第3話 聲だけの友だち


 アパートの鉄骨の階段をダンダンダンと音を立てて駆け下りると、麻耶は大きく深呼吸をした。ひんやりとした空気が肺を満たすのがとても心地良くて、まるで、夏の暑い日、冷たい水を飲んで喉が潤されたみたいな感じだった。


「気分はどう?」


 アパートから大通りの方へ歩を進める麻耶に、再び「彼女」が話し掛ける。感情の欠片もない、無機質な声なのにどこかうれしそうに聞こえる。それは、麻耶自身の気分がハイになっているからなのかもしれない。


「あの手の男の相手は私がする。あなたは黙って見ていればいい。不幸はすべて私が引き受ける。そうすれば、あなたは幸せになれる」


 さっきと同じような台詞を繰り返す「彼女」。ただ、麻耶には何が起きているのかさっぱり理解できなかった。頭の中で声がしたかと思ったら、勝手に麻耶の身体が動いて、口八丁手八丁で大の大人を言いくるめてしまった。とても現実とは思えなかった。


「戸惑うことなんかない。私はあなた自身であなたの味方。それだけ憶えておけばいい。そこのコンビニで話をしましょう」


 「彼女」がそんな言葉を発した瞬間、麻耶の身体は右に九十度回転して、歩行者信号が点滅する交差点の方を向く。そして、煌々こうこうと明かりを灯すコンビニへ向かって一目散に駆け出した。


『どうしてコンビニへ行くの? 麻耶はお金なんか持っていないよ』


 信号を渡り終えた麻耶は、息をはぁはぁ言わせながら「彼女」に疑問を投げ掛けた。


「あなたを幸せにするため。それには、あなたを守る必要がある」


『麻耶を守る?』


 歩行者信号が赤に変わったのが、まるでカーレースのスタートのサインであるかのように、信号待ちをしていた、スポーツカータイプの車が大きなエンジン音をあげる。そんな状況であっても「彼女」の声ははっきりと聞き取れた。


「アパートの窓からさっきの男が見ている。だから、私たちがコンビニへ行くのを。これから、コンビニの店員はもちろん、店内の客に聞えるぐらい大きな声で自分の素性を話す。『私は桜木麻耶さくらぎ まやと言います。そこの道を一本入ったところにある木造アパートの二〇二号室に、毎晩九時から十二時まで預けられています。明日からにここに来ることにします。もし私が来なかったら様子を見に来てください。お願いします』と。大丈夫。私が話すから」


『どうして? どうしてそんなことするの? それに、麻耶がお店に行かなかったからって店員さんが様子を見に来るわけがないよ!』


 「彼女」の言っていることがますます理解できなくて、人が慌ただしく行き交う、コンビニの軒先で麻耶は声を荒らげる。


「大切なのは、あなたの存在をコンビニに居る人に印象付けること。そうすれば、明日から大手を振ってコンビニへ行けるようになる。あんな豚小屋に閉じ込められることもなくなる」


『だって、あのひとには「十分だけ」って約束したんだよ。それって「今日だけ」ってことだよね? 「毎日外に出ていい」なんて話じゃないよ』


 麻耶は頭の中がパニックになっていて思わず泣きそうになったの。

 思い詰めた表情をしていたのか、車から降りたOL風の女性がいぶかしそうな目で麻耶の顔を見る。


「アパートに戻ってから、コンビニであったことをあの男に事細かに説明する。いつもあなたが二〇二号室にいることをコンビニの店員が知っているとわかったら、あの男はあなたに酷いことはできない。それに、あなたはコンビニへ行くことで嫌な気持ちを紛らわすことができる」


『でも、麻耶はお金なんか持っていないよ。きっと店員さんに嫌な顔をされるよ」


 麻耶が不安そうに言うと、間髪を容れず「彼女」の冷静な声が頭の中に響く。


「五十円でも百円でもいいからお小遣いをもらいなさい。駄菓子コーナーがあった。ガムやアメだって毎日買えばあなたは立派なお得意様。一時間でも二時間でも好きなだけいればいい。私が話相手になってあげる。もし店員が何か言うようなら私が掛け合う。万が一あの男が何か言ったら、私がを蒸し返す。警察に託児所のことを調べてもらう話をね」


 不意に麻耶の胸に安堵感が広がる。なぜか全て上手く行くような気がした。

 ここまで「彼女」は麻耶が理解できないような難しい話をしていたけれど、麻耶には「彼女」の話がスーッと頭に入って来たの。もしかしたら、言葉に表れない何かが言葉を補足していたのかもしれない。二人だけにしかわからない暗号やサインみたいな何かが。


「麻耶、行くわよ」


 「彼女」の声が麻耶をコンビニの中へと導く。

 そのときの麻耶から戸惑いは消え失せ、それに取って代わるように嬉しい気持ちが心を満たしていた。なぜなら、独りぼっちだった麻耶に友だちができたから。いつもそばに居て、麻耶を守ってくれる友だちが。


