第4話 一縷の希望


 「彼女」と出会って一年と半年が経った頃、麻耶は夜の託児所生活に別れを告げた。と言っても、お母さんが夜の仕事を止めたわけじゃない。麻耶が小学校に入学したことで一人で留守番をすることが許されただけ。


 四月からの麻耶は、晩ごはんはお母さんと二人。お風呂は一人。寝るのも一人。そして、朝ごはんも一人。深夜に疲れて帰って来たお母さんを朝早く起こすのは申し訳ないから、朝ご飯は麻耶が自分で準備することにしたの。ただ、メニューは、トースト、牛乳、野菜ジュースだから、準備したなんて偉そうに言えるものじゃない。


 普通に考えると、それは、小学校に入学したばかりの六歳の子供には厳しい環境。「いっしょにお風呂に入って! いっしょに寝て! いってらっしゃいって言って!」。以前の麻耶だったら駄々をこねてお母さんを困らせたと思う。でも、そのときの麻耶はどうってことなかった。自分でも不思議なくらい平気だった。たぶん麻耶は一人じゃないって思えたから。「彼女」がそばにいるって信じていたから。

 「彼女」は姿も見えなければ声も聞こえない。ただ、それでも良かった。だって、あのとき「彼女」は言ってくれたから。「いつも麻耶のそばにいる」って。


 託児所へ行かなくて済むことになって、麻耶はうれしくて堪らなかった。

 あそこの生活は、小さな子供にとってあまりにも過酷で非常識極まりないものだったから。まるでガン細胞がじわじわと身体をむしばむみたいに、疲れとストレスが麻耶の心を少しずつ侵していくのがわかった。


 実際、預けられて半年が経った頃、麻耶はほとんど限界に達していた。

 心身ともにくたくたで何かを考えたり行動したりする気力が消え失せていた。顔からは表情が消えて、いつも遠くを見るような目をしていた。「壊れた人形」。あのときの無表情でボロボロになった麻耶にはそんな形容がピッタリだった。


 もしあの状態がずっと続いていたら、今頃麻耶は自分では何もできない、生きるしかばねと化していたと思う。そうならなかったのは、一にも二にも「彼女」のおかげ。いつも「彼女」が麻耶を守ってくれたから。「彼女」は麻耶の命の恩人であると同時に大切な友だち。「彼女」と話ができてすごく楽しかったし幸せを感じることができた。ただ、小学校に入学してからは二度と「彼女」と話をすることはなかったの。


 小学校にも慣れてきた、四月の終わりの土曜日。「彼女」に会いたくなった麻耶は、電車に乗ってへ出掛けた。でも、コンビニは影も形もなくなっていた。コンビニがあったところは、黄色のバリケードが張られて何かの工事が行われていた。バリケードには、高層マンションの完成予想図パースと白い看板――「コンビニは閉店しました」と書かれた看板が掛っていた。


 後で聞いた話では、近くにライバル店ができたことで売り上げが落ちて、営業を続けていくのが難しい状況になったらしい。いつもたくさんのお客さんがいて繁盛しているように見えたけれど、それは麻耶の目にそう映っただけ。麻耶にはお店の経営のことなんか全く理解できていなかった。


 看板を穴が開くぐらいジッと見つめながら、麻耶はその場に呆然と立ち尽くした。だって、そこは「彼女」と意思の疎通を図ることができる、唯一の場所だったから。

 麻耶は「彼女」に話し掛けてみた。何度も呼び掛けてみた。三十分以上、同じことを繰り返した。でも、「彼女」は何も言わなかった。


 不意に麻耶は駅の方へ走り出した。向かった先は別のコンビニ。近くのコンビニなら「彼女」に会えるんじゃないかって思った。


『お願い! 出て来て!』


 麻耶は心の中で「彼女」に向かって叫んだ。祈るような気持ちで何度も叫んだ。駅の周りにあるコンビニというコンビニを虱潰しらみつぶしに回って「彼女」に声を掛けた。でも、どの店でも結果は同じ。「彼女」は何も言ってくれなかった。

 表情こそクールだったけれど、麻耶の心は深い悲しみに包まれていた。まさか、こんな形で唯一無二の親友を失うとは思ってもみなかったから。「彼女」がいなくなった理由はよくわからない。ただ、麻耶にはどうすることもできなかった。


★★


 ゴールデンウィークが開けて数日が経ったある夜。時刻は午後八時五十五分。麻耶の寝る時間が迫っていた。

 この二年間、日付が変わってから眠る習慣がついていたせいで、この時間に布団に入ってもなかなか寝付けなかった。身体に染みついた生活リズムは簡単に変えられるものでない。ただ、小学校へ通うようになって、お母さんから規則正しい生活をするよう言われたこともあって、麻耶は無理やり午後九時に寝るようにした。


 その日も布団には入ったけれど眠れなかった。

 しばらく布団の中でモゾモゾしていたら、シトシトと水がしたたるような音がした。うつ伏せになって枕元のカーテンの裾を少しめくると、雨が降っているみたいだった。「みたい」と言ったのは、音はするけれど実際に雨の粒は見えなかったから。外は真っ暗で月や星も出ていない。


『本当にもう会えないの?』


 心の中でそんな言葉が漏れる。

 言わずもがなだけれど、それは「彼女」に向けられたもの。


『いつも麻耶のそばにいるって言ったよね?』


 いつの間にか、雨の音がシトシトからザーザーへ変わっていた。夜の静寂しじまに雨音が響き渡る。


『もしかしたら麻耶の心の中に沈んじゃったの?』


 唐突な質問だった。でも、それは、少し前に読んだ本に「心の世界は底なし沼みたいに深い」と書いてあったのを思い出したから。

 いつも麻耶はいろいろなことを考えていた。だから、麻耶の心の中は他人ひとよりもたくさんのものが詰まっている。もしそうなら「彼女」は麻耶の心の中でたくさんの情報に埋もれて動けなくなっているのかもしれない。そんなことを真剣に考えた。


 麻耶の問い掛けに答えは返って来なかった。

 予想通りと言えば予想通り。


 不意に麻耶の脳裏に「あること」が浮かぶ。

 居ても立ってもいられなくなって、布団から飛び出して玄関へ走った。傘立てにあった、透明のビニール傘を無造作につかむとそのまま外へ飛び出した。


 真っ暗な中、激しい雨が地面を叩きつけるように降っている。

 雨音に交じって微かに聞こえるのは、消防車と救急車のサイレンが入り混じったような音。それは家の裏手の国道の方から聞こえてくる。

 それが合図であるかのように、麻耶は家の裏手に回って坂道を一気に駆け上がった。横殴りの雨を受けてパジャマはびしょ濡れ。荒い呼吸をしながら顔に付いた水滴を両手でぬぐう。すると、闇の中に灯りが浮かんでいるのが見えた。

 麻耶は大きな目をさらに大きくして食い入るように見つめた。雨でにじんではいたけれど、そこには、煌々こうこうと輝く光があった。それはコンビニの灯り――地元のマイナーなコンビニの何の変哲もない灯りだった。


 そこにコンビニがあるのは知っていたけれど、これまで行ったのは昼間ばかり。ただ、昼と夜とでコンビニの雰囲気は全く違った。「荒波が渦巻く、夜の海で船を導く灯台」。灯りを目の当たりにした瞬間、そんなイメージが浮かんだ。


『夜のコンビニなら会えるかもしれない』


 心の中でポツリと呟くと、麻耶はまるで虫が電灯に吸い寄せられるように、冷たい雨の中を足早に光の方へと進んでいった。「彼女」との再会に一縷いちるの望みを抱きながら。



 つづく

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