第18話 氷と炎


 女主人マスターの泉美さんからバーボンのお代わりを受け取ると、今岡さんはグラスを揺らしてカラカラと言う音を立てる。


「僕は親父の仕事の都合で十三歳のときからアメリカで暮らした。それまでは、親父の両親――祖父母に育てられた。お袋は僕を生んで半年も経たないうちにいなくなった……男と逃げたんだ。『子育てなんかやっていられない』。口を開けば、そんな愚痴をこぼしていたらしい。理由はどうあれ、僕は捨てられたんだ」


 いつもなら心地良く感じる、ジャズピアノの音色がとても悲しいものに聞こえる。

 それは、きっと麻耶の心が曲を楽しむ余裕がないから。今岡さんの一言がそれほど衝撃的だったから。

 

「――小さい頃、お袋の写真を見せてもらったことがある。とても奇麗で優しそうな人だった。こんな人が僕を捨てて男と逃げたなんて信じられなかった。子供ながらにショックを受けた……そのときからかな。女性を見る目が変わったのは――『どんなに奇麗でどんなに優しくても腹の底では何を考えているのかわからない生き物』。それが僕の女性に対するイメージで、僕の中で女性の位置づけを低いものにしている」


 穏やかな話しぶりはいつもの今岡さんと変わらない。

 ただ、寂しそうに笑う横顔は初めて見るものだった。

 

「――ハイスクールを卒業した後、M州にあるM工科大学へ進学した。そのまま経営大学院へ進んで経営学修士MBAを取得した。卒業後、日本に戻って総合商社の『三友物産みつともぶっさん』に入社した。きっかけは、三友物産ぶっさんから経営大学院へ留学していた友人が僕のことを高く評価してくれたから。

 企業に在籍しながら留学してくる者は、必要な知識やノウハウを修得すること以外に、優秀な人材をハンティングする役割も担っている。特に、幅広い分野でグローバルな事業を展開する総合商社は、ダイバーシティを掲げて国籍・性別・年齢なんかに関係なく優秀な人材を欲しがっている――人事部署付けで留学する「ハンティング留学」なんていうのもあるくらいだ。

 僕には昔から抱いている夢があった。漠然としたものだけど、そんな夢を形にするための土壌が欲しかった。ビッグプロジェクトを手掛けるための後ろ盾が欲しかったんだ――それが、僕が企業に求めたもの。報酬や出世なんかは二の次だった。

 そういう意味では、それなりの信用力があって、銀行からの融資はもちろん自力で資金調達もできる総合商社なら、僕の求めるものが手に入る気がした。世界中から人・物・情報を集めて、ジグソーパズルのピースをはめ込むようにそれらをコーディネートすることで、構想を少しずつ形にしていく――そんな「無から有を生み出す仕事」はとても魅力的で、僕にぴったりだと思ったんだ。

 中世ヨーロッパで唱えられた地動説が、それまで支配的だった天動説に取って代わったように、発想を転換することで人の生活スタイルを根本から変えるようなプロジェクト――それは、ある瞬間を境にそれまでの常識をくつがえす。そして、たくさんの人に大きな幸せをもたらす。そんなビッグプロジェクトを手掛けるのが僕の夢なんだ」


 そのとき、麻耶は今までにないぐらい身体が熱くなっているのを感じたの。

 まるで全身を流れる血液がグツグツと沸騰しているみたいだった。きっと、今岡さんの心の深淵にある「二つの思い」に触れたからだと思う。


 今岡さんの中には、南極の氷のように冷やかなものと燃えたぎる炎のように熱いものが見え隠れしていた――自分の母親に向けた憎悪と悲しみに満ちた、冷やかな思い。そして、自分の夢の実現を通してたくさんの人を幸せにしたいという、純粋で熱い思い。どちらも今岡さんの本心であることには変わりはない。ただ、どこか相反する思いを抱くことで激しい葛藤があったことも容易に想像できる――ことあるごとに今岡さんを苦しめてきた葛藤が。


 たぶん、麻耶は今岡さんの思いを表面の薄っぺらい部分しか理解していない。いつまで経っても、深い部分まで理解することはできない気がする――でも、麻耶にできることがきっとある。今岡さんのために力を貸すことができるはず。

 夢が実現すれば、今岡さんは心から笑うことができる。悲しい思いを払拭することができる――「麻耶ができることを精一杯してあげたい」って思った。同時に、「絶対に邪魔をしてはいけない」って思った。