★★


「――おねえさん、よろしくお願いします」


 コンビニ中に聞こえるような大きな声で「お得意様宣言」をした「彼女」は、営業スマイルを浮かべて二人のスタッフに深々と頭を下げる。そして、そそくさとコンビニを後にした。


「上手くいった。じゃあ、私はそろそろ行く」


『行くって……どこへ? せっかくお話できたのに』


「もともと今日はあなたに挨拶をして帰る予定だった。私はいつも頭の中ここにいる」


 「彼女」は右手の人差指の先で麻耶の頭をコンコンと叩く。


『でも、これからアパートに戻ってあのひとに話をしないと』


「だから、それは私がやる。あなたは黙って見ていればいい」


『あっ、そうか』


 自分が勘違いをしていたことに気付いた。「彼女」が帰ってしまったら麻耶と会話ができなくなるだけ。麻耶の代わりに話をする分には何の問題もない。


「何か話があれば、コンビニここで話をして。じゃあね」


 そんな言葉を残して「彼女」はいなくなった。頭の中で何度か呼び掛けたけれど「彼女」は何も言わなった。もともと実態がないのだから「いなくなった」と言うより「気配が消えた」といった方が正しいのかもしれない。


 麻耶は「彼女」のことを誰にも話さなかった。お母さんに話してもどうせ「夢でも見たんでしょ?」なんて言われるのがわかっていたから。でも、それは夢でも幻でもなかった。次の日、あのコンビニへ行ったら「彼女」と言葉を交わすことができたから。コンビニ以外で「彼女」と会話をすることはなかったけれど、いつも「彼女」は麻耶のそばにいてくれた。


★★★


『あなたは誰なの? いつから頭の中そこにいるの? そこで何をしているの?』


 「彼女」と出会って数日が経ったある夜、コンビニの軒下でスティック状のスナック菓子を頬張りながら麻耶は尋ねた。


「前にも言ったでしょ? 私はあなた自身。いつ生まれたのかわからない。でも、あなたを幸せにするためなら何だってやる」


『でも、あなたは麻耶なのに、どうして麻耶が知らないような難しいことをいろいろ知っているの?』


「あなたが気付いていないだけ。本当はあなたが知っていることばかり。私はあなたの『深層心理』にある、記憶や知識を使っているだけ」

 

 麻耶の最大の疑問に「彼女」はサラリと答えた。

 「彼女」の言ったことを要約するとこういうこと。人の記憶は「表層心理」と「深層心理」に分かれて存在していて、その大部分は「深層心理」にある。そこは記憶の倉庫みたいな場所で、麻耶がこれまでに見たもの、聞いたもの、食べたもの、触ったものなんかの情報が全て格納されている。

 「表層心理」にある情報は自分の意思で自由に取り出せるけれど「深層心理」の情報はそうはいかない。自分の意思とは関係なく、何かの拍子に思い出す程度。ただ、過去に自分の意思でそれができる人がいて、彼らはみんな「天才」と呼ばれた。

 「深層心理」には、赤ちゃんのとき食べた離乳食の味やお母さんが歌ってくれた子守唄の歌詞なんかもすべて情報として格納されている。また、普段交わした会話や何気なく聞いた言葉も一言一句漏らさず保管されている。

 「彼女」が発する言葉は、これまで麻耶が得た知識がベースになっている。特にここ半年の間、毎日数時間に渡って聞かされた、テレビのニュース番組の情報が大きいらしい。あの雑音にそんな重要な意味があったなんて、驚き以外の何物でもない。


「麻耶、あなたは頭がいい。いくら膨大な情報があっても、それを咀嚼そしゃくして使いこなすすべがなければ、四歳の子供がこんな話はできない」


 細かいことはよくわからないけれど、どうやら麻耶はたくさんの知識があるだけでなく、頭がいいらしい。考えてもピンと来なかったけれど、とりあえず良かったと思った。だって、そのおかげでこうして「彼女」と友だちになれたのだから。


 「彼女」が現れたことで、麻耶の生活は大きく変わった。

 保育園と託児所にダブルで預けられて、夜中に家へ帰る生活は相変らずだったけれど、豚小屋みたいな託児所を公然と抜け出してコンビニへ行くことができたし、お母さんから毎日お小遣いをもらえることになって、店員も麻耶をお客さんとして扱ってくれたから。

 それから、麻耶の嫌いな、お父さんあの人みたいな男には、いつも「彼女」が毅然とした態度で接してくれた。クールな表情で淡々と話す「彼女」はすごく凛々りりしくて、とてもカッコ良かった。


 「彼女」のおかげで麻耶はいつも穏やかでいられたの。幸せな気持ちを胸に抱きながら。


 つづく

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