第2話 アーロン・カティーナ・S・アクライド

 ゆったりとしたソファーに座り、ほっと紅茶を飲む。侍女がブレンドしてくれたハーブティーは、心身ともに優しくほぐしてくれる。鼻を抜ける香りが、広大な花畑を連想させた。

 今日はもっと公務に参加しようと思っていたのに、体力が続かない。昔はもっと体が強かったのに、随分と体力が落ちた。常にだるさがつきまとう。

 前公妃、カティーナ・アデライデ・K・アクライド様が、お亡くなりになってからだ。今もそのことを思うと、現公妃、アンジェラ・エドナ・J・アクライドの瞳には、涙が浮かぶ。

 こんこん、と楽しげなノックが響く。

「どうぞ」

「ご加減どうですか、母上」

「母上、りんごを持ってきましたよ!」

 途端に飛び込んでくるのは、愛しい息子たちの声だ。侍女には悪いが、この声や息子たちが連れてくる空気には、ハーブティー以上の癒やし効果がある。

 背を正し自分の両隣を叩けば、それぞれに息子二人が座り、アンジェラを挟む。微笑む母に、息子達も同じ優しさを返した。

「アーロン、あなたの騎士は見付かったの?」

「はい、母上」

 笑むアーロンに対して、弟のコンラッド・アンジェラ・A・アクライドは膨れた。

「ルーカスと言う、赤髪で背の高い、最近従騎士になった男です」

「きっと、意地悪なやつです!」

「それは違うぞ、コンラッド。ルーカスは、とても誠実な男だ」

 膨れたままふいとそっぽを向くコンラッドに、アーロンがたしなめる。そうすると、ますますコンラッドの頬が膨れるものだから、具合が悪いのも忘れて、アンジェラは笑った。

「ほほほ、コンラッドは本当に、アーロンが大好きなのね。でも、まだ知りもしない人を悪く言うのはいけませんよ。私達は国の王冠です。その輝きで国民を守り、導かねばなりません。最初から曇っていては、空神の樹木が悪い実をつけて、あなたの布団に忍び込みますよ」

「母上!僕はもう、悪い実に怯えるこどもではありません!そんな、悪魔を寄せ付ける実を布団に落とすだなんて、嘘だと知っています」

 向いていたそっぽから慌てて視線を戻し、訂正を迫るコンラッドに、アンジェラは片眉を上げ、それこそ少々意地悪な笑みを返した。こういうとき、アンジェラはまるで無邪気な少女のようになる。

 一連を見て、ふふ、とアーロンが笑った声に、コンラッドはついに項垂れた。

「意地悪を言ったのは、僕でした。訂正します」

 意地悪な笑みは、あっさりと消え失せた。

「よろしい!流石自慢の息子だわ。母は、貴方達を心から誇りに思います。私の宝石達」

 体調はすっかり良くなって、アンジェラは二人を両脇に抱き締めた。つむじにひとつずつキスをして、ただの母として我が子を愛でる。

「アーロン、マクミラン卿は最も信頼の置ける、我が国最高の騎士です。貴方を救った方だもの。そんな方が選んだ人ならば、母はなんの心配もありません。あとは、自らの努力ですよ」

「はい、母上」

 しっかりとした返事に、僕も応援します、とコンラッドが手を上げる。アンジェラは再び、愛しい我が子達を強く抱き締めた。

「誰が何と言おうと、母は貴方の一番の味方です。どうか、空神の樹木が枝先を伸ばし、貴方の飛び立ちを見守りますように」

 アンジェラの祈りに、アーロンはこれからを思い、瞳を期待に輝かせる。その瞳は、確かにアンジェラにとって宝石だった。




「現公妃、アンジェラ・エドナ・ジョアンナ・アクライドは、心を病んでいる」

 静かに、またひとつ爆弾が落とされる。ルーカスは、生きた心地がしない。母国語であるオクタヴィア語である筈なのに、別の国の言葉を聞いているようだ。もしくは、心を凍らせる魔術の類。

 ハリソンの隣に座るよう促され、ルーカスが座るのを見てから、アーロンも再び深く腰を下ろした。いつもはハリソンが座ってちょうどいいソファーが、小さなアーロンが座るととても大きく見える。その口から出るのが爆弾でも、彼のーー……彼女の輝きは失せない。

