公国の秘密
くに ほし
第1話 ルーカス・ローリー・M・オブライエン
もう、四年も前の話になる。
ルーカス・ローリー・M・オブライエンが騎士見習いに就いたのは、十八歳だった。インデペンデントスクールを卒業してすぐだ。
兄弟が多い農家に大学に進む金もなく、体を動かすのが好きで、かつ、アクライド公国の男子ならば騎士に憧れない筈がなかった。
主国であるオクタヴィア帝国は、軍が守護を任されているようだが、人口十万にも満たない小さなアクライド公国は騎士が領土を守っていた。元は王国だったアクライドはオクタヴィアに属してから公国となったが、騎士が守るのは属して三百年経っても変わらない。
さて、騎士見習いに任されることといえば、雑用が主だ。馬の世話、武器や防具、道具類のメンテナンス、加えて体力作り。暫くはこれをぐるぐると繰り返す。
オクタヴィアの壁と呼ばれるアクライドは、大型モンスターがよく現れる。海と国境とにも面しているので、海賊や山賊による人災も多い。いつ出動になるかわからないので、メンテナンスは馬鹿に出来無い。
疲れ果てた馬を労り、防具の何のかわからない血を拭い、武器の刃こぼれを直す。小刀を研ぐのは見習いの仕事だ。農家の出だからか、ルーカスはこういった作業が嫌いではなかった。
そこへ、ひょっこりと現れた金色の頭が一つ。新入りかと思いたかったが、なにぶんそれは幼すぎた。
「かくまえ」
金色が言う。朝日のような金色の髪に、同色の瞳。透けてしまいそうなほど、薄い色合いのこどもだ。中性的な丸い顔立ちに、天使かと思ったのは、あまりにも自分らしくないので放り投げる。
「は?かくまえって、お前」
「ルーカス・オブライエン!」
一緒に馬を磨いていた騎士見習いの仲間が、鋭くルーカスをたしなめる。
「城にいるこどもといえば、上流貴族以外にいないぞ!身なりでわからないか。これだから、農民は!」
確かに、ベストもワイシャツもスラックスも、ラフではあるがこどもが身につけているものはとても綺麗だった。いい布なのだろう、触らなくても滑らかさが伝わるし、ベストの刺繍は見事だ。
馬小屋は、騎士が住む区画の端にある。つまり、城内の一番はしだ。いるのは騎士しかおらず、騎士でもよりすぐりと研修中の見習いしかいない。
ぶるる、と馬がこどもの登場に手を止めてしまったルーカスへ、短く文句を言う。美しいたてがみを撫でて、ブラッシングを再開した。
「なんかよくわからんけど、どうぞ、貴族様」
大人気なくトゲを付けてしまったのは、普段農民の出を馬鹿にされることがあるからで、申し訳ないが八つ当たりだ。今、ルーカスをたしなめた男は成金貴族、そいつについてる三人ほどの男は、大商人の息子だか下級貴族だかで、ルーカスにとってとても、とっても素敵で最高な班構成なのだ。
トゲに気付いてるのか気付いてないのか、こどもは瞳をきらりと輝かせた。十にも届かない歳だろう、彼には馬はとても大きく見えるに違いない。
「美しいな」
「だってよ。よかったな、リアム」
「リアム?夜と花の向こう側に出てくる、妖精の名前からとったのか?あれはよい歌劇だ」
へえ、とルーカスは感心して、頷いた。ルーカスは見たことないが、馬を任された時にそういった素晴らしい歌劇があると、指導してくれた先輩が言っていた。
こどもは周囲を見回し、再びリアムを見上げた。美しい靴が、馬小屋の泥と藁に汚れている。うんと綺麗にしていても、拭えない汚れはあって、それにこのこどもは不釣り合いだった。
小屋の窓から差し込む光が、こどもを照らしている。もう一度、天使のようだと思う。
「やっぱり綺麗だ。君は筋がいいな。リアムも、こんなに美しくしてもらえて誇らしいだろう」
そんな、こどもらしからぬことを神託のように述べるものだから、ルーカスのトゲは全て吹き飛んだ。
自分より十以上下であろうこどもの言葉に、ルーカスは新しい風を覚えたのだ。今迄抱えて来たものやしがらみを景色ごとざあと変える、光の風である。馬小屋であるとか、研修中であるとか、自分の身分とか、全てを吹き飛ばしてくれた。
「あっ、いた!」
その風をピタリと止めたのは隊長の鋭い声だ。悲鳴に似たそれに、こどもはぎくりと振り向いた。
よりすぐりの部隊を率いる若き隊長を、そのときルーカスは初めて間近で見た。見習いになった時の挨拶や訓練で、遠くから見るのみだ。国の英雄の一人が何故ここに、など、愚問だろう。
「しまった」
