第16話 虚偽と真実


 この人――何言っているの? 酔った勢いだとしても、言っていいことと悪いことがあるよ。どう考えても許されることじゃないでしょ? これじゃあ、ただのセクハラ上司じゃない。どれだけ優秀なのか知らないけれど、やっぱり男はみんな同じ。こんな男に少しでも気を許した麻耶がどうかしていた。麻耶の気持ちを踏みにじった罪は大きいんだから。穏便に済まそうなんてできないからね。


「女性の前でスリーサイズの話題を持ち出すだけでも問題なのに、本人のサイズを訊くなんて常軌を逸しています。デリカシーがないでは済まされません。あなたの行為はセクハラ以外の何物でもありません。

 あなたは上司として大きな問題があることに加えて、人として重大な欠陥があります。このことは、明日セクハラ担当部署へ報告します。裏で手を回して有耶無耶うやむやにするようなことがあれば、外部に公表します」


 クールガールの麻耶が珍しく語気を荒らげる。いつも以上に厳しいことを言っている。当たり前と言えば当たり前。麻耶は、女を馬鹿にするような態度を取る男が一番嫌いだから――でもね、麻耶が怒っていた理由はそれだけじゃないの。


「――それから、私は、あなたが指摘したような寸胴体形ずんどうたいけいではありません。バストの『四センチ』がウエストの方にいっています。ヒップも『四センチ』余計です。偉そうな顔をして、いい加減なことを言わないでください。事実無根のことをさも本当のことみたいに言われて、不愉快極まりないです。人を馬鹿にするにも程があります」


 どこから得た情報なのかは知らないけれど、麻耶のスリーサイズとは似ても似つかぬものだった。それが麻耶の怒りを増長させた理由。

 でも、どこか腑に落ちないところがあった――あのタイミングで、今岡さんがあんな発言をした意図がよくわからない。直前まで普通に会話が成り立っていたことを考えれば、酔っぱらっていたわけじゃないし、言葉を使って麻耶をはずかしめたいのなら、もっと際どいことを言うはずだし。麻耶を口説こうとしたわけでもないだろうし。


 セクハラは言動を受けた側が不快に感じることで成り立つもの――今回のことも、麻耶が不快だと感じれば即セクハラになる。

 でも、正直なところ、驚きはしたけれどダメージはほとんど受けていない。実際、今岡さんが言ったスリーサイズは麻耶のものとは全く違うものだったし、言い方も全然イヤらしくなかったし。


「……桜木くん、酷いこと言ってごめん。本当にごめん。僕が悪かった。この通りだ!」


 突然イスから立ち上がると、今岡さんは麻耶に向かって深々と頭を下げたの。

 想定外の出来事に麻耶は言葉を失った。グラスを磨いていた泉美さんも手を止めて心配そうにこちらを見ている。


「――信じてもらえないかもしれないけど、あんな発言をしたのは、桜木くんが『今みたいなリアクション』をすることを狙ったものなんだ。キミに話したいことがあって……だからと言って、許されることじゃないのはわかっている。キミが怒るのは当然だ。本当に申し訳ないと思っている」


「どういうことですか? 説明してください」


 麻耶の一言に今岡さんはゆっくり顔を上げると、真剣な眼差しで麻耶を見た。

 その表情はこれまで見せた今岡さんのそれとは違った。厳しい表情には違いないけれど、長谷部を完膚なきまでに論破したときのものでもない――「大切なことを伝えたい」といった気持ちがヒシヒシと伝わって来る。


「僕は、もともとキミのスリーサイズなんて知らなかった。かなりヤバイことをしなければ、そんな情報は手に入るわけがない――さっきのはハッタリだ。実際とは全く違う数字だった。でも、結果として『正しいスリーサイズ』を知ることができた」


 言われて見ればその通りだ。麻耶は自分のスリーサイズを会社に報告したこともなければ、一度だって他人に話したことはない。でも、自分から今岡さんに正しい数字を教えてしまった。まんまとめられた。ここは激怒してもいい場面――ただ、なぜかそんな気分にならない。なぜかはわからないけれど、すごく不思議な気持ち。


「――キミが怒るとわかっていながら、なぜ僕があんなことを言ったのか……キミのスリーサイズが知りたかったわけじゃない。僕自身のことを知ってもらいたかったからなんだ」


 今岡さんは元の席に静かに座り直すと、小さく深呼吸をするようにフーッと息を吐いた。


「みんな僕のことをスマートでカッコイイ、エリート社員だなんて思っている――自慢しているように聞こえるかもしれないけど、実際会社からもそんな評価を受けている。でも、ビジネスの世界は綺麗ごとでは済まないこともある。

 これまで僕は、法には触れないまでも、大きな声で言えないようなこともいくつかしてきた。その中には、桜木くんを激怒させたのと同じようなことも含まれる。ビジネスというのは、関係する者すべてが幸せになる『Win-Winウインウイン』であるのが理想だけど、現実はなかなかそうはいかない。関係者全員が百パ-セントの満足を得られるなんてことはまずあり得ない」


 バーボンを少し口に含むと、今岡さんは麻耶の顔をジッと見つめた。


「僕には夢がある――それは、みんなが幸せを感じられる社会を作ること。そして、自分が生きたあかしを残すこと。そのためには、これからも泥臭い今岡恒彦でいるつもりだ。もしかしたら、一生誰かに恨まれたり忌み嫌われる存在になるかもしれない。でも、それでもいいと思っている。結果的に、たくさんの人が幸せを感じてくれるなら」


 今岡さんは、はにかんだような表情を浮かべると小さく笑った。

 いつの間にか麻耶は聞き入っていた――スリーサイズの話なんかすっかり忘れて。


「さっきみたいなセクハラまがいの行動を取るのも『今岡恒彦』なんだ。でも、僕がそんな行動を取る背景には必ず何かしら理由があることを、桜木くんには知っておいて欲しかった――いっしょに仕事をしていくパートナーとして」

 

 今岡さんは残りのバーボンを一気に飲み干した。

 耳を傾けながら、麻耶はタンブラーの中でゆらゆら揺れる、モスコミュールの泡を眺めていた――現れたと思ったら消えてしまう小さな泡。それは文字どおり「泡沫うたかた」の存在。でも、誰かがその存在に気づくことで、それが存在したという証しになる。

 広大な宇宙や長い歴史を尺度にしたら、麻耶たちだってこの泡と同じ、泡沫うたかたの存在。それでも存在した証しは残すことができる――そんな証しを残したいと思うのは、何ら特別なことじゃなく、誰もが持っている欲求なのかもしれない。


 今の麻耶の気持ち――わかる? あんなセクハラ紛いのことを言われてから十分も経っていないのに、今岡さんの言ったこと全然怒っていないの。そればかりか、今岡さんが追い求める夢を心から応援したいと思っている。

 確かに、「腹が立たなかった」と言えば嘘になる。でも、怒り心頭だったわけじゃない――麻耶の嫌いな、男という生き物が唐突にスリーサイズの話を持ち出したことで、セクハラという言葉を使ってまくし立てただけなのかもしれない。餌箱えさばこを叩く音を聞いた犬がよだれを垂らすのと同じだった気がする。


「桜木くん……怒っている……よね?」


 沈黙が続いた後、今岡さんが申し訳なさそうにポツリと呟いた。

 視線が麻耶のモスコミュールのグラスのところで止まっている。気弱な今岡さんの姿がとても愛おしく思える。やっぱり今日の麻耶はどこかおかしい。


「たぶん怒っていません。セクハラは、言われた本人が不快だと感じることで成立します。だから、会社への訴えも起こさないつもりです――ところで、面接試験の結果はどうなりましたか?」


 麻耶は相変わらずのクールガール。

 麻耶が怒っていないことを理解したのか、今岡さんの表情が少し和らぐ。


「もちろん合格だよ。明日『市場開発部CS担当』に任命する。桜木くん、これからもよろしく」


 今岡さんは昼間の挨拶で見せたみたいな笑顔を浮かべて、麻耶の前に自分の右手を差し出した。麻耶が握手をすると、今岡さんはぼんやりとくうを見つめて何かを考える素振りを見せる。


「今岡部長、どうかなさいました?」


 握手したままの状態で麻耶が尋ねると、今岡さんは真剣な表情で麻耶の顔を見たの。


「よくわからないけど……こんな風にしているのがすごく自然に思える……違和感がない気がする」


 麻耶は驚きを隠せなかった――今岡さんが麻耶と全く同じことを感じていたから。


 途切れた何かが再びつながった気がした。そう思ったら胸の鼓動が再び速くなった。

 儀礼的につないだ手がほどけた瞬間、今度は、今岡さんの右手が麻耶の膝の上の左手を探し当てる――それは決して儀礼的なものではない。


 彼――今岡恒彦はゆっくりとした口調で言ったの。


「キミに聞いてもらいたいことがある」


 つづく

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