第7章 もろびと手をとり、歩き出せ

ままならないもの

 亮がオズの魔法使いの台詞を口にしていたが、我が家が一番だというのは、父親にとってもそうだったらしい。しばらくは動くのも億劫そうにしていたが、やはり自分の家は精神的に楽なようだった。けれど、胃を切除した影響で胸焼けを起こしやすくなり、無理をすると、すぐに吐く。


 それでも、彼は三月に入ると仕事に復帰した。体力が戻ったとは言えなかったが、卒業や入学シーズンは記念写真の依頼が舞い込むので、のんびりしていられないのだ。 


 俺はというと、亮と英知の店での勤務を辞め、みっちりと実家の手伝いをしていた。父親は以前より疲れやすくなっていたし、体調を心配する母親を安心させるためでもあった。


 その傍、あんなに足が遠のいていたハローワークに通うようになった。本腰を入れて家業を継ぐ前に、少しでもよそのスタジオのノウハウを吸収したいという意欲が生まれていたのだ。


 そうはいっても、カメラマンの求人は少なかった。おまけに正社員としてみっちり働きたくても、父親の体調は万全とは言えない。店番のことも考え、アルバイトの口を優先して探していた。


 そんな俺に、父親は「俺のことは平気だから、思いっきり働いてよその技術を盗んでこい」と顔をしかめていたっけ。でも、しょっちゅう胸焼けで顔をしかめる姿を見ていると、少しでも助けになれる時間が欲しいと思うのだった。


 役員を経験する前には『新しい何かを始める前に、もう少しこのままで懐かしさに浸っていたい』なんて考えていた。その『新しい何か』の正体だってわからなかった。それなのに、気がつけば道はまだなくても進むべき方向だけはわかっている自分がいる。人間って、ほんの数週間で変われるんだと驚いていた。


 三月も中旬にさしかかった頃だ。


「お、届いてる」


 郵便受けからフリーペーパーを取り出した俺は、玄関に立ったまま、ページをめくり出した。

 『三代目が撮る』のタイトルを見つけ、思わず口元が緩んだ。記事に添えられた写真には、父親が写っている。写真館でカメラを操る姿で、その顔は息子の俺から見ても生き生きとしていた。猫背で将棋を指す普段の父親とは別人のようだ。


 俺の書いた記事は三週連続でフリーペーパーに連載された。初回は洋子さん、二回目は亮、そして最後を飾ったのが、この父親の記事だ。

 自分の写真をこうしてフリーペーパーで見るたび、じんわりと胸が満たされ、にんまりと笑ってしまう。父親の写真は、連載最終回を飾るに相応しく、会心の出来だった。


 この写真を撮影したのは、退院の翌週だった。退院したその日に撮影しようとしたら、母親に『この写真バカども! 退院した日に何をやってんの。まずは休むのが先っしょ!』と叱られてしまった。よほど夫の心配をしていたのだろう、その反動もあって、しばらく『まったくうちの男どもときたら優先順位がいつもおかしいのよ』などと、ぶつぶつ愚痴り続けた。

 そのとき、父親がこう提案したのだ。


「来週、母さんが六十になるだろう? その記念写真を撮ろう。その姿を撮るというのはどうだ?」


 それを聞いた母親は一転して機嫌がよくなり、夕食の献立は父親の好物ばかりになった。さすが長年連れ添っているだけあって、いろいろ心得ている。


 いざ撮影をしてみると、父親は被写体が妻でも一切の妥協はなかった。カメラを扱う間はプロに徹底している。人を和ませる笑顔を浮かべていても、その眼光が鷹の目のようだった。

 撮影の後、俺はこう尋ねた。


「親父はどうして写真館を継ごうと思ったんだ?」


 創業者の祖父は厳しい人だった。写真についても妥協しなかったはずだ。その彼について学ぶのは容易なことではないと思う。


「いちいち考えたことねぇよ、そんなこと」


 父親はあっけらかんとして、言い放った。


「じいちゃんが写真を撮るのをずっと見て育ったせいかな。写真は俺の仕事になるずっと前から、俺の一部になっちまった。目にするのが当たり前、そこにあるのが当たり前。俺にとっては、写真を撮ることは息をすることと同じくらい当たり前なことだったんだよ」


