第17話 上司と部下


 バスなんてほとんど乗ることがなかった。

 中学は徒歩で十五分。高校は自転車で二十分。専門学校は自転車と電車で一時間。就職して独り暮らしを始めてからは二十分の徒歩通勤――「乗る機会がなかった」と言えばそれまでだけれど、「乗りたいと思わなかった」のが正直なところ。

 バスは、電車と違って、道路の混み具合によって到着する時刻が変わる。時間どおりに到着しないのに正規の料金を払うのはどこか納得がいかない――いつも麻耶の中にはそんなこだわりがあった。


 でも、今岡さんと出会った瞬間、そんなこだわりはどこへやら。麻耶は路線バスの常連客になった。もう少し言えば、週末になると仙台駅発の路線バスに乗って出掛けるようになったの。


 乗っているときは一人だけれど、目的地に着いたら二人。帰りはその逆――それが麻耶の決めたルール。「そこまでしなくてもいい」。今岡さんは言ってくれたけれど、麻耶は譲らなかった。だって、絶対に迷惑をかけたくなかったから。

 目的地のほとんどは、今向かっている秋津温泉。麻耶も今岡さんもなぜか秋津温泉そこがお気に入りで、他の場所は一度行ったらおしまい――「やっぱり秋津温泉がいいね」。よくそんな会話を交わしていたのを憶えている。


 路線バスの車中で、麻耶は思いを巡らせた。

 行きは、今岡さんと会ったとき、どんなことをしてどんな話をしようか妄想を楽しむ時間。帰りは、今岡さんと過ごしたことを思い出しながら余韻を楽しむ時間。

 そんな風に考えれば、一人の車中の時間は退屈じゃなかったし寂しくもなかった。むしろ、二人でいるときとは違った楽しさを味わうことができた――いつも麻耶はそんな「幸せな時間」を過ごしていたの。


★★


 トートバッグから取り出した携帯に目をやると、時刻は四時二十分。

 仙台駅を三時半に出発したバスはちょうど中間点を過ぎたあたり。相変わらずノロノロ運転が続いていて、いつもの倍ぐらい時間が掛っている。

 あちこちから聞こえていた子供の声は影を潜め、麻耶の前に座っているカップルも無言でそれぞれのスマホを覗いている。ある瞬間を境に車中が活気の失せた空間に変わる。そんな状況も麻耶にとっては想定の範囲内――「あそこの案内標識を過ぎたらそろそろ静かになる」なんて思っていたら本当にそう。自慢じゃないけれど、秋津大滝行きの路線バスのことなら何だってわかる。何せ一年以上乗り続けているんだから。


 ちなみに、乗客がこんな風にしかばねと化しているのもある瞬間まで。

 終点に到着する少し前、運転手さんが車内アナウンスをすると、それが何かの合図みたいに乗客はみんなゾンビみたいにむくむくと蘇るの。もちろん誰も人を食べたりなんかしない――麻耶みたいに「人を食ったような態度」を取っているのはいたけれど。


 バスの窓からオレンジ色の光が入って来る――それは日が傾いてきた証拠。

 実は、この時間帯は麻耶のお気に入りだったりするの。

 時間が刻々と夜に向かって行くにつれて、夕日を浴びた、色鮮やかな紅葉が少しずつ深い色へと変わっていく。そして、すべてが青い夜のとばりにすっぽりと覆われた頃、バスは目的地に到着するの――それは、一日の終わりであると同時に、二人の時間の始まり。


 膝の上に置いたトートバッグを少し持ち上げると、バッグを置いていたあたりが赤くなって少ししびれていた。山の向こうに隠れてしまいそうな夕日を横目で眺めながら、感覚がなくなった左膝を指でなぞると、どこか「違和感」が感じられた。


★★★


 麻耶の左膝には麻耶の左手。そして、その上には今岡さんの右手。

 今岡さんの手の温もりが麻耶の左手を通り越して膝まで伝わっているみたい。なんだかすごく恥ずかしい――でも、イヤじゃなかった。今岡さんも「違和感がない」って言ってくれたし。


 麻耶に話したいことってなんだろう?

