるしね。でもその代わり、騎獣に関する規則には従わなくて良いし、貴族の無理難題を受ける謂れもないんだよ。ま、王族や国家に対する不敬罪は問われるだろうけど、それがもし冤罪ならとっとと逃げれば済む話だしね」
「そっか。逃げられるんだよね、冒険者って」
「本当に罪を犯したという証拠があってギルドが署名したら、ギルドの指名手配にかけられるけれど、これも誓言魔法を用いるからギルド職員を買収するのは難しいんだよ。と言っても罠にかけることは可能だけどね。過去にギルド職員が不正を犯して、冒険者に罪をなすりつけた例はたくさんあるし」
「えっ、じゃあ、その場合はどうするんだ」
シルトがびっくりして尻尾を膨らませていた。その横で何故かフェレスも尻尾を逆立てている。意味は分かっていないのに、シルトに釣られたらしい。
「こっちも証拠を常に持つしかないね。冤罪って、貴族同士だけでなくて、案外身近に存在するんだよ。噂話なんてその最たるものだからね。そうしたものは話半分、それどころか絵物語だと思って信じない方が身のためだよ」
「うっ……」
遠くの席の生徒が胸を抑えていた。心当たりがあるようだった。
「噂を信じて、鵜呑みにしたまま誰かを責める。それは卑怯な振る舞いだし、何よりもやがては自分に返ってくるんだ。人を陥れたら自分に。悪口も跳ね返ってくる。だから、自分の行いは鏡を見てと、言われているんだよ」
「鏡?」
「古代帝国時代のある神官が説法で話した内容でね。――行動を起こす時には必ず目の前に鏡があると想定しよう。人と話す時、自分はどんな顔をしているだろう。笑顔で挨拶しているだろうか。怒った時の自分はどうだろう。理不尽な怒り方をしてはいないだろうか。悲しい時に、後ろに映る誰かが助けの手を差し伸べていなかっただろうか。嬉しい時、自分は喜びを他の人にも伝えただろうか。嫌なことをされて、それを吐き出した自分の顔はどうだった? 怖い顔をしていなかった? 醜くなかっただろうか。誰にも信じてもらえず、鏡に映る自分の周囲には誰もなく、独りぼっちで辛くなって落ち込んだ時、自分の顔をよく見よう。そこにいる自分は今まで築き上げてきた自分自身。自分はどんな人間だった? 他に誰もいなくとも、あなたはあなたのことを一番大事に愛してあげなくてはならない。そうしたら、鏡の向こうの自分はいつか笑えるはずだ。笑えれば、きっと誰かが手を差し伸べてくれるだろう。だから、自分の行いは鏡を見ているつもりで常に考えるのだ、って話」
ところどころ端折りながら、簡単に話して聞かせると、生徒たちは静かになってしんみりしてしまった。
一呼吸置いて、誰かが口を開く。
「その話、神殿で聞いたことがある」
「俺は初めてだ」
「そういえば最近神殿に行ってないよ、僕」
「説法って、鬱陶しいって思ってたからな……」
「お布施を要求するだけのところだと思い込んでた」
シウも信心深くないので、というよりもむしろ不信心者なので、彼等の気持ちはよく分かる。だから別視点で言ってみた。
「でも、神殿は役に立つ場所だって考えたら、違うんじゃない? 普段から足繁く通っていたら覚えてもらえるし、それって便利だよ。いざって時に親身になって守ってもらえるからね」
「その話聞いたことある」
「誓言魔法も優先して使ってくれるんだろう?」
「そうそう」
「商品を購入したら誰だってお金を払うんだし、お布施っていうのはそういう意味での支払いなんだと僕は思ってるけどね」
「ああ、そうか!」
「しかも、お布施のすごいところはさ、お金のある人ほど高く払うというすごいシステムで、ある意味社会に平等なんだよ? 普通の商品だと一律だけどさ。これって、庶民にとってはとても有り難いことなんだ。そしてお金のある人ほど、徳を積めるということでもある」
「なるほど!」
「そう聞くと、面白いな。さっきの説法も面白いし」
「僕なんか、昔、教会のお世話になっていたから神官の説法を一対一で聞かされ続けたんだよ」
シウが告白すると、皆がうげっという顔になった。
「一対一か……」
「それは、面倒くさいね」
「育ての親の最期を看取ってくれた良い神官さんだったけどね。僕に信心を強要もしないし。貴重な本は読ませてくれるし」
「シウの本好きってそこから来てるんだね」
クレールに微笑ましく言われたけれど、そこはちょっと違う。が、そういうことにしておこう。
「というわけでさ、いつ冤罪という罠にかけられるか分からないんだし、普段から気を付けておくことだよね」
「おー」
そうだよなあ、と先ほどの騒ぎを思い出したらしい生徒たちが頷いていた。
すでにシュタイバーン出身の生徒から聞き及んでいたらしい「正しい情報」を知った彼等は、揃って震えていた。
「よくもまあ、あんな風に改竄できるよな!」
「怖いね、ほんと」
「しかも国の調査も入って決着ついてる話を、あんな風に曲げて他国で言い触らしているんだよね」
「あれ、それって、もしかしてやばくない?」
またシンとしてしまった。
クレールが苦笑しつつ、手を叩いた。皆の注目が集まったところで彼は気障な態度で人差し指を唇の前に立てて「しっ」と告げた。
「『無知なる者が古代魔道具に触れて障りをもらう』だよ」
古代魔道具のほとんどが呪術系で危険なことへの喩えだ。ようするに、触らぬ神に祟りなし、である。
皆、コクコクと頷いていた。
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