ただいま

三角くるみ

前編

 二泊三日の小さな荷物を片手に持って改札を出た紗和子さわこを出迎えたのは、自転車に乗った兄の太一たいちだった。

 がっしりとした体格とさっぱりとした短髪のよく似合う兄の姿を目にするたびに、紗和子の脳裏にはいつも、健全、という言葉が思い浮かぶ。そして、劣等感でも嫉妬でもない、そのくせどこか腹立たしさを孕む安堵を覚えるのだ。

 そんな自分を悟られたくなくて、つい兄に対しぶっきらぼうな口をきいてしまう紗和子は、それが兄、ひいては家族にだけ見せることのできる甘えにほかならないということには、いまだに気づけないでいる。

「え、自転車?」

 車で来てくれればよかったのに、と不満声を上げる紗和子に向かって顔を顰めた太一は、いいだろ別に、とぼそりと云い返す。

「どうせ俺が漕ぐんだから」

「それはまあ、そうだけどさ」

 時間かかるじゃん、と紗和子が云えば、どっちにしたって遅いんだから同じだろ、と太一が云う。

「それよかおまえ、もう少し早い時間に来られなかったのかよ?」

 もう終電じゃねえか、母さん、メシ作って待ってたんだぞ、という兄の言葉を聞こえないふりでやり過ごし、紗和子は自転車の前かごに持ってきた荷物を無造作に突っ込んだ。

「はい、よろしく」

 おまえなあ、と太一はそれでもサドルに跨ると、ほれ、と顎をしゃくった。紗和子は太一の背中に自分の背中を預けるようにして、うしろ向きに荷台に跨った。

「もうちょっと、こう、女らしい座り方とかできないのかよ」

「パンツだからいいの」

「パンツ?」

 ズボン、と紗和子は兄にもわかるように短く云い直した。白いシャツと黒い細身のパンツは、場の雰囲気に合わせたジャケットさえ羽織ってしまえば、どこに行くにも誰に会うにも過不足のない装いとなって、忙しく働く紗和子を守る戦闘服になってくれる。

「はい、出発」

 わざとらしいため息をついた太一は、それでも、よいしょ、という小さなかけ声とともに自転車を漕ぎはじめた。紗和子の視界で景色がうしろ向きに流れだす。駅の灯りが遠ざかるにつれ、日常も遠ざかっていくような気分になった。


「ひさしぶりだな」

 背中越しに太一の声が聴こえた。

「ん、そうかなあ」

「そうだよ」

 正月以来だろ、と兄は云い、そんなに忙しいのかね、芸能事務所のマネージャってのは、と続けた。

「モデル事務所ね」

 どっちだっておんなじだよ、と太一は云う。

「五月の連休も帰ってこねえし、今回だって母さんが強く云わなきゃ、帰ってこないですませるつもりだっただろ」

「そんなことはないけど」

「けど、なんだよ?」

 帰ってきたってとくになにがあるわけでもないし、と紗和子は思った。

 首都の西のはずれ、山を切り開いて作られた住宅街が紗和子の故郷だ。就職をきっかけに実家を出てじきに十年。勤め先のある都心からは電車で二時間ほどもかかるこの街へは、年に二、三度も顔を出せばいいほうだ。去年は二度、一昨年はたしか一度しか帰らなかったっけなあ、と紗和子は思い出した。

 だいたいさ、と太一は云った。

「おまえみたいな無愛想鉄仮面で、モデルのマネージャなんてそんなチャラい仕事、ちゃんと務まんの?」

「チャラくないってば」

「モデルだ、タレントだ、ってふわっふわした連中との仕事だろうが」

 二級建築士の資格持ちで、専門職として市役所に勤めている兄ちゃんからすれば、そう見えても仕方ないのかもしれないけどね、と紗和子は思った。

「別にチャラくない。みんなまじめに働いてんの」

 莫迦にしないでよ、と紗和子が云うと、悪い、と太一は存外素直に謝った。

「それにしたって、つきあいとかいろいろあんだろ。愛想のひとつも云えねえようなおまえに、他人様の面倒なんかみられるのかって話だよ、俺が云いたいのは」

 仕事だからね、と紗和子は云った。

「家族といるのとは違うよ」

 太一の口の悪さが、自分のことを心底案じてくれているがゆえのものだということはよくわかっている。人懐こい面もあるくせに、基本的には無愛想で無表情な妹は、だから笑いさえ交えながら穏やかに応じた。

