229 淑女のスレイプニル
近寄らない方が良いと調教師や厩務員に言われたが、特に興奮しているわけでもないスレイプニルに、シウはゆっくりと歩み寄った。
「こんにちは。シウです。こっちはフェレス。よろしくね」
「…………」
無視された。
あからさまに、ツンとそっぽを向かれたのだ。どこか人間臭くて面白い。
「にゃにゃにゃ」
「ふうん、さっきも無視されたの」
「にゃ!」
「フェレス、ちゃんとご挨拶してから遊ぼうって誘った? リコラも言ってたけど、フェレス、ちょーっと甘えんぼさんだよ。分かってる?」
「にゃ……」
目を逸らされた。
「お行儀よくできないと、先輩たちは遊んでくれないよ?」
「に」
小さい声で、鳴く。視線を合わせようとせず、ちらちらと床の藁を見たり、獣舎を仕切る木壁を見る。
「フェレース。聞いてる?」
「に」
「ほら、ちゃんと挨拶しておいで。それで、僕も遊んでほしいってお願いするから」
「にゃ!」
わかったー、と尻尾を振り振り近付く。
この獣舎内ではやはり、スレイプニルが一番偉いようだ。他の騎獣たちはこっちを見ないフリして、耳が完全にこちらへ向いており、意識していた。
彼(彼女)の動向如何によって、態度を決めるらしい。
「にゃー。にゃにゃにゃ。にゃん!」
「……あーあ」
「どうしたんだ? 彼は何と言っているんだ?」
「ふぇれだよー、はやいんだよ、あそぼうよ、だって」
「……ひどいな」
「うん。ちょっと、おバカなんだよね」
「……リデルはその名の通り『統率者』だからな。ああ、リデルとは聖獣の名だ。彼女は気位が高くて、調教師も『面倒を見させてもらっている』と言うぐらいなんだ」
「へえ」
会話の最中も、フェレスは一生懸命お誘いを続けている。
鑑定するとスレイプニルは年齢がかなり高く、お母さんというよりはおばあさんに近いようだ。王家から下賜されたと聞いたが、年齢のせいで下げ渡されたのかもしれない。
「にゃーん。にゃ。にゃにゃにゃ。にゃ? にゃ?」
「……ふーっ。ひん」
返事をしてくれた。シウはアルゲオとの会話を止めてそちらを向いた。
最初の鼻息は溜息のようだった。
リデルはこちらへゆっくりと歩み寄り、シウの頭に鼻先をくっつけた。ちなみに彼女は馬よりもふた回り以上、いやもっと大きい。ドラコエクウスよりも大きかった。
「ひん、ひひん、ひん」
「あ、そうだね」
「ひん、ひん、ひひんひひん」
「ごめんね。僕もそうなんだ。だから、慣れてないんだ」
「ひひんひひんひひひんっ」
「うんうん、そうだね。じゃ、お願いします」
ぺこりと頭を下げたら、ギョッと目をむかれてしまった。本当に人間臭い。
「な、なんと言っているのだ?」
「聞けばいいのに」
「は?」
「リデルさん、人型は取らないの?」
「ひん」
「あ、そうか。ごめんね。みんなそこまで気が回ってないんだよ」
「ひひんひひん! ひひんひひん、ひんひん」
「許してあげてよう。悪気はないんだって。知らなかったのかな。あ、ていうか、いつから人型になってないの?」
「……ひひんひひんひひん」
「そうなんだ。ひどいねー。後でアストロ様に言っておくよ。さっきも貴婦人の対応について話したばかりなのにね。ご自身がやってたらダメだよねー」
「ひん」
相談に乗る形となって、一緒に首を振っていたら、アルゲオに掴まれた。
「なんだ、どういうことだ。父上に何を言うんだ。教えろ」
「わあ」
「ひんっ、ひひんっ」
リデルはシウが怒られていると感じたようで二人の間に鼻先を突っ込んできた。ただ、馬と違って大きいので、どんと押されたようになり、シウと共にアルゲオもしりもちをついてしまった。
「だ、大丈夫ですか、アルゲオ様!」
「坊ちゃま!」
駆け付けてくる家人たちを手で制し、アルゲオはその場に立ちあがった。
「いや、大丈夫だ。それより、落ち着け。リデルが興奮する」
「あ、はい」
「ですが」
そのまま彼等を手で制し、アルゲオはシウの手を引っ張って起き上がらせた。
「悪い。俺のせいだな?」
「ううん。リデルも気を遣わなくて良いよ。別になんともないし」
なんとかあったら、まず真っ先にフェレスが怒っている。しかし、彼は呑気なものだ。遊んでると思ってるぐらいで、いいないいなと尻尾を振っていた。
