後編

 紗和子が頭を預けている太一の背中に力がこもった。長い登り坂にさしかかったのだ。

「紗和」

 かすかに息を弾ませながら太一が呼んだ。なにも坂道がきついこんなときまで話をしなくたっていいじゃない、と紗和子は思う。

「がんばれ、兄ちゃん」

「おまえ、少し、太った、んじゃねえの」

「失礼な」

「紗和」

 逸らそうとした兄の話は元のところへ戻ってきてしまったようだ。紗和子は観念して、なあに、とできる限りやわらかい口調で応じた。

「おまえは、どう、なんだよ」

「どうって、なにが?」

「結婚。わかる、だろ」

 紗和、と太一はまた云った。

「親父や母さんを、安心させてやろうって気には、ならねえのか」

 安心ね、と紗和子は呟いた。太一の背に寄りかかることをやめ、姿勢を正すと自転車が大きく揺れた。おいっ、と太一が慌てる。

「さっきから動くなっての。コケる」

 紗和子は首を逸らし、また空を見上げた。限りなく黒に近い紺色の闇に、無数の煌めきが散らばっている。冬の空に比べ、夏の空は寂しい。天の川とそれを渡る白鳥もうっすらとしか見えない。さっきまではとても綺麗だと思っていたのに、と紗和子は思った。心ひとつで見える景色なんか簡単に変わってしまう。

「結婚すれば安心なのかな」

 紗和子の声が聴こえなかったはずはないのに、太一はなにも云わなかった。

「ひとりよりふたりがいいって、こどもがいれば安心って、ほんとにそうなのかな」

 夫を支え、子を産み育てるだけではなく、社会で働き続ける選択もできるようになったいま、女の人生の選択の幅は本当に広くなった。結婚しなかった女が、かず後家やオールドミスなどと呼ばれて差別されていた時代は遠ざかりつつある。それでもまだ負け犬なんて言葉があるように、結婚しない女への風当たりは弱くはない。

 兄ちゃんにはわかんないかもしれないけど、と紗和子は云った。

「女って結構大変なの。まず彼氏。だいたいさ、恋人はいるの、からはじまるんだよね」

 いるって云えば、結婚はしないの、結婚したらこどもはまだ、ひとりめ産んだらふたりめは、ふたり産んで安心してるとさ、そのうちお子さんの結婚はってなって、最後は孫はまだ、ってなる、と一気に捲し立てると息が切れた。

「紗和」

「どれだけ仕事が充実してても、友だちや仲間と毎日楽しく過ごしてても、恋人のひとりもいなければ、こいつ幸せじゃないって思われる。んと、違うな」

 私たち自身、自分で自分を幸せじゃないって思ってる、と紗和子は瞳を眇めて空を睨んだ。

「刷り込まれてんだろうね、価値観をさ。恋人作ってこども作って孫に囲まれて死ぬのが幸せなんだ、って。それがさ、間違ってるなんて云わないよ。幸せなんだろうね、きっと。だけど」

 私にとっては違うかもしれないの、と紗和子はきっぱりと云った。

「仕事してるとき、私は幸せだよ。そりゃあ、しんどいことも厭なこともいっぱいあるけどさ、じゃあ、家庭のなかにしんどいことはないの、厭なことはないの、って訊いてみたいよね」

「結婚したくないってことか」

 そう呟いたあと、ごめん、と太一は云った。

「やっぱしんどい。降りて、紗和。歩こう」

 ああ、そうだよね、ごめん、と紗和子は云って荷台から降り、自転車を押す太一と並んで歩きはじめた。

「したくないわけじゃないの。でも」

 紗和子だって人生をともに歩むパートナーを得たいとは思う。けれど、それが必ずしも結婚という形でなされるとは限らない。そんな簡単なことに紗和子が気づいたのは、ごく最近のことだ。ねえ、兄ちゃん、と紗和子は云った。