「これでもけっこう頼りにされてるんです。若い子には意外に受けるんだから、この無表情」

 紗和子は最近移籍してきたばかりで、目下のところ彼女の最大の関心事である、あるモデルの顔を思い浮かべた。

 高校を卒業したばかりの彼女はマネージャである紗和子に対して、頼り甲斐がある、と素直な顔を見せるばかりではなく、主張するべきところは主張する強さを持っている。それに、新しい仕事に積極的でありながら、望まない仕事には決していい顔をしない向上心も持ち合わせているし、可愛らしいパーツが絶妙に配置された美しい顔立ちと百七十センチを超える長身にも恵まれているのだ。うまく磨けば世界にも通用する素材かもしれない。

「そんなもんか」

「そんなもんだよ」


 人気が少なくなるにつれ、太一は自転車のスピードを少しずつ上げていく。

 紗和子は背中に太一の熱を感じながら、ふと夜空を見上げた。東京の西のはずれにあたるこのあたりでもちょっと珍しいと思えるくらい、星が綺麗に見えた。街灯さえろくにないせいかな、と紗和子は思った。夜がやけに濃いような気がする。

「なあ、紗和」

 少しばかりあらたまった調子で名を呼ばれた紗和子は、なに、と気の抜けた声で返事をした。

「俺、結婚することにした」

「知ってるよ。そのために帰ってきたんだから」

 明日挨拶に来てくれるんでしょ、彼女、と紗和子が云えば、太一はまるで照れてでもいるかのように、ん、と答えた。

「なによ、どうしたの、兄ちゃん。マリッジブルー?」

 紗和子はわざと声に笑いを滲ませ、太一の背中に背中をぶつける。

「おまえはしねえの、結婚」

「それ、私に訊くかなあ」

「オトコいただろ」

「いつの話よ?」

 忘れたよ、けど、いつだったか家にまで連れてきてさんざんいちゃついていったじゃねえか、と太一は云った。紗和子は乾いた笑い声を上げた。

「とっくに別れたって」

「いつ?」

 忘れたあ、と紗和子は答えた。もうずいぶんと前に別れた元恋人の、オレと仕事とどっちが大事なんだよ、というみっともない台詞は忘れようにも忘れられないのに、顔となると、これがまたさっぱり思い出せない。

「忘れたって、おまえ……」

「私のことなんかどうでもいいじゃん」

 兄ちゃんは、と紗和子は尋ねた。

「俺がなんだよ?」

「彼女、どんな人なの?」

「会えばわかるよ」

 教えてよお、と紗和子は甘えた声を出す。

「うざい小姑になりたくないもん。ねえ、どんな子?」

 市役所の子なの、とか、どうやって知り合ったの、とか、もしかして合コン、とか、兄ちゃん合コンなんか行くんだ、とうるさく喋り散らす紗和子の言葉の間隙を縫って、そうだなあ、と唸る太一の声が耳に届く。まったくどんなときもクソ真面目なんだから、と紗和子は思った。

「俺を守ってほしいって、はじめて思った相手」

 はあ、と紗和子は素っ頓狂な声を上げて思わず背後を振り返った。紗和子が大きく動いたせいで、漕いでいた自転車のバランスを崩しかけた太一は、ハンドルをぐっと握って、危ねえな、と強い口調で云った。

