四月の蕾
俺が札幌市にある写真スタジオでアルバイトを始めたのは、四月のことだった。そこは記念写真だけでなく、カタログ用の商品やモデルの撮影も請け負っているところで、パソコンでの画像処理を担当することも多かった。
快速電車で通勤するようになり、俺は改めて駅前の変わりように驚いていた。駅からすぐそばに大型店があり、ロータリーの向こうには大手チェーンの店舗が並ぶ。いつの時間帯も、商店街とは比べものにならないくらい、人通りがあった。
駅を出た電車がゆっくりと高架を走り出すと、すぐ目の前に駅ビルの工事現場が現れる。普段は囲われて見えない鉄筋の骨組みや盛り土が露わになると、つい商店街を思い出して憂鬱になる。駅ビルが完成する日がなんだか怖くなった。
休みの日は相変わらず実家で店番をしているものの、役員を降りた今、商店街の動きはわからなくなっていた。
もともとは役員が何をしているかも知らなかったんだから、以前の状況に戻ったようなものだけど、今ではふと『みんな、どうしているんだろう』などと気になってしまう。
駅ビルには真似できない商店街の売りといえば、地域密着型のサービスくらいしか浮かばない。顔と顔をつきあわせた、人情味のあるやりとりなら、きっと負けない。けれど、利便性に勝る魅力があるかと訊かれれば、それだけでは心もとなかった。大きな駐車場がないのは、痛手なのだ。
その頃、亮は俺にこんな話をしていた。
「ガイドブックに写真つきで掲載してもいいって店が、ほんの一握りなんだ。店名だけならいいって人はいるんだけどさ」
長年培ってきた消極性は、そう簡単には変えられないらしい。
「印刷会社を先に見つけて、概算を出しちゃったほうがいいかもな。おおよその出費がわかれば、『その値段なら出す』って言ってくれる人も出てくるかもしれない」
そう言った亮は、少しぐったりしていた。商店街の組合員の中には、年若い彼があれこれ活躍するのを生意気だとやっかむ人も少なからずいる。そういう意味でも、気疲れするのだろう。
それに、商店街の人々の腰が重いのは、駅ビルができる不安に襲われ、尻込みしているからだ。
見えない不安というのは、人の心を重くする。そして不安の影は人の視野を狭くしてしまう。おまけに『こうなるんじゃないか』『あんな風になったらどうしよう』と、まだことが起きてもいないのに勝手に想像してしまって怖くなるものだ。俺にも身に覚えがある。
フリーペーパーの記事を書いたとき、俺の中に変化が起きたように、商店街も動き出すんじゃないかという気がしていた。けれど、実際はこんなもんだ。
駅ビルがオープンする前だからこそ、夏祭りは活気のあるものにしたかった。商業棟がオープンするまで、少しでも商店街を覚えて欲しい。だけど、みんな協力してくれるだろうか。
「やれることから、片付けていくしかないんだけどな」
でも、どうしても焦ってしまうんだ。だって、俺の中にも不安はあるし、そんなに人間ができているわけでもないから、すぐに揺らいでしまう。
店番をする俺は、相変わらず人通りのない商店街を見つめ、何度となくため息を漏らすのだった。
英知から電話がかかってきたのは、ゴールデンウィークを控えた頃だった。
「憲史、明日ってうちの店に来れる?」
彼が営業の電話をかけてきたのは初めてだった。少し意外に思い、眉をひそめる。
けれど、次いで出た英知の言葉で腑に落ちた。
「前に言っただろう? あのときの礼をしたいんだ。是非、亮と一緒に来てよ。ご馳走するから」
彼が言う『あのとき』とは、亮が英知の恋人と喧嘩したときだろう。そういