180 芸術的文字表現
アリスは更に、ヒルデガルドのことも口にした。
「ヒルデガルド様が避難されてから、特に女性であることの大変さを理解しました。不思議ですよね、客観的に見ることができたんです」
「反面教師のようなものかな? 彼女、独特だったしね」
と苦笑する。
アリスも少し思い出したように視線を浮かせ、それから悲しげに笑った。
「気を付けようって、何度も思いました。同時に、わたしとヒルデガルド様の何が違うのかと、何度も考えました。同じように我が儘だったと思うんです」
「それは違うよ」
「ううん、いいの。根本的なところは同じだってことは、分かっているの。ただ、違う部分があったとすれば、わたしは彼女よりも少し早くそのことに気付いて、そしてわたしには友達がいたってことなの。洞穴での避難で、怖いって思うことが不思議となくて。最初は避難すると聞いて恐ろしかった。けれど、皆で集まって話し合って、そう、シウ君が出て行ってから……あ、自分達で頑張らないと! って思ったの。シウ君にばかり負担をかけちゃいけないって。それを皆で決めて、お互いに何がやれるのかって相談し合って」
アリスはにっこり笑って、うん、とひとつ頷き、自慢げに言った。
「わたしには、友達がたくさんいたの。素敵な友達がたくさんいて、お互いに相談しあえて。あの時、女性だからと守られてばかりでは、きっとダメだったのね」
「充分、役割を担ってたよね。それに、女子達のために専用の部屋を作ってくれたり、皆も協力してた」
「ええ、そうなの。岩石魔法で一番奥にお部屋を作ってもらった時はとてもびっくりしたわ。リグ君はカーテンを作るための蔓を持ってきてくれたし、皆で編んでくれて。お花が枯れないようにしてくれた人もいたの。料理だって重いものは運んでくれたわ」
懐かしそうに、思い出しながら彼女が言う。
洞穴での避難生活は大変だっただろうが、やはり思い出深いのだろう。
アリスの声が聞こえたのか、数人がこちらに参入してきた。
「たまに焦がした肉もあったけど、何故かそれがすごく美味しかったんだよね」
「あ、それは! 忘れてください!」
「忘れないよー。だって、本当に美味しかったんだもの」
「もう! 焦げていたのに、皆、勿体無いからって食べてくれたの。それは忘れてください~」
と恥ずかしそうに、けれどどこか楽しそうに、アリスは騒いでいた。
一頻り皆で騒いで食事も終えると、名残惜しい気持ちを持ちつつそれぞれが迎えもあってお開きとなった。貴族の子達は馬車で迎えがあり、商人の子達はまとまって馬車で帰って行った。
シウだけが最後まで残ったのは、フィリップに見せてもらえると言われていた例の本の件があったからだ。
貴族の場合、お愛想を真に受けてたら笑われるところだが、フィリップに限ってそれはないだろう。と思いつつも、おそるおそるフェドリック家の家令に聞いたところ、快く案内してくれた。
アレストロが横で「父上はそんな騙すようなことは言わないよ」と苦笑していた。
案内された客間には、すでにテーブルの上に本が数冊置かれていた。
大切なものだと分かるように、本の下はビロードでできた深紅の布が敷かれている。
シウは背負い袋をソファの上に置かせてもらい、そこから手袋を取り出した。
一緒に付いてきたアレストロが若干引いたのが分かったけれど、家令は満足そうに頷いた。これだけでも、本に対する態度の違いが分かる。
「触っても、よろしいですか?」
「もちろんでございます。旦那様からも、シウ殿には存分に楽しんでいただけるよう、格別の配慮をと承ってございます」
「ありがとうございます!」
ソファには座らず、テーブルの近くで膝立ちになって、本の表紙をそっと撫でた。
「……僕には、その、本当に、よく分からないんだけどね」
「そう」
と相槌を打ったものの、シウはあまり聞いていなかった。
うっとりとして本を開くと、美しい文字の数々が現れる。
「すごい! ああ、本当にすごいなあ。この本は初めて見ました。ロワル図書館や禁書庫にある、出版された本の索引本にさえ載っていない……」
「おお、そこまでご存知なのですか。実はこの本は、この世に一冊しか存在しないのですよ」
「えっ、原書ですか。複写もされていないんだ……。そんなに貴重な本を手に入れられるなんて羨ましいです」
「はい。旦那様もこちらを見付けられた時は大層お喜びになられておりました。ちょうどリグラフ坊ちゃまがお生まれになった時でございましたねえ」
「え、兄上が生まれた時に、買い付けに行ったのかい?」
「はい。そのことが後で奥様に知られてしまいまして、それはもう――」
と、最後まで説明しないまま、片目を瞑ってにこりと微笑んだ。
「アレストロ坊ちゃまも、奥さまのご出産の際には決して、余所事をなさってはいけませんよ。他の事は大目に見てもらえますが、あれはいけません。わたくしも、あの時の光景を思い出すたびに、妻を大事にしようと思えるのです」
「あ、うん。分かった。そうするよ。忠告ありがとう」
引きつった声で、アレストロが答えている。
その間もシウはうっとりと本を読み続けていた。