「守ってあげたいって思うもんなんじゃないの、そこは」

「危ねえから動くな、紗和」

 ねえってば、と云い募る紗和子に、俺の云ってること聞いてんのかよ、と太一は小さな舌打ちをした。

「俺はな、紗和」

 ふたたび順調に自転車を漕ぎはじめた太一は、しばらくしてから口を開いた。

「女ってのは守ってやるもんだと思ってたんだよ。母さんにはじめて会ったときもそう思ったし、おまえと会ったときもな」

 紗和子は首だけを捻って視界の隅に太一の背中を捉えた。

「これまで付き合ってきた彼女もみんな、守ってやんなきゃって思ってた。この子を傷つけちゃいけない、俺が戦わなきゃって」

 そう思ってた、と太一は云った。


 紗和子と太一は両親の再婚で兄妹になった。小学校三年生になってはじめてできた兄という存在に、紗和子が最初からなじめたかと云えばそうではない。けれどきっとそれは兄ちゃんだって同じだったはずだ、と紗和子は思った。突然現れた同い年の妹に太一が戸惑わなかったはずはない。

 たった三週間早く生まれたばかりに、太一は紗和子の兄にならなくてはならなかった。まるであえて選び取ったかのように我儘ばかりを口にする同い年の妹を守る、兄に。

「兄ちゃん、ごめんね」

 紗和子がそう云うと、はあ? と太一は驚いたような声を上げた。

「なに云ってんだ、おまえ?」

「いやさ、いま考えてみればさ、私、結構無茶なこと云ったよなと思って」

「どうした、急に」

 太一のほうが三週間早く生まれたんでしょ、なら太一が兄ちゃんね、私、妹。はじめて顔を合わせて二時間も経たないうちにそんなことを云い出した紗和子に、きっと太一はおおいに困惑したはずだ、と紗和子は思う。

 母の再婚が避けられないことはなんとなく理解していた。紗和子が物心つく前から入退院を繰り返していた父を看取り、そのあとの母は紗和子を育てることに必死だった。決して放埓ではなかった彼女が、一緒になりたい、とまで云う相手なのだ。よほど不愉快な相手でない限り、お父さんと呼んであげたってかまわない。

 複雑な想いがないではない。亡くなった父への思慕も、母に対する独占欲もある。けれど、新しい父となる男の傍にいる母は、これまで紗和子が目にしたことがないくらいに穏やかな顔をしていた。ああ、ママは幸せなんだな、と紗和子は思い、それならいいや、と覚悟を決めた。私だけでは、ママにあんな顔をさせてあげることはできない。

 私はママにとってはいい娘だったかもしれない、と紗和子は思う。だけど、父さんや兄ちゃんにとってもいい家族だったかどうかはわからない。

 一刻も早く新しい家族と環境に慣れてしまおうとして必死だった紗和子のなかには、当然のことながら、兄になる少年に対する配慮や父となる男に対する遠慮は存在しなかったからだ。

「同い年なのに、あんたが兄ちゃんね、なんて無茶振り、よく受け止めてくれたよね。私、自分のことしか考えてなかったんだなあって、いまさらなんだけどさ」

「どうした、紗和」

「なにが?」

「おまえが自分のことしか考えてないなんて、いつものことだろ」

 そうかもしれないけどさ、と紗和子は云った。

「女の子に守ってもらいたかったなんて云われちゃうとさ、私としては責任みたいなもんを感じたりしちゃうんだけど」

「なんだそりゃ?」

「太一もほんとは甘えたかったんだなって」

 紗和子の返事を聞いた太一は、ほんの束の間黙り込んだ。

 いや、そんなことはねえよ、と太一が云ったのは、家に向かう途中にある川を渡る橋の上でのことだった。紗和子は太一が口を開くまでずっと、彼の背に背を預けるような格好で空を仰いでいた。

 降るほどに、とまではいかなくとも、都心よりもずっと静かな星空を見上げていると、ストレスや緊張で気づかぬうちに強張っていた心が少しずつほぐれていく。

「そんなことはねえよ、紗和」

「なにが?」

「おまえとは違ったかもしれないけど、俺だって甘えてた。母さんや、おまえに。親父やばあちゃんには云わなかった我儘を聞いてもらってたよ」

 誰かを守りたかったんだよな、俺、と太一は云った。

「母親が家を出てったとき、俺はまだ自分のこともよくわからねえような赤ん坊だった。母親に捨てられた可哀想な子って云ってさ、親父はともかくばあちゃんは俺に甘かった。母さんと暮らすようになって、親ってのはこんなに口うるせえもんかと思ったね」