「じゃあ、他にやってみたい仕事なかったの?」


「ないね」


 彼は記念写真のサンプルの分厚いファイルをめくり、目を細めた。


「なぁ、憲史」


「うん?」


「記念写真を撮りに来る家族ってのはさ、みんな幸せな顔してるだろ? まぁ、時々はそうとも言い切れない訳ありも来るだろうが」


「あぁ、うん」


「俺はな、どんなに世間が世知辛いとしても、どんなに社会が冷たくても、こんなにいい笑顔が撮れるなら世の中捨てたもんじゃない、まだまだ大丈夫だって思いたかったんだな。だって、まずは人ありきだからな」


 そう言って、彼はパタンとファイルを閉じ、背中を向けたまま呟いた。


「俺はこう見えても、人が好きなんだ」


 そう言い残し、彼は母屋に姿を消した。

 俺は初めて、父親の背中をかっこいいと思った。前よりずっと痩せて、細い肩だ。以前の俺なら老いしか見えず、決して良くは見えなかっただろう。

 だけど、中判カメラを自分の体の一部のように操り、被写体の心をなんなく開いてしまう姿は大きく見えた。いつの日か、亮が『お前の親父さんは、体は小さくてもでっかい人だぜ』と言ってくれたことが、今更になって理解できたんだ。


 父親の写真が載った記事には、照明のコツを書いていた。撮影時間を選んだりして太陽の光をうまく使えば、レフ板がなくてもいい写真は撮れる。そして連載の最後をこんな文章で締めた。


『写真を撮るとき、あなたの被写体への想いも写るはずです。技術やコツも大事ですが、被写体と向き合い、心を通わせれば、写真はきっと魅力的になれます。どうか、日々の中で写真を撮ることを楽しんでください』


 写真に携わる人間にとっては当たり前のことだが、恥ずかしながら俺にとっては、商店街に戻って初めて実感したことだった。


 フリーペーパーを両親に見せると、母親はそれを早速切り取り、額縁に入れて店に飾った。その顔が嬉しそうなのを見ると、なんだか柄にもなく涙が出そうになった。

 切り抜きを店に飾ったのはうちの母親だけではなかった。洋子さんも自分の載った記事を店に飾っている。


「売上がぐっと伸びたってことはないけどさ、『記事を見たよ』って言ってくれるお客さんは多いよ」


 彼女はまんざらでもない顔でそう言っていた。

 フリーペーパーの効果は劇的ではなかったが、皆無でもなかったようだった。

 うちの写真館にも、カメラについて質問してきた学生が一人いた。その子は、俺が店番をしていると、ちょくちょく訪ねてきては、カメラについて語っていくようになっていた。売上にはつながらないかもしれないが、カメラ好きが増えるのは喜ばしいことだ。それに俺の記事がきっかけで、縁が繋がった気がして、言いようもなく嬉しかった。

 

 その夜、部屋でくつろいでいると、携帯電話が鳴った。麻美さんからだ。


「もしもし、お久しぶりです」


 最後の打ち合わせで顔を合わせたのは、二週間ほど前だ。久しぶりというほどでもないが、麻美さんとはちょくちょく打ち合わせしていたせいか、たった二週間でもそんな気がしたんだ。


