第19話 男と女


 出会って間もない男とと思ったとき、女はもっともらしい台詞を用意する――「酔っ払っていてよく憶えていない」とか「無理やり連れて行かれた」とか。

 それは、自分が簡単に寝るような女だと思われないための言い訳。本命のひとから「軽い女」だと思われないための自己防衛みたいなもの。


 あの夜、麻耶は出会ったばかりのひとと寝た。

 でも、言い訳なんか必要ない。今思えば、出会った瞬間からそうなるのが自然だった気がするから。


 麻耶は口にこそ出さなかったけれど、どこかで求めていた。

 手と手がつながったときからセックスしているようなものだった。手をつないだとき、心地良さと恥ずかしさの両方を感じていたのはだと思う。公衆の面前で秘めごとをするのは、きっと


 でも、すごく不思議――男に嫌悪感を抱いて心を閉ざしてきた麻耶と、女を単なる道具としか見られなかった今岡さんが磁石のNとSみたいに引きあって、お互いに対する感情が愛なのかどうかもわからないのに、しちゃったんだから。


 愛情とセックスは必ずしもセットじゃない。

 快感を楽しむために相手を探す人もいれば、寂しさを紛らわすために身体を重ねる人もいる。高級ブランドの服を買ったり三つ星のレストランで食事をするみたいに、それなりのサービスを求めてそれなりの対価を支払う人だっている。そんな人たちは、快感を得ることが目的であって、愛情を得ることが目的じゃない――もしかしたら、愛情は面倒なものであって無い方がいいのかもしれない。


 麻耶たちがした理由?――もっとつながりたかっただけ。快感が欲しかったわけじゃない。麻耶は初めてだったからそんなのわからないし、今岡さんがそれを求めていたとしたら、へ行ったと思う。賢明で常識をわきまえた今岡さんが、面倒なことになりそうな女に手を出すとは思えない。


 正直なところ、良いのかどうかわからなかった。でも、違和感はなかった。今岡さんが気遣ってくれたこともあるけれど、手をつないでいたときと同じような感じ――今岡さんが麻耶の身体の一部になったみたいだった。


 冷たいベッド。初めて見る天井。優しい囁き。下腹部の痛み。誰かの身体の重さ。シーツにできた麻耶の点々――ぼんやりとした、断片的な映像がサイレント映画のフィルムみたいにぎこちなくつながる。そして、もやがかかったような頭の中で繰り返し上映されていた。


 「男と女は上手くできている」って思った。だって、つながる部分は一箇所なのに、他にもどこかでつながっているような気がしたから。

 麻耶は、肉体的につながることで精神的なつながりを感じていたのかもしれない。それは性的な快感とは違った何か――安堵感とか、優しさとか、安らぎみたいなもの。とても温かいものだった。


「今岡さんは、何か得るものがありましたか?」


 終わった後、沈黙を破るように麻耶がポツリと呟いた。

 こんなときも麻耶はクールガールだった。


「うん……初めて感じるものだった。すごく温かくて柔らかい何かに身体が包まれるような感じ……いや、何かが身体の中に入り込んできて、頭の先からつま先まで全身に行き渡った感じかな。今もそれが僕の中に残っている。桜木くんが僕の中にいる気がするんだ」


 今岡さんは麻耶の方へゆっくり顔を向けると、幸せそうな表情を見せた。

 「男の中に女が入る」というのは物理的にはあり得ないこと。でも、精神的にはあってもいい。今岡さんが感じたのは、言い方こそ違うけれど、たぶん麻耶が感じたのと同じようなこと――それまで何者の干渉も受け入れなかった二人の心が、何の躊躇ためらいもなくお互いを受け入れたの。


 その夜、麻耶たちはその不思議な感覚を何度も確かめあった。いつしか麻耶の口からも、控えめではあるけれど、吐息交じりの苦しそうな声が漏れていたの。


★★


 午前五時、寝息を立てる今岡さんに気付かれないように、麻耶はホテルを後にした。

 マンションに着いて、誰にも会わないことを祈りながら廊下を静かに歩いた。そして、音を立てないようにドアの鍵を開けて部屋の中へ滑り込んだ――その瞬間、身体の力が抜けてその場にペタンと座り込む。しばらく動けなかった。


 いつものようにシャワーを浴びて、いつものように熱い紅茶を飲んで、いつもの時間に家を出た――でも、いつもとは何かが違った。全身に気だるさが感じられた。でも、苦痛じゃなかった。麻耶の中にまだ今岡さんがいるような感覚がとても心地良かった。