「もしもさ、もしもの話だよ、私のパートナーが、ううん、そうだな、こういう云い方は厭だけど、ちょっと普通じゃなかったらどうする?」

「普通じゃない?」

 太一は傍らを歩く妹を見下ろした。やわらかそうな猫っ毛が夜風に揺れている。

「たとえば」

 慎重な口ぶりで尋ねてくる兄を軽く笑っていなしたあと、紗和子は口を開いた。

「たとえば、うんと歳上、とか。すっごい歳下、とか。あとは、……女、とか」

「女?」

 太一は思わず足を止めそうになってしまう。

「たとえば、だよ。たとえば」

 だけど、あってもおかしくないでしょ、という紗和子の横顔に、太一は探るような眼差しを向ける。

「人生をともにする魂の片割れが、常に年齢の近い異性だとは限らないもの」

 理屈はわかるけど、と太一は云う。

「理屈じゃないよ、兄ちゃん。世の中の女がみんな、こどもを産むために生きてるわけじゃないんだから」

 黙ってしまった太一を横目で見ながら、紗和子は内心で、ごめんね、兄ちゃん、と思った。常識的でクソ真面目な兄ちゃんに、こういう云い方はちょっときつかったかな。


 なあ、紗和子、と長い沈黙ののちに太一は云った。家まではもうあと五分もかからないところまで来ている。

「俺、思ったんだけど」

「うん」

「俺たちって寄せ集めの家族じゃねえか。だけど、そのわりにはまあまあ上手くやってると思わねえか」

 親父と俺、母さんとおまえが努力した結果だよな、と太一は云った。

「そうだけど」

 突然なにを云いだすのだろう、と紗和子は思った。

「血が繋がってねえぶん、心で繋がろうと思って、みんな頑張ったんじゃねえかと思うんだよ。絶対に切れねえ絆だとは云わねえけど、もしもこれからなにかがあったとしたって、いまさら他人にはなれねえだろ」

 血は水よりも濃い。けれど、その血よりも濃いものはある。

 時間が作るなにか、あるいは、ともに過ごした時間そのもの。誰かとともに過ごす時間は、互いのあいだになかったはずの絆を繋ぎ合わせ、切れてしまうかもしれなかった縁を結び合わせる。

 だから俺、思うんだけど、と太一は片手を伸ばし、紗和子の頭をぐしゃぐしゃっと撫でまわした。

「おまえが、魂の片割れだと思って連れてくる相手なら、それが誰でも、親父も母さんも俺も、歓迎すると思う。時間がかかることもあるかもしれねえけど、他人同士家族やってるくらいだから、あと何人増えたって変わらねえよ」

 そうだろ、と太一は云う。

「兄ちゃん」

 ごめん、と紗和子は云った。

「極端なこと云って」

「おまえにとっちゃ、そう極端でもねえんだろ」

 不意を突かれた紗和子は返す言葉を失って黙り込んだ。兄は私のなにを知っているのだろう。

「怯えるなよ、紗和。大丈夫だから、怖がるな。おまえがなにを云っても、なにをしても、もうできちまった絆はなくならねえ。もしもおまえがなにかすげえ間違ったことしたとしても、俺が一緒に謝ってやるし、一緒に戦ってやる」

「……間違い」

「もしも、だ。もしもの話だ」

「兄ちゃんの人生滅茶苦茶になるかもしれないじゃん。同性愛くらいならともかくさ、私が人殺しだったらどうするの」

 紗和がそんなことにしでかしたら俺だけじゃすまねえな、と太一は云った。

「親父も母さんも、それから彼女も人生滅茶苦茶だ。でも、それでも一緒に詫びてやるよ。そういう覚悟で俺たちは家族やってんだろ」

「ば……、莫迦じゃないの、彼女まで巻き込むことないじゃん」

「でも、俺は彼女と結婚する。家族になる。家族になるってのは、そういうことだ」

 芽生えてしまうかもしれない邪悪も、避けては通れない誤謬も、なにもかもを飲み込み、受け入れてともに立つことが家族になるということだ、と太一は云う。いったいどこの誰がそんな大仰な覚悟を抱いて生きているというのだろう、と紗和子は思った。兄ちゃんは真面目すぎる。

「人生滅茶苦茶になっちゃうよ」

「だからやるな」

 へ、と紗和子は素っ頓狂な声を上げた。

「覚悟はあるさ。だけどそんな物騒な覚悟とは、できれば向かい合いたくはない。あたりまえだろ」

 たださ、と太一は軽く笑った。

「おまえがなにかに悩んでるみたいだったから。迷ったら好きにやってみろよって云いたかった。おまえがどんな生き方してもさ、俺たち家族はおまえを見捨てたりなんかしねえし、できねえ」

「じゃ、なんであんなこと云ったの」

「あんなこと?」

「父さんとママを安心させてやれなんて、あんなこと」

 そりゃあさ、と太一は肩を竦めた。似合わない仕種に紗和子の頬が思わず緩む。

「自分たちが死んだあとも、自分たちと同じようにおまえの傍にいてくれるやつがいるって思えば少しは安心できるだろ。親父たちだっていつまでも若くないんだ。自分がいなくなったあとのことが心配にもなるさ」

 できることなら自分たちと同じくらいに紗和を大事に想ってくれるやつに、紗和の傍にいてもらいたいと思うのは当然だろ、と太一は云った。

「安心って、そういう意味」

 紗和子はずっと引け目を感じていた。結婚もせず、こどもも産まず、親に満足を与えてやれない自分に。その引け目がだんだんと負い目に変わり、いわれのない罪悪感さえ抱くようになっていた。

 だから、誰かいい人でもいないの、と尋ねる母の声は、いつしか紗和子のなかで勝手な変換をされるようになっていた。

 ――結婚もできないなんて、恥ずかしいったらありゃしない。ママに孫の顔も見せてくれないなんて、親不孝な子ね。ほかの人にできてることが、なんであんたにはできないのかしら。