 けど、いま思えばそれが嬉しかったんだなあ、と太一は笑う。紗和子は太一に合わせて笑っていいものかよくわからなくなって、黙ったままでいた。

「おまえの我儘につきあうのもさ、結構楽しかった。家族って面倒くせえなあ、って思うのが新鮮だったし、云ってみりゃ、それが幸せだった」

 そんなもんかな、と紗和子は尋ねた。

「そんなもんだよ。だから、おまえが謝るようなことはなにもない」

 紗和子は、ふうん、と唸ってから、じゃあさ、と問いかけた。

「さっきのはどういう意味なの、守ってもらいたいと思ったってやつ」

 ああ、と太一は答えた。

「あれはまたちょっと違う意味だな」

「違う意味って?」

「さっきも云ったみたいに、俺は守る男でいたかった。彼女に対してもはじめはそうだった」

 だけどさ、と太一は云った。自転車は少しだけ急な下り坂にさしかかった。スピードが上がり、紗和子の猫っ毛がふわふわと風に揺れた。

「歳も歳だしさ、そろそろ結婚かな、なんて軽く云った俺に、彼女が云ったんだよ。いまの太一くんとは結婚したくないって」

「ふられたってこと?」

 ふられてねえよ、ふられたら結婚なんかしねえだろ、と太一は云い返し、坂道の終わりあたりでぐっと足に力をこめた。これから家までは緩い上り坂が続く。

「太一くん、あたしのこと守ってくれる、って彼女は云った。もちろんだよって、俺は答えた」

 そしたら、それが厭なの、って云われたんだ、と太一は笑う。紗和子もつられて笑った。

「そんなこと云われればさ、なにが厭なんだよってなるだろ、当然」

「兄ちゃんならそうなるね」

「俺じゃなくてもなるっての」

 で、と紗和子は兄に話の続きを促した。

「太一くん、あたしのこと弱いと思ってるでしょ、って云われた」

 あたし厭よ、と太一はどうやら彼女の口調を真似たのだろう、変にやわらかい声でそう云った。紗和子は思わず吹き出してしまう。

「一緒に戦わせてよ、ってあいつは云ったんだよ。太一くんだけが戦ってしんどい思いをしたり傷ついたりするのは厭、あたしも一緒に戦うって」

 戦うのも一緒、泣くのも、怒るのも、悲しいのも一緒。もちろん笑うのも、幸せになるのも、楽しいのも一緒。それって、向かいあうばっかりじゃ無理でしょ。横に並んで同じもの見たり、ときどきは背中合わせになってそれぞれ違うもの見たりしながら、それでも一緒にいてはじめてできることでしょ。

 そのときの彼女の言葉を思い出すたび、太一はなぜだか泣きたくなる。プロポーズをしたのは自分なのに、なぜ俺が泣かなくちゃならないんだ。

「で、気づいちまったわけ」

「なにに?」

「ずっと俺が守ってやるわけにはいかないんだってことにさ。結婚したって四六時中一緒にいられるわけじゃない。俺たちはふたりとも働いてるし、下手すりゃ離れてる時間のほうが長いくらいだ。あいつがひとりでいるときは、せめて自分の身は自分で守ってもらわなくちゃならない。こどもでもできたら、なおさらだろ」

 俺と一緒に暮らすやつにはさ、どうしたって俺の留守を任せなくちゃならないときがあるだろ、と太一は云った。

「自分で自分の身も守れねえような女に、俺は家族を任せられねえ。彼女自身も含めて、な。あいつになら任せられる気がした。背中を預けられる気がしたんだよ」

 惚れ直したわけだね、と紗和子は云った。太一は返事をしなかった。

「それがつまり守ってもらうってこと」

「だってそうだろ。俺の大事なもんを守ってもらうってことだ」

 なるほどねえ、と紗和子は答え、それきり黙ってまた空を見上げた。

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