「これは、学術書としても貴重だよ。『帝国の貨幣価値と現代の貨幣』なんて、内容がとても精査されているようだし、文章もとてもしっかりしている。作者は……ルボシュク=ヴァリオンって人かあ。他に作品があったっけ。でもとても興味深い内容で、本としても面白いね。こちらの、『古代の彫像史』と『オーガスタ美術史』は作者不明なんだ? でも考察がとても個性的だし、この挿絵がまた、あ、これもアロイス作なんだ。すごい」
「……僕は君がすごいと思うね。本当に本が好きなんだねえ」
「本というよりも、文字かなあ。特にアロイス=ローゼンベルガーは芸術的だよ。この美しい流線型の形は誰にも真似ができないね」
「ふうん」
と、少し興味がなさそうな返事だったけれど、シウは続けた。
「特にね、インクとペンの使い方が超絶的に素晴らしいんだと思う。絶対にインク溜まりを作らないし、ラインを途切れさせないようにペンを持ち替えてる節すらある。もちろん、安定した文字を書くためにものすごく集中していただろうに、決して筆圧は高くないんだ。文字通り、流れるように書いている。こんなに自然と、書ききれるなんてどれだけの技術力があるのか。本当に尊敬するよ。僕はまだ一度も掠れた文字を見たことがないし、形の違う文字も見ていないよ。正確に文字が綴られている。だけど、これは判子や印刷ではないんだ。複写でもない。人の目で分かるギリギリの範囲で、違いがあるんだよねー」
うっとりとして、ふうっと大きな溜息を漏らした。
「素晴らしいなあ。芸術としても最高の本だ」
「そこまで感動されるとは、旦那様も望外の喜びでしょう。わたしも旦那様の趣味として知りましたが、単に綺麗だとしか分かっておりませんでした。そうして説明されるとまた違った見方もできて、なにやら面白いものでございますね」
アレストロよりも家令の方が話が分かって、シウはつい彼と盛り上がってしまった。
暫くして、つまらなさそうに、だけどそれを隠してほんのり苦笑しているアレストロに気付き、シウは慌てて謝った。
「ごめんね! つい、興奮して」
「ううん。なんだか、シウのおかげで、父上のことが少し分かったかも」
「え?」
「……だって、父上ときたらいつも仕事をされるか、この部屋で本を読んでいるかなんだ。小さい頃はそっと覗いて、父上の手が離れたら遊んでもらえないかしらと思っていたんだけどね、ちっとも本から目を離してくださらない。難しい顔をして睨みつけているから、てっきり大変なお仕事をされているんだと、子供心に遠慮していたのだけど」
片眉をひょいとあげて、アレストロは呆れたように言った。
「まさか、本を読んでうっとりしていたなんてねえ。せめてシウのように、もう少し顔に出してくれていたら、僕も父上の心配をしないで済んだのに」
「……フィリップ様って、そんな顔して本を見てたんですねえ」
アレストロと家令を交互に見て聞くと。
「そういえばそうでございますね。こう、こーんなお顔をなさって、ご覧になっておられます。ええ、確かに、お子様からすれば少々怖く感じられたでしょうか」
「へえ。……僕の知り合いにも怖い顔付きの人がいますけど、結構目の色で考えてることって分かりますよ。フィリップ様も、にやにやと眺めていたと思うよ、アレストロ」
「そうかなあ」
「もうちょっと傍に寄れたら良かったね! そうしたら楽しそうな目の色を見付けられて、アレストロも遊んでもらえたかもしれないのに」
と言ってふふふと笑ったら、アレストロも肩を竦めて笑っていた。
「そうだとしても、あの父上が小さな子供と遊ばれるかなあ。想像つかないよ」
「今度、綺麗な文字全集なんかを買い求めてプレゼントしてみたらどうかな。きっと喜ばれるよ」
「……そうかな。でも、父上の持っていないものを探すのは大変そうだ」
「アレストロも生産魔法のレベルが上がったんだよね? じゃあ、ペンを作ってあげるとか。ペンは結構難しいよ。僕もかなりの数を作ったけれど、まだ満足していないんだ」
「君、凝り性だもんね。でも、そうだね。弓矢作りが一段落したところだから、ちょっと目先を変えてみようかな。違うことをすれば、生産魔法にも磨きがかかるって、シウ、言ってたもんね」
「うん。いろいろやるといいんだよ。生産のレベル上げは、やっておくと身になるからね。普段からなんでも挑戦すると良いよ」
「……分かった。やってみるよ。この夏の課題にも良いね」
生徒達はそれぞれ、自由に課題を見付けて休み明けに発表することになっている。
これがある意味試験でもあるので、大変だ。
もちろん、休暇三昧の貴族の子達も多いので、例年、課題の売り買いもされている。
これで小遣い稼ぎをする者もいるそうだ。
シウも数人から声を掛けられて驚いた。
もちろん、断っている。そういうズルはいけない。
「今年の夏は忙しいけれど、楽しみだよ」
「頑張ってね。さて、じゃあ、僕もそろそろお暇するね。ついつい長居しちゃった」
家令にもお礼を言って、暗くなってしまった貴族街を抜け家まで帰った。
戻りながらも脳内に先ほどの文字の数々を思い浮かべる。当然ながら記録庫に取り込んだけれど、こればかりはやはり本物が良い。
実物を眺めてうっとりしてみたいものだと、贅沢なことを考えた。
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