 通勤途中の見慣れた風景もいつもとどこか違っていた。

 それは、今岡さんとのことに加えて、お仕事に対する期待感が大きくなっていたからかもしれない――今岡さんが手掛ける、社会に大きな変化をもたらすビッグ・プロジェクト。今日から麻耶はプロジェクトチームPTの一員。今岡さんの夢を実現するため、自分ができることを精一杯するの。

 結果として、コンビニがお客さまにとってより良い場所――より幸せを感じられる場所になれば言うことはない。それは、これまで麻耶がずっと望んできたことだから。


 経営学修士MBAを持っている今岡さんには、鼻で笑われそうだから話したことはないけれど、ビジネス専門学校に通っていた頃、顧客満足CSに興味があって、卒業の課題で「顧客満足CSの必要性と循環モデル」と題したレポートを書いたの。


 顧客満足CSを推進して顧客から良いリアクションが得られれば、社員の士気も自ずと向上する。それが従業員満足ESの充実につながり、「社内(社員)→社外(顧客)→社内(社員)→社外(顧客)……」といった、社員・顧客それぞれが満足を得られる循環サイクルが生まれるの。

 もちろん、そのモデルが機能するには、より効果的な施策を打ち出していく必要があって、お客さまのニーズや市場動向、それに社員が求めているものをしっかり把握することが大事。そのことは麻耶もわかっていて、自分なりに知恵を絞って、会社にいろいろな提案をしてきた。

 これまでは全て門前払いだったけれど、今岡さんが立ち上げたPTだったら、麻耶のアイデアを真面目に検討してもらえるかもしれない。お客さまの半分は女性なんだから、女性目線の提案は重視されていいと思うし、何より今岡さんが麻耶に期待してくれたんだから。


は私にESをくれた。だから私はにCSをあげる」


 駅前の通りを歩く麻耶の口から不意にそんな言葉が漏れる。

 心の中で思わず吹き出してしまった。難しいことを言っているみたいに聞こえるけれど、それは、昨日の麻耶と今岡さんのことに他ならない。


「これもみんな、さっきまで一つになっていたのせい」


 再び麻耶が自分の気持ちを口にする。

 スクランブル交差点で信号待ちをしていたビジネスマンが麻耶のことを横目でチラリと見る。急に恥ずかしくなって、麻耶は茶色味がかった髪で顔を隠そうとした。でも、麻耶の短い髪ではほとんど顔は隠せない。普段の手入れが楽だからずっとショートにしてきたけれど、このときばかりは「もっと伸ばしておけばよかった」なんて後悔したの。


「この髪にだっての指が何度も触れた」


 その日の麻耶は思いのほか饒舌じょうぜつで、思ったことを次から次へ口にした。

 ただ、会社に着くといつもの麻耶に戻っていた。今岡さんに挨拶をしたときもいつものクールガール――でも、心臓は大きな音を立てていて、息が苦しくて堪らなかったの。


 その日の午後、麻耶の異動が発令された。

 前日の夜、今岡さんが麻耶の手を引いて夜の街に消えて行ったことを知らない人はほとんどいない――「桜木麻耶と今岡部長の間であった結果の栄転」。麻耶の知らないところで、そんな噂が飛び交っていたのかもしれない。


『その通り。麻耶たちは一つになったの。でもね、下半身の凸と凹だけじゃないの。心と心が一つになったの』


 麻耶は心の中でそんな台詞を得意気に呟いた。

 ただ、口には出さなかった。グッと我慢した――「今岡さんには絶対に迷惑を掛けちゃいけない」って思ったから。


 そのときから、麻耶と今岡さんの素敵な時間が始まったの。

 もちろんそのことは二人だけの秘密。デートの場所は、家や会社の近くを避けた郊外。行きと帰りも別々。今岡さんは「そこまでしなくてもいい」って言ってくれたけれど、麻耶は譲らなかった。だって、麻耶みたいな変な女に関わったことで、彼が夢から遠ざかることになったら目も当てられないから。


 でもね、麻耶は今岡さんといっしょにいたかった。今岡さんと一つになりたかった。お互い「好き」なんていう言葉は口にしなかったけれど、気まずさはなかった――だって、二人の間には言葉なんか必要ないから。


★★★


「長らくのご乗車ありがとうございました。次は終点・秋津大滝、秋津大滝です。お降りの際は、手荷物などお忘れ物のないようお願いいたします。本日は――」


 車内にアナウンスが流れる。あと少しでバスは秋津大滝に到着する。窓の外に目をやると、オレンジ色がほとんど消え去った空に、山々の雄大なシルエットが浮かんでいる。そんな景色を見て寂しさを感じる人は多い。でも、麻耶は全然寂しくなんかない――これも麻耶の思い出の景色だから。


 違和感がなくなった左膝に手を添えて、麻耶は心の中で呟いたの。


『「幸せな時間」は――終わらない』


 つづく(第3部へ)

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