そう短く言って、さっさかと馬小屋の反対側へと出て行ったこどもを、隊長は真っ青な顔で追い駆けた。
「またですか!お戻りください、アーロン殿下!ここは貴方様のくる場所ではないと、何度も申しているではありませんか!」
「許せ、マクミラン卿ー!」
「駄目ですー!」
馬小屋にいる馬達が、突然の騒動にいっせいに騒ぎの方を向き、蹄を軽く鳴らし始めた。繊細で賢い馬は悪いことでなくとも騒動に敏感で、見習い騎士より修羅場を知っている彼らは、今の騒ぎを楽しんでいるようだった。
対して、馬小屋当番の見習い騎士達は凍り付いていた。英雄である部隊隊長を間近で見るのも心臓が縮むほどなのに、その隊長が言った呼称はそれを握り潰すほどだ。
血の気が引く。アーロン殿下、城に住んでいるアーロンと言う名のこどもで、殿下と呼ばれるのは一人しかいない。
「……アーロン・カティーナ・ジキスムンド・アクライド皇太子」
誰かが、この国の皇太子の名前をフルネームで呟く。ダニエル大公の一人目の息子、大公の弟君に次いで玉座に近いこども。産まれながらの英雄とも揶揄される、奇跡の人。
将来、自分達が忠誠を誓い、守り輝かせる人だ。血の気が引いた。どんな態度をとっていたか、思い出すだけで首筋が寒い。何かあったら切られてたかもしれないあたりなんか、特に寒い。城にいるこどもは上流貴族だけ、王族がここまで来るとは誰も考えていなかった。
それが、初めてルーカスがアーロン皇太子殿下を見た日だった。悪いことばかりを想像し、切り落とされると思っていた首は胴体と別れを告げることはなく、徐々に知っていったのは、アーロン殿下はとても変わり者だということだった。
どうやら、ルーカスが騎士見習いになったぐらいから、アーロンは敷地内に入り込んでいたようだ。そういえば隊長が、またですか、と言っていた。本来なら騎士見習いがいる教習所に、大隊長ほどの人物がやって来ること自体、おかしなことだった。忍び込んでくるアーロンを警戒して、待機していたのだ。
何度も追いかけられ、何度も捕まっては何度も叱られ、それでもやってくる幼い皇太子に、何かあったのか心が折れたのか、遂に堂々と訓練に参加しはじめた。
勿論、軽い体力作りと物資のメンテナンスを見学するのみだが、アーロンは毎日来ていた。
訓練所は広い。ルーカスがアーロンと言葉を交わしたのは、馬小屋での一度きりだ。あるときは模擬戦場で、あるときはグラウンドで、四年で見習いから従騎士へ叩き上げられる見習い達とともに、アーロンを目撃した。
「おお、見事な剣筋だ。殿下は剣の才能がある」
建物の窓から、切り取られた絵画のように殿下を見下ろす。遠いグラウンド、樹木の向こうで、見習い達と模擬試合をしていた。美しく剣がきらめき、舞いのように相手を打ち負かした。
「なあ、俺達もうかうかしてられないな」
「ジェームズは負けるだろうな」
「今度こそ吠え面かかせてやるからな、ルーカス!」
そう言うのは、あの日俺をたしなめたむかつく貴族様だったやつだ。この男と肩を並べ冗談を言い合う友になるほど、あの瞬間から時が経っていた。
つまり、四年。ルーカスは、従騎士になる。
あのとき、落ちなかった首が、つ、と鳥肌を立てる。刈り上げた髪が続いてざわめき、指先が痺れた。
従騎士になり、一週間目。今度、大型モンスターの渡りを監視しに行く任に付いた。周囲に害を及ぼさず、十匹の空クジラが飛ぶのを見守るのも、この国の騎士の勤めだ。
ハリソン・グレッチェン・J・マクミラン卿に呼ばれたのは、そのことについてかと思った。加えて、呼び出されたのは他にもいたと思っていた。初任務前の心構えについて、とか、浮ついていないかの確認、だとか。
しかし、入った部屋には二人しかいなかった。普段ならばそこへ座るよう促される、応接する為のソファーと低いテーブルに、この部屋の主であるハリソンが座っていた。ハリソンはとても気さくな人で、必ず来客はここへ座らせ、自分は向かいへ座った。彼がいつもと逆に座っているのは、別の人物がゆったりした一人用のソファーに座っているからだ。
ハリソンが座っている向かいに、指先をしびらせる原因が、煌々と座っている。ピンと伸ばした背筋、小柄ながらも溢れでる存在感。アーロンは薄い色の瞳でルーカスを見上げた後、ハリソンにひそりと語りかける。
「彼か」
「はい」
短い会話が、心臓を絞る。何がだ。アーロンは一つ頷いて、立ち上がった。何故、頷いた?