「そんなわけねえだろ」

 まるで罪を告白するかのように、ぽつぽつと呟いた紗和子に、呆れたような声で太一が云った。

「わかりやすいからな、結婚や出産は。仕事や友情なんかより、どうしてもそっちに傾くのは仕方ねえよ。家族ってのが切りたくても切れない絆だってことを、親父と母さんはよくわかってる。身をもって苦労してるからな」

 簡単じゃねえのはおまえにもわかるだろ、という太一の声に、紗和子は素直に頷いた。

「価値観なんだ、そう簡単には変えられない。だけど最後は絶対に、おまえの幸せを願うに決まってる。俺たちが頑張って頑張って家族をやってきた時間を信じろよ」

「頑張って……」

 そうだ、と太一は云った。

「ただ黙って突っ立ってるだけでできる絆なんかねえよ。血が繋がってたって努力は必要だ。俺はそう思う。俺たちは人の倍も努力した。だからいまがある。そうだろ?」

 うん、と紗和子は頷いた。

「まあ、おまえはもう少し努力したほうがいいかもしれねえけどな」

「なにそれ」

「自分のことを話すのも努力だぞ。黙ってちゃわかんねえよ、おまえの仕事も、気持ちも、ほかのことも、もっと話せ。親父も母さんもそれを待ってる」


 ずっと聞こえていたはずの自転車のチェーンの音が、そのときになって耳に届きはじめ、紗和子は自分たちがすでに実家からわずかのところにまで歩を進めていたことに気づいた。

「兄ちゃん」

 ん、と太一は首を捻って紗和子を見た。

「なんでそう説教くさいの、いつもいつも」

「兄貴だから」

「は?」

「おまえが云ったんだろ。太一がお兄ちゃんねって。俺が上なんだから説教すんのはあたりまえだろ」

「なに、その上から目線」

 同い年のくせに、と紗和子は云う。

「じゃ、おまえが姉ちゃんになりゃよかっただろ。どっちだってよかったんだから、俺は」

「云えばいいじゃん、そういうふうに」

 兄ちゃんだって云わないことあるじゃん、と紗和子は云った。なによ、私ばっかり悪いみたいに。うるせえな、と太一は首を振る。

「着いたぞ」

 太一が止めた自転車の前かごから荷物を下ろし、紗和子は、ふん、と鼻を鳴らした。

「結婚するからって偉そうになっちゃって」

 素直におめでとうって云えばいいのに、私、と紗和子は天邪鬼な自分に内心で呆れてしまう。

 太一は、素直でない妹の態度に腹を立てる様子もなく、腰と腕を伸ばしながら夜空を仰いだ。

「お、すげえ、星」

「いまごろ気づいたの?」

 荷物を抱え、玄関に向かって歩き出した紗和子の背中に太一が云った。

「俺、星みたいな家族を作りてえな」

 はあ、なに云ってんの、とまたもや素っ頓狂に叫んで紗和子は振り返る。こんな大声を上げれば、家に入った途端、深夜に騒ぐなと思いっきり叱られるに違いない。

「星って昼も夜もそこにあるだろ。昼のそれは俺たちに見えないだけで」

 太一はにやりと笑いながら空を指差した。

「人生が明るいときにはさ、見えなくていいんだよ。だけど、生きるってのは明るいばっかりじゃねえ。いろんなことがあるからな。人生が暗く見えて、周りのことがよくわかんなくなったときに、こうやって光って目印になるみたいなさ、そういう家族」

 星はいつでも空にある。見えなくても数えられなくても、いつでも。

 意味なんかない。言葉もない。でも、ただそこに光がある、それだけで救われることもある。

 家族も同じだ、と太一は云うのだ。人生が暗い闇に閉ざされたとき、おかえり、と背中を抱いてくれ、ふたたび明るくなったときには、いってらっしゃい、と背中を押してくれる、そんな存在だと。

「私にもできるかな……」

「おまえだってやってきただろ」

「そうかな」

「そうだよ。だから俺とおまえは家族なんだ」

 兄ちゃん、と紗和子はからかうような口調で云った。うっかり泣きそうになっている声に気づかれたくなかったからだ。

「なんだ」

「もしかしてさ、ほんとにマリッジブルーなんじゃないの?」

 紗和子は太一に背を向けて玄関へと歩き出した。太一はそんな妹を、なんで、と云いながら追いかける。

「云うこといちいち大袈裟だし。明日、それ彼女に云ってもいい」

「やめろ」

「彼女もちゃんと知っといたほうがいいと思うんだよね、兄ちゃんのこういううざいとこ」

「うざいって云うな」

「じゃあなに、ロマンチストとでも云ったほうがいい?」

 いいからとにかくやめろ、やだなあ照れてるよ、兄ちゃん、などと玄関の前で云い争っていると、不意に内側から扉が開いた。鬼の形相の母が仁王立ちして待ち構えている。

 近所迷惑でしょ、早く入りなさい、と叫ぶ母の前で太一と紗和子は顔を見合わせる。母さん、ママ、とそれぞれに呟いたあと、ふたりはまるで図ったかのように声を揃えた。


「ただいま」

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ただいま 三角くるみ @kurumi_misumi

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