「あのね、リデルはね、下げ渡されてここに案内されてから、ずーっと腹が立っているんだって」
「え?」
調教師たちも驚いて話を聞いている。
「聖獣にもいろいろあるみたいだけど、彼女は元々王族の女性に育てられたから、淑女の生活に慣れていたみたい。だから、まさか獣舎に入れられて、他の獣たちと同じ扱いを受けるとは思ってなかったんだって。てっきり、以前と同じように高貴な女性と同じ扱いを受けると思ってたみたい。それが藁を敷いただけの部屋に通されて、騎獣や馬に喋るような口調で話しかけられて、自分が疎かに扱われたと思ったようだよ。だから意地でも人型を取らなかったんだね。そのせいで、人型にならない聖獣だと皆さんも思い込んだんじゃないですか?」
悪循環に陥ったのだ。もし彼女が人型を取っていたら、きっともう少し扱いも違っていただろう。実際、人型にならず、気楽な獣姿のまま過ごす聖獣もいるようなので。
そして、彼女は。
「と言っても、こんなところで、服もないのに人型には戻れないしね。彼女は人としての生き方を生まれた時から教え込まれていて、人の姿で裸になることはいけないことだと思い込んでいる。淑女教育を受けていたら、そりゃあそうだよね」
「あ、ああ、貴族の女性なら、死を選ぶほど、だ」
「うん。もちろんね、獣としての本性もあるみたいだから、この聖獣姿が嫌な訳じゃないんだって。ただ、淑女扱いしてくれないのが、ええと?」
「ひひん。ひんひん」
「うん、情けないんだって。あ、拗ねてたの?」
「ひん!!」
「あ、ごめんごめん」
ぷいっと横を向かれてしまった。
「……ずっと、リデルは怒っていたんですね」
調教師の男が落ち込んだように呟いた。
「そこまで強い感情ではないみたいだけど」
「ですが……わたしは調教師なのに、彼女の言葉が分からなくて、ずっとそれで、悩んでいたのです。考えたら、子供に話すような言葉づかいで接していました。彼女からすれば馬鹿にされたと思ったでしょうね」
「まあまあ。そもそも、王族に育てられたスレイプニルを引き受けたのだから、相応の暮らしをさせてあげなかった主が悪いんじゃないですか? 調教師さんは後でリデルに謝ればいいだけだし」
「え、あ、いや、あの」
「まだ、アストロ様っていらっしゃるのかなあ?」
「……シウ、まさか父上に文句を言うのか?」
「文句ではないけど」
「……いや、この件はわたしから、必ずきちんと、伝言しておくと約束する。だから――」
「あ、そうなの?」
「ああ」
「だって、リデル。今度はじゃあ、ドレス姿の時に会ってね」
「ひひんひん、ひひんひひん」
「あ、そうなんだ。じゃ、ちょっと遊んでいくね」
「今はなんと?」
「ドレスだと遊べないだろうから今乗せてやってもいい、だって」
ということで、フェレスも喜んで飛び跳ねている。
「ひひん、ひん」
「にゃー!」
あなたは乗せないと言ったら、フェレスが、えー! と文句を言っていた。
ほんの少し、フェレスが人型を取れるなら、面白い図が見られただろうなと笑ってしまった。
広場に連れ出されると、思ったより綺麗な景色が広がった。王都の王城近くということで、限りある土地だけれど、端から端までスレイプニルが走り回るにはなんとか足りるというぐらいの広さがある。屋敷を隠すようにして植えられた目隠し代わりの木々も見事に手入れされており、美しかった。
「良い庭だね」
誰にともなく呟いて、リデルを見上げた。
「ひひん」
そのまま乗っていいというので、騎乗帯は付けずに乗る。そのままだと全く足どころか手も届かないので、風属性魔法を使って飛び上がった。
調教師たちは階段を持ってこようとしていたが、唖然としてシウたちを見ていた。
鬣を持って、少しだけ走ってもらう。体高があって、象に乗っているみたいだ。いや、馬だけれど。シウの横にはフェレスが飛んでおり、くるくると回ったり、リデルの前や後ろを邪魔するかのように飛び跳ねていた。リデルは時折ひひんと鳴いて指導? しているようだったが、おおむね楽しく遊べているようだった。
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