「フリーペーパー、届いた?」


 麻美さんが相変わらずほわんとした響きの声で言う。


「はい。ありがとうございました。麻美さんの協力がなかったら、形になっていなかったと思います」


「いいえ、とんでもない。少しでも客の反応があればいいけど」


「まったくないわけでもないみたいですよ」


「あら、そう? 亮君は全然ないって言ってたから、心配しちゃった」


 亮の名前が出て、思わずどきりとした。だが、彼女はそんな俺の心中も知らず、あっさり話題を変えた。


「そういえば、駅ビルの工事、進んでるみたいね」


「あ、そうなんですか?」


 滅多に駅方面に行かない俺は、まだ駅ビル建設の様子を目にしたことがなかった。


「トタンで囲んであって中はよく見えないけど、大きなクレーンもあったし、看板には六月に立体駐車場ができるって書いてあった」


「六月ですか。思ったより早いオープンだな」


「あ、でも噂によると商業ビル自体は年末のオープン予定だって。バスターミナルが直結するから、バスの運行路線も変わるかもね」


「もしかしたら、商店街のほうを回るバスも減るかもしれませんね」


「それはわからないけど、来年には最上階に個人病院が幾つか入るらしいの。それがオープンすると患者さんが移動するだろうね」


 商店街はどうなってしまうんだろう。おしよせる不安に眉をしかめていると、麻美さんが言う。


「それで、商店街はどんな対策をするの?」


「俺はもう理事会に出席していないんで詳しくは知りませんが、亮によると具体的な対策っていうのは出ていないみたいですね」


「なぁんだ、そうなの」


「ただ、今回のフリーペーパーを見た組合員の反応次第では、ガイドブックを作成しようって案は固まったみたいです」


「へぇ。そのガイドブック、憲史君がまた撮影するの?」


「その予定です」


「面白そうね」


「ただ、いろいろ問題はありますけどね。お金のこともそうだけど、外国語表記の翻訳を手伝ってくれる人とか、ガイドブックを置いてくれる施設を探さなきゃ」


「外国語なら協力できるかも。通訳と翻訳のボランティア団体を主宰してる人、知ってるわ」


「本当ですか?」


「もし商店街の人たちから了承がもらえたらの話だけどね。その案が動き出したら連絡して。話してみるわ。ただ、依頼次第では、お金が発生するかもしれないけど」


「はい。よろしくお願いします」


 電話だというのに深々と頭を下げてしまい、つい苦笑した。


「でも、いつになるか。五月には役員の総会もあるし、七月に夏祭りがあるんで慌ただしいですからね」


「あぁ、そうか、もうそんな時期が来るのね」


 高瀬市では七月中旬から秋まで、盆踊りや神社祭りなど、各地で様々な祭りが続く。その中でも一番最初に始まる祭りが、市役所でのYOSAKOIソーランのイベントとビア・フェスタだ。それに合わせ、市内にある各商店街が同じ日に一斉に夏祭りを開催するのが慣例だった。


「お祭りシーズンは記事に事欠かないから、うちとしては助かるんだけど、実行するほうは大変よね」


「そうみたいですね。今年はうちの親父も無理はできないんで、俺も手伝おうと思ってます」


「そういえば、役員の代理人は終わったんですってね」


「あ、そうなんですよ」


「それじゃ、今はどうしてるの? 写真館の仕事?」


「うちの親父が病み上がりなんで、しばらくは店の手伝いをメインにやっていきます。今はアルバイトでスタジオの仕事を探そうと思ってます。もう少しよそで写真の勉強をしたくて」


「ふぅん」


 少しの間、彼女は何かを考えていたようだが、すぐに「まぁ、いいわ」と明るく言った。


「とにもかくにも、このたびはお世話になりました。お疲れ様! それじゃ、また何かいい記事になりそうなネタがあったら、よろしくね」


 彼女はそう言って、俺の返事も待たず電話を切ってしまった。

 麻美さんは心強いと同時に、アクティヴ過ぎて、まるで春の嵐のように気圧されるときもある。どっしりと構えた亮とは正反対のように感じた。


 亮の記事について打ち合わせしたときの様子を、ふと思い出した。亮の写真を見た麻美さんは、目を細めて一言、こう口にしたのだ。


「私の知らない顔をしているね」


 そう言った彼女の顔に少しの嫉妬を見てとり、俺は意外に思った。


「麻美さんの前では、どんな顔なんですか?」


「そうねぇ」と、ちょっと考えてから、彼女は答えた。


「とっても正直な顔よ。でも、素直ではないのよね」


「正直と素直って同じことじゃないんですか?」


 首を傾げると、彼女は眉尻を下げた。少し困ったようで、はにかむような、なんともいえない曖昧な顔つきだった。


「同じだったら、楽なのにね。違うのよ」


 その顔を見て、俺は直感した。彼女は亮の気持ちをとっくに知っているのだ。

 けれど、俺がそのことについて口を出すべきではないし、彼女もそれ以上は亮について何も言わなかった。


「この先、どうなるんだろうな」


 俺は携帯電話をテーブルに置き、床に寝転んだ。商店街の人々、亮、麻美さん、そして英知の顔が次々に浮かんでいく。

 けれど、この胸にあるのは、以前のように不安に押し潰されそうな息苦しさばかりではなかった。結果はわからなくても、俺にできることがあることで、まっすぐ前を向いていられるような気がしたのだった。


 亮たちの恋の行方に関しては、俺にできることは何もない。ただ見守るだけしかできないのも、辛いものだ。だけど、誰が泣いて誰が笑っても、受け止めるしかない。人の気持ちは商店街よりもままならないのだから。

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