 アーロンは少し目を伏せ、テーブルの木目をじっと見ながら続けた。

「公妃が心を病んだのは、ウイットフォード家の悲劇が原因だ」

「殿下の出生を語るには、欠かせない事件だ。ルーカス、知ってるな?」

 ルーカスは頷いた。少し、アーロンを見るが、聞きなれているのだろう、アーロンは何も言わなかった。むしろ、自分の性別を偽る話をする上で、通らなければならない道なのだろう。

 それは、約十三年前の話だ。

「……アーロン様をご懐妊していた、前公妃のお体が弱いことをオズマント二世大公がご憂慮され、ご実家での出産をお許しになり、公妃はウイットフォード家に帰城されました。しかし、帰城された二週間後、賊に襲われ城は火を放たれ、全焼。その日ウイットフォード家は、身分関係なく殺され焼かれ、もしくは拐かされました。残虐窮まりない事件です」

 ルーカスはまだ十歳で、それでも衝撃的だったのを覚えている。おばかさんな幼子にとって、偉い人、というのは惨たらしく死なないと思っていた。それは、この国が平和だからだ。

 それを無残にぶち壊し、二つの国を悲しみの沼に沈めた、凄惨な事件である。

 前公妃、カティーナは、オクタヴィアの上流貴族の出で、ウイットフォード家はオクタヴィア国内にあった。オクタヴィアとアクライドの友好関係の象徴は、賊によって踏み躙られたのだ。

「アーロン殿下は、ウイットフォード家の悲劇で生き残られたお一人です。助けたのは」

 ちら、とハリソンを見る。

「……庭師のマクミラン卿、だと聞き及んでいます。産まれたアーロン殿下を抱き締め、乳母からアーロン殿下を託され、こどもがやっと通れる隙間から逃げたと」

「庭師、か」

 ハリソンが、ひとつ笑った。何か、引っかかる笑い方だった。

「ウイットフォード家の庭師は、有名だったからな。知ってるやつは知ってるんだよ。ルーカス・オブライエン、君もひとつやふたつ、聞いてるだろ?マクミランはメッキ製の騎士だ、とかさ」

「マクミラン卿、それは」

 腰を上げかけたアーロンを、ハリソンが微笑みで制した。自分が影で誹謗中傷を受けている、そんなことはそよ風でしかない。そういった、和やかな空気を作ってしまう笑みだった。

「事実です、殿下。俺はただの宿なしでした。名高い庭師の施しを受けていた、汚らしいガキが俺です。痩せっぽっちで汚かったから、植え込みの下に入り込んでいたのを誰にも気付かれなかったのです」

 噂を肯定している声は、なんの抑揚もなく、ただ事実を述べているに過ぎない声だった。

 ハリソンは本来、豪快でよく笑う男だ。アーロンの前とは言え、その男が出しそうにない波の立たない声色は、彼の見せない覚悟を思わせた。

 ひとつ、疑問が浮かぶ。植え込みの下?

「植え込みの下に、赤子の殿下と二人で?てっきり、俺は外に……」

 ルーカスも、疑問をただ口にしただけだ。赤子はどうしても制御出来ない、泣くか寝るかの生き物だ。そんなものと一緒に植え込みの下で、じっと賊が立ち去るのを待てたとは思えなかった。

 だから、ぽそりと、口にした。兄弟の多いルーカスは、赤子の難しさについてよく知っていて、だからこそ気付けた。

 呟いた自分に、とても静かに視線を送る二人のその様子に、ぞ、とした考えが過る。口にするのが恐ろしいし、馬鹿馬鹿過ぎる。突拍子もなさすぎて、よくこんな発想が思い浮かんだものだと、自分で自分を笑う。

 だって、今目の前に、助けられたアーロンがいるのに。

 まさか、そんなこと。

 その二人が、順番に答えを述べた。

「俺は、誰も助けちゃいない。前公妃が産んだ皇太子は、あの日賊に攫われている」

「助かったのは、マクミラン卿だけだ。だから、彼は英雄に仕立てられた。その後の辻褄を無理矢理合わせる為に」

 ーー…予感は、当たってしまった。笑おうとした口が、凍り付く。

 アーロンの黄金色の瞳は、湖面のように静かなままだった。静かなまま、つらつらと、真実を間を置かずに話し続けた。

「カティーナ前公妃は体が弱く、こどもが望めないと言われていて、アンジェラ公妃は妾として公室に入った。しかし、二人とも懐妊するという奇跡が起こり、前公妃は早産の可能性があると生家へと帰られ……出産が原因で崩御された。喪に服したところを、賊は襲い掛かったわけだ。母は、親友であった前公妃の死を悲しみ、あまつさえ遺された皇太子も救えなかったと知り、気が狂った。その日に産んだ我が子を、我が子と認識出来なくなった。カティーナ前公妃は男児を、アンジェラ現公妃は女児を身籠っていた」