わざとだろうか、明かりも付けていない薄暗い部屋、窓から差し込む日の光で、色素の薄いアーロンは透けて見えるようだった。ルーカスはそれほど、この皇太子を神聖視していた。
誇りという言葉を教えてくれた幼き王位継承者。自分は、誇りをもってこの方に仕える為に強くなりたいと、あの日から、ここまで。
アーロンと会ったのは、あの馬小屋のみだ。この人は、俺を覚えてはいない。それでもルーカスは、アーロンの為に剣を振るおうと決めていた。この国に誓っていた。
「ルーカス・ローリー・メルヴィル・オブライエン」
その誓いの主に、祝福された聖名まで含めたフルネームで呼ばれて、息が止まる。自分の名前が、まるで英雄のもののようだ。この瞬間を、ルーカスは一生忘れないだろう。
「私がマクミラン卿に頼んで、適任の騎士を呼び出して貰った。急な呼び立てへの応じ、感謝する」
「なんでしょうか」
なんとか、短く返事を返す。ほ、と安堵したのはアーロンの方だった。
薄金色の瞳が、きらりと輝く。
「ルーカス、君は、口は硬いか?」
突然なんだろう。ルーカスはゆっくりと呼吸をして、言葉を集めることに全神経を使った。
「申し訳ありませんが、判断しかねます。私は私の心に訪ね、それが言ってはならないと誇りが言ったならば、どんな拷問でも死んだ貝のように口を閉ざします。しかし、逆も然り。それが言わねばならぬことと判断したら、私は例え己の命が掛かっていても、それを信頼の置ける仲間に話します」
正解だとは思わない。ただただ、自分に正直に答えた。
だが、アーロンにとっては正解だったらしい。
ほんの少し目を見開いたあと、口を抑えて小さく笑った。ふふ、と短く肩を揺らし、失礼、と向き直る。十三歳になるこどもらしからぬ笑い方だ。アーロンの兄弟は、もっと歯を見せながらゲラゲラと腹を抱えて笑うし、なんだったら転げまわることもある。
「ふふ、ふ、これはいい。ふふふ、こんなに笑ったのは久し振りだ。ああ、ルーカス、君は私の理想の騎士だ。私もそう有りたい」
息が止まる。こちらに向いたアーロンの笑みが、とても眩しい。
「どうか、今から話すことを聞いて、君が口を閉ざすよう判断することを、君の中の誇りと空神の樹木に祈ろう。ルーカス・ローリー・メルヴィル・オブライエン、君に国の、私の秘密を打ち明ける」
アーロンの口から離れていた指が、アーロンの右胸の上に落ちる。心臓を守る敬礼のような姿に、ルーカスは何故だが泣きそうになってしまった。
その理由はもっとずっと後に、心に染み渡るように知る。今のルーカスには未来圏から吹き荒ぶ、光の柱とも錯覚する、清涼な風に吹き飛ばされないよう、心臓を止めてしまわないよう、息を止めるのがやっとだった。
「私は、女だ」
風の中心が、これから始まる激動の入口を静かに語る。
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