第2話 邂逅の夜
★
麻耶の託児所生活が始まって半年が経った頃のこと。
テレビで何とかっていう、有名なニュースキャスターが番組の始まりを告げていたから、時刻は午後十時になる、ちょっと前だったと思う。
麻耶は、アパートの六畳間で膝を抱えながら壁にもたれ掛かって、焦点の合っていない目でぼんやりと
タバコの煙と人の息が入り混じった、
心も身体もくたくただった。
普通の子供は眠っている時間だったけれど、とても眠れる環境じゃなかった。家に帰って布団に入っても状況は同じ。疲れてフラフラな状態なのに、次の日も同じ託児所へ連れて行かれると思うと、胸が苦しくなって眠るどころではなかった。ウトウトしても一時間も経たないうちに
昼も夜も、大きな不安と恐怖が麻耶の心を
昼間に預けられた保育園でも落ち着かなくて、周りの子と打ち解けることなんかできなかった。友だちもできなくていつも麻耶は独りぼっち。疎外感と倦怠感から来る、大きなストレスで小さな身体が押し潰されそうだった。ただ、誰にも相談できなかった。お母さんに言っても何も変わらなかったのだから、保母さんに言っても無駄だって思った。麻耶は辛い気持ちをずっと自分の中に押し込めていたの。
不意に、表情のない麻耶の頬を一筋の涙が伝った。
『どうして? どうして麻耶だけこんな目に遭うの? 何も悪いことなんかしていないのに……。幸せになりたい。ちょっとでいいから幸せになりたいよ』
心の中で、そんな言葉が何度も何度も繰り返された。
『
麻耶の怒りの矛先は、自分を捨てた父親に向けられていた。顔も名前も知らない父親に対してありったけの恨み辛みをぶつけていた。流れる涙の粒が
「大丈夫。心配しなくていい。あなたは幸せになれる」
不意に、どこからか女性の声が聞えた。
室内には相変わらず雑音が響いていたけれど、その声ははっきりと聞き取れた。慌てて周りを見回したけれど、麻耶に話し掛けている人はいない。
「悲しみも苦しみも全部、私が引き受ける」
再び声が聞こえたとき、麻耶は気付いたの。その声は頭の中で響いていることに。
疲れているせいで幻聴が聞こえているかと思った。そうでなければ、夢でも見ているかと思った。
「幻でも夢でもない。私はあなた自身」
麻耶が心の中で思ったことに対してその声は即座に答えた。
声のトーンは女性みたいで、麻耶の声に似ている。
『あなたが……麻耶?』
恐る恐る、麻耶は心の中で言葉を発してみた。
「そう。私は麻耶。あなたの味方。だから心配しなくていい」
即座に「彼女」から穏やかな声が返って来る。
「悲しいことや苦しいことは全部私が引き受ける。嫌なことがあっても、あなたはただ黙って見ていればいい。不幸なのはあなたではなく『私』だと思えばいい。あなたはいつも『自分は幸せ』だと思っていればいい」
『引き受けるってどういう意味? 何かしてくれるの? 麻耶が死ぬほど嫌いな
質問をしながらやっぱりダメだって思った。言葉のトーンが次第に落ちていくのが自分でもわかった。「彼女」が言っていることがあまりにも現実離れしているのが、四歳の麻耶にも十分理解できたから。
「わかった。見せてあげる。とりあえず、外に出ましょう。こんな豚小屋みたいなところにいたら息が詰まるから。麻耶、立つのよ」
頭の中で「彼女」が麻耶に対して立つよう促す。
すると、それが人を操る呪文であるかのように麻耶はすくっと立ち上がったの。
『ダメだよ。外には出ちゃいけないんだよ』
「わかっている。だから、外に出られるように話をする」
「彼女」は麻耶の言葉を遮ると、壁にもたれて携帯で音楽を聴いている、金髪の男の方へ歩いて行く。自分の前に麻耶が立っていることに気付くと、男は不機嫌そうに耳からイヤホンを外す。
「何か用か?」