 男に対してそんな思いを抱いたのは初めてのことだった。

 麻耶は戸惑いと喜びが混ざり合ったような、不思議な感覚を抱いていたの。


「――三友物産ぶっさんでは、これまでいろいろなプロジェクトを手掛けてきたけど、昼夜を問わず顧客に付加価値の高いサービスを提供する『サン&ムーン・プロジェクト』は、ボクにはとても興味深いものだった。川下に近いところで事業が展開されるという意味では総合商社っぽくないけど、一般利用者エンド・ユーザーの反応がほぼリアルタイムに把握できるのはベターだと思う。それを踏まえて、サ-ビス内容の修正や追加が迅速にできるからね。

 実際、コンビニの出現によって、深夜でも昼間と同じサービスが受けられるようになり、深夜にも昼間と同じような生活スタイルが見られるようになった。それから、わざわざ複数の専門店を回って購入しなければならなかった、食料品、生活雑貨、書籍といった商品が一箇所で手に入るようになった。それにより、生活圏が狭まっていく傾向が見られるようになった。コンビニは人々の生活に少なからず影響を与えるとともに、その向上に寄与してきた。

 ただ、これでコンビニの役目は終わったわけじゃない――『成熟期に達したコンビニは直に衰退期を迎える』なんて言っているエコノミストもいるけど、僕はそうは思わない。もちろん競争の結果として淘汰とうたは起きている。でも、まだまだ進化する余地はある。コンビニが進化することで、人の生活スタイルは変わっていく……いや、僕たちが変えていく。そんなことを考え始めると、興奮して眠れなくなるんだ」


 コンビニのことを熱く語る今岡さんの瞳がキラキラと輝いて見えた。

 少しはにかんだ表情がとても印象的だった。サン&ムーンのプロジェクトに夢と誇りを持って取り組んでいるのがヒシヒシと伝わって来た。

 そんな今岡さんを見ていたら、麻耶はすごく幸せな気持ちになった。「応援してあげたい」っていう気持ちがずっとずっと強くなったの。


 でも――今岡さんはやっぱりスーパーエリート。

 麻耶が憧れている東京よりも遠くの世界を知っている人。これから、もっと遠くの世界へ羽ばたいて行く人。そして、麻耶なんかとは住む世界が違う人。


「――サン&ムーンは世界ナンバーワンのシェアを誇ってはいるけど、今、業界は過渡期に入っている。言い換えれば、サン&ムーンの第二章をスタートする時期に来ているんだ。でも、僕は会社のためじゃなく、自分自身のライフワークとしてこのプロジェクトに取り組んでいく。そのことは、会社から条件付きで了承をもらっている。それなりの権限も与えられている。だから、僕が選んだスタッフといっしょに『夢のあるプロジェクト』を進めていくつもりだ。最初から『妥協』や『諦め』を口にするようなスタッフは要らない。すぐに辞めてもらう――もちろん、桜木くんには大いに期待しているよ」


 今岡さんは三杯目のバーボンを一気に飲み乾すと、マスターの泉美さんにお代わりを注文する。麻耶も珍しくモスコミュールのお代わりをお願いした。


 泉美さんにも言われたけれど、麻耶はかなり酔っている気がした。

 だって、今岡さんが麻耶に話してくれたこと、冷静に考えたら、情けない話や自慢話ばかりなのに、全部すんなりと受け入れてしまったんだもの。何より、天敵とも言える男の話を時間を割いて真剣に聞くなんて、酔っ払っているとしか思えなかったの。


★★


「それから――僕は既婚者なんだ」


 不意に今岡さんはポツリと呟いた。

 心なしか、麻耶の左手とつながった右手の力が弱々しくなった気がした。


 麻耶にとってはショッキングな話――でも、想定の範囲内。だって、こんなに条件がそろった人が、この歳まで独身だなんてあり得ないから。もしそうだとしたら、他人には言えない、とんでもない秘密があるとしか思えないもの。

 ショックが全く無かったと言えば嘘になる。でも、麻耶は今岡さんの言葉を冷静に受け止めることができた。だって、「何があっても応援していく」って決めたんだから。


「五年前――三十歳のとき、当時の部長の娘と結婚した。外国では家族ぐるみのパーティーなんかが当たり前ということもあって、会社から『商社マンとしてそろそろ伴侶が必要なんじゃないか?』なんて言われていた矢先のことだった。『うちの娘が君のことを気に入っていてね』なんて言われて、無理やり引き会わされた。