 最初は、二人きりになったことで何かを期待したけれど、それがお仕事の面談だとわかって少しガッカリした。でも、もう面談は終わったんだから、これ以上話すことなんかないはず。 


 期待なんかしちゃダメ――これは「男と女」のデートなんかじゃなく「上司と部下」によるお仕事。たまたま時間が夜更けで、場所がショットバーのカウンターだっただけ。話っていうのは、たぶん明日からのお仕事に関する補足事項か何か。


「今岡部長、まだ私に話すことがあるのですか?」


 大きな瞳で今岡さんの顔をじっと見つめながら、クールガールの麻耶が単刀直入に訊いてくれた。今岡さんは目をつむると左手の親指と人差し指を眉間みけんに当てた――まるで何かを考えているみたいに。


「まず、今日一日の僕の行動や思考について順を追って話したい。言い方は悪いけど、僕の取った一連の行動はまるで『条件反射』みたいだった――会議室で挨拶をしているとき、桜木くんの瞳を見た瞬間、『自分と同じ何か』を感じたんだ。懇親会の席で改めてキミの顔を見たときも同じ感覚を抱いた。

 キミのことが無性に知りたくなって、気がついたら手を引いて連れ出していた。三十五にもなってこんなこと言うのはすごく恥ずかしいんだけど……こうして手をつないでいるとすごく落ち着くんだ。それに――『本当の僕』でいられる気がする」


 静かなボサノヴァをBGMに、優しい口調で静かに語る今岡さん。

 しかし、クールガールの麻耶の口からムードをぶち壊すような、無機質な言葉が飛び出す。


「誰にでもそんなことを言っているんじゃないですか? 今岡部長は女の人の扱いが慣れている気がします。私の瞳を見ただけで、どうして自分と同じだなんて思えるんですか? 話したこともない相手のことを理解するなんて不可能です。私は騙されません」


 空気を読まない麻耶はいつものように厳しい口調で言い放った。

 でも、言い終わった瞬間、思わず「はっ」となったの。なぜって?――だって、「今岡さんの言っていることが笑えない」って思ったから。


 普通に考えれば、言葉を交わしていない相手のことなんかわかるわけがない。顔を突き合わせて話をしたって伝わらないことがあるんだから――でも、百パーセントそうと言い切れる?


 確かに、麻耶は壮行会の後、今岡さんと話をして「カッコイイ」って思った。だから、今岡さんをMisty Lakesideここへ連れて来た。でも、今岡さんのことを「カッコイイ」って思ったのは、あくまで話をする前――正確に言えば、今岡さんが挨拶を初めて数分が経ったあたり。麻耶は「第一印象から」そんな風に思っていた。

 そう考えると、麻耶も今岡さんに対して「自分と同じ何か」を感じていたのかもしれない――いいえ、感じていた。麻耶とは違うタイプなのに、すごく似ている気がした。


 麻耶が顔を上げると、今岡さんは麻耶の手厳しい言葉を受けて苦笑いを浮かべている。


「確かにそうだね。そう思われても仕方がない。僕自身もすごく戸惑っているんだから……桜木くん、これから話すこと、怒らないで聞いて欲しい」


 今岡さんの真剣な眼差しが再び麻耶の瞳を見つめる。

 同時に、つながった手にグッと力が入るのを感じた。


「僕のこれまでの人生の中で『女性』の位置付けは低いものだった――『子孫を残すために必要なもの』、『性的欲求を満たすために必要なもの』、『社会的ステータスを得るために必要なもの』。必要であることには違いないけど、別に誰を選んでも大差はないと思った。それに、自分が気に入った女性はいつでも簡単に手に入るものだと思っていた。

 実際、二十代の頃はどこへ行っても周りに女性が集まってきた。モデルや芸能人といった、華やかなたぐいから、会社のお偉いさんの娘や有名旅館の箱入り娘といった、経済的なバックボーンのあるたぐいまで、いろいろなタイプの女性が手の届くところにいた――僕が欲しさえすれば、より取り見取りだった」


 話している内容は最低だった。でも、自慢話には聞えなかったの――真剣な表情で話す今岡さんの瞳がとても寂しそうだったから。


 つづく

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