男は狐のような細い目で麻耶の顔を睨みつけるように見ると、首を左右に振ってコキコキと関節を鳴らす。こんな仕草を間近で見るのはもちろん、同じ空気を吸っているだけで
『やっぱり止めよう。喧嘩になるよ』
麻耶がそんな言葉を「彼女」に言おうとした、そのときだった。
「十分ぐらい外に出てもいいですか?」
「彼女」が男に向けて言葉を発した。話しているのは麻耶ではない。でも、目の前の男はそうは思っていない。
「あぁん? お前、何言ってんの? 外には出ちゃいけないことになってるだろ? 規則なんだから駄目だっての」
男は細い目をさらに細めると、「このくそガキ」といった言葉が聞こえてきそうな、不快な表情で麻耶のことを見る。予想通りの展開に麻耶は心の中でため息をついた。すると、間髪を容れず、再び「彼女」の毅然とした声が聞こえたの。
「十分だけ許可してください。どうしてもダメだと言うのなら、あなたにヘンなことをされたとお母さんに言います」
想定外の言葉に男はポカンと口を開ける。しかし、すぐに、大きな声をあげて笑い始めた。まるで麻耶を馬鹿にするみたいに。
「幼稚なこと言ってるんじゃねえよ、このくそガキが。そんなこと言ったって誰も信じちゃくれないっての。嘘を言っているかどうかなんて調べればすぐにわかるんだよ。脳みそが足りてないガキが。いいから大人しくしてろや」
男は見下すような眼差しを麻耶に向けると、右手を振って「シッシッ」と追い払うような仕草をする。
「そんなことはわかっています。でも、警察が調べることになったら問題があるんじゃないですか? 認可外保育所の基準が満たされていないこととか」
麻耶の一言に男の顔から笑いが消える。
その顔には怒りと驚きがいっしょになったような表情が見て取れる。
「このくそガキが……二度とふざけたこと言えないようにしてやろうか?」
男の口調が真剣味を帯びる。「彼女」の言葉が男に火をつけてしまった。麻耶はどうしたらいいかわからなかった。見ていることしかできなかった。
不意に玄関から「ガチャリ」という、鍵を開ける音が聞えた。もう一人の保育士――男の恋人と思しき女が戻って来たみたい。
「今からあの
「なっ……」
男は口を半開きにして言葉を失う。たぶん目の前で表情一つ変えずに話をしているのが、四歳の子供とは思えなかったから。それは当然。だって、麻耶もそう思ったのだから。
「普段ならあの
玄関のドアが開いて「ただいまぁ」という、気だるそうな声が聞えた。
「私は多くは望みません。ほんの十分だけ外に出られたらそれでいいんです。悪い話ではないと思います」
表情のない顔で淡々と話す麻耶を見つめながら、男は肩を震わせて荒い呼吸をする。それは、まるで蛇に睨まれた蛙のようだった。
「どうしたのさ? そんなとこにボーっと突っ立って」
顔中にたくさんのピアスと厚化粧を施し、少女漫画のキャラのように気持ち悪いぐらい目がパッチリとした女は、コンビニの袋を手に怪訝な表情を浮かべる。
「おねえさん、おかえりなさい。今ね、おにいさんに少しだけ外に行ってもいいか、お願いしてたの」
女の方へ顔を向けた瞬間、大人びた「彼女」は消え失せ、そこには愛らしい表情を浮かべる、四歳の幼女の姿があった。
「そうなの? いいの? そんなの許しちゃってさ」
間髪を容れず、女は男の顔をジロリと見る。
「あ、ああ。十分だけだぞ」
男は罰が悪そうにポツリと言うと、携帯のイヤホンを耳にはめ直した。
女はキョトンとした表情で目をパチクリさせる。
「おねえさん、十分経ったら玄関のピンポンを押すから鍵を開けてね」
そそくさと靴を履いた「彼女」は、玄関のドアを開けながら笑顔で言ったの。ただ、その目は笑ってはいなかった。
つづく
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