 私の本当の母は、アンジェラ現公妃だ。

 性別すらも認識出来なくなり、偽りの皇太子としていなければならない。そうなってしまった悲しい出来事を、アーロンは歴史書を読むように、まるで先程のハリソンのように和やかに語り終えた。

 目が合うと、アーロンは微笑んだ。ルーカスはどんな顔をしてしまっていたのか、思わず口を抑える。これでは、どちらがこどもかわからない。

 詰め込まれたとんでもない真実に、ルーカスはゆるく首を振って、煮え立つ脳を冷ました。まだ終わってない話がある。

「それで、何故俺を?」

 皇太子は女だった、だから、騎士団に入りルーカスを側近に?だから、の部分がまだ抜けている。

「ぶはっ、君は思ったより、冷静な男だなあ」

「笑わないでください、隊長。今、必死に落ち着こうとしてるんです」

「む?いいぞ。ゆっくり噛み砕いても。時間は……あー、ないが」

「殿下、あなたの発言は、オブライエンを追い詰めています」

 久し振りに、アーロンのこどもらしい表情を見る。ハリソンに指摘され、困ったような焦るような入り混じった顔で、ルーカスを見た。

 そうすると、ルーカスの知る十三歳である。なんだかほっとして、初めてルーカスは、この部屋で笑みを浮かべた。

「いえ、構いません。噛み砕くのは、家で布団を被ってやりますので」

「ははは、確かに、それが一番だ。俺も良く、頭を抱えたもんだ」

 大人達が笑い出したのを戸惑いながら見つつ、そうか、とぎこちなくアーロンは頷く。戸惑いを流すためだろうか、一口、出されていた紅茶を飲んだ。

 恐らくすっかりぬるくなっているであろうそれを飲み、静かにソーサーに戻して、うん、と一つ頷く。

「まあ、簡単な話だ。私は大位を継げない」

「女大公になっては?」

「『アーロン・カティーナ・ジキスムンド・アクライド』は、永遠に男だ。だが、『私』は永遠に女だ。つまりだな」

 さらっと、アーロンは述べた。

「妻を貰っても後継ぎが出来ない。というか、妻を貰うこと自体、性別を偽った皇太子ではあまりにも障害が多すぎる。そして、そろそろ婚姻の話が、無視出来なくなってきた」

 ルーカスは殴られた気持ちだった。婚姻!何故それに気付かなかったのか、君主一族にとって結婚は義務だ。かけ離れた世界でも、それは知っていたことだ。

 アーロンは公位継承権第二位であり、ようはアクライドで二番目に大公になる権利を持っているこどもだ。大人びた様子からしても、それこそルーカスが想像出来無いほどの教育をされているし、心構えも知っているだろう。

 つまり、伴侶を持つことの重要さも知っている。同性愛者ならばまた話は変わるが、アーロンはそれ以前に、性別を偽っているのだ。ややこしいことになっている。

「もしや、お話が」

「ある。ベンテルーザ王国の第八王女が、恐らく固い。少なくとも、あと二年は引き伸ばせるが、それ以上はどうなるか……そこでだ!」

 すっくと、アーロンは立ち上がり、右手をルーカスに伸ばす。

 小さな手だ。同い年の女子と比べても、少々小さい。柔らかな手には、長い間騎士の訓練を真似ていたからか、豆が出来ていた。

「私は、騎士になることで継承権を破棄し、騎士として国に貢献し、弟であるコンラッド・アンジェラ・ウォーレン・アクライドを大公にする!その為に、どうかこの手をとって、私を騎士にしてほしい!」

 ルーカスは本能のようなものに突き動かされ、即座に立ち上がりその手をとった。本来ならば頭を垂れるべき相手に立ち上がったのは、同じ騎士の道を歩む者への敬意だ。そう、後付する。

 ああ、この人に仕えたい。

 本当は、幼き騎士見習いが浮かべた笑みは、カリスマに溢れていて、この方を大公にし仕えたい思いが更に膨らんだが、それを必死で抑える為の起立だった。

 いくらでも、仕え方はある。貴族ではなく農民の出である自分のやり方で、考え方で、柔軟に。ルーカスも、アーロンに誓いの笑みを返した。


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