 でも、正直なところ、相手は誰でもよかった。だから、僕のことを評価してくれて面倒を見てくれた部長の娘ならいいかと思った。ある意味、恩返しにもなるしね。子供はいないし欲しいとも思わない。今は『二人の人間が同じ屋根の下でいっしょにいる』って感じだよ。

 仙台には単身赴任だから、会社が用意してくれたマンションに世話になる。五年前の独身時代に戻ったみたいで、結構うれしいんだ……あっ、ここだけの話だけどね。いずれにせよ、しばらくはバタバタだから家には寝に帰るだけになりそうだよ」


 今岡さんは冗談っぽく笑うと、バーボンをグイッと喉に流し込む。

 麻耶は、モスコミュールの海に漂う、小さな泡を目で追っていた――頭の中では「たくさんの疑問たち」がグルグルと回っていたの。


 今岡さんは麻耶に何を期待しているの? プロジェクトチームに参加すること? それだけ? 自分が女を物みたいにしか思えないことや既婚者だってことをカミングアウトしたのはなぜ? 麻耶を口説くつもりはないってこと? じゃあ、どうして麻耶のことを特別な存在みたいな言い方をしたの? それに――どうしてずっと手をつないだままなの? 


 今岡さんの考えていることが理解できなくて、頭の中が軽いパニック状態に陥っていた。


「私もできる限り今岡部長のお手伝いをさせてもらいます――それで、今岡部長は私に何を望まれているのですか? こんなところまで来たのは、何か意味があるのですか?」


 クールガールの麻耶が、言いたいことの一部を訊いてくれた。


「悩ませてしまったなら謝るよ。ごめん……でも、こうしていると、僕が僕でいられるような気がする……こんな気持ちは生まれて初めてなんだ」


「どういうことですか?」


 少しはにかんだように話す今岡さんに、間髪を容れず麻耶が尋ねる。


「恥ずかしい話だけど、『強気で切れ者の今岡恒彦』は仮の姿なんだ。経営学修士MBAの取得や国際的なプロジェクトを成功させた自信がそんな僕を形作っているに過ぎない……ふとした瞬間にすごく不安になる。そんなとき、もう一人の僕が言ってくれる――『大丈夫。お前は選ばれた人間なんだ。優秀な人間なんだ。絶対に成功者になれる』ってね。それで、僕は今の仮の姿で居られる……ごめん。こんな話をするつもりはなかったのに……酔いが回っているのかもしれない」


 今岡さんは左手でおでこを押さえると、「ダメだ」と言わんばかりに頭を左右に振る。


「――でも、すごく心地良いよ。言葉で説明するのは難しいけど、『幸せな時間を過ごしている』とでもいうのかな……ただ、これだけは言える――桜木くん、キミには本当に感謝している。心の底から感謝している……あっ、もう十二時前か。そろそろお開きにしよう。飲み会の次の日に遅刻だなんて洒落にならないからね」


 今岡さんは、つないだ右手をほどいて立ち上がろうとした――でも、手はほどけなかった。なぜって? 麻耶がほどかせなかったから。


 今岡さんは驚いた表情で麻耶の方を見たの。

 麻耶はモスコミュールのグラスの中の泡をじっと見つめていた。


「どうしてこんな変な女を誘ったのですか?」


 麻耶の口から飛び出したのは、唐突な質問。

 すると、今岡さんはニッコリと微笑んだ。


「どうしてそんな風に思うの? 桜木くんは変な女なんかじゃないよ。さっきも言ったけど、すごく魅力的なひとだ。いろいろな意味でね……これまで『女は必要悪』と思い続けてきた僕がやっとそうじゃないひとに会えた気がする。今みたいに手と手が触れているときなんか、キミが僕の身体の一部になったような錯覚に陥るんだ……勘違いしないで欲しい。キミを口説くとかどうこうしたいわけじゃない。僕のことを知ってもらえただけで十分だ。また仕事の合間にでも、僕の話を聞いてくれる?」


「わかりました。ありがとうございます。私も理解できました。今岡部長のこと」


 クールガールの麻耶は軽く会釈をすると、再び視線をタンブラーへと向ける。


「そう言ってもらえるとうれしいよ。桜木くんを無理やり連れてきた甲斐があったと言うものだ。じゃあ、そろそろ帰ろう。タクシーを呼んであげる。僕は歩いて帰れるから」


 今岡さんが携帯を取り出そうとしたとき、麻耶の左手が彼の右手を強く握った。


「今岡……さん?」


「ん? 何?」


 笑顔の今岡さんを後目に、麻耶はタンブラーの中で消えて行く泡を見つめながら、囁くように言ったの。


「シテミヨウカ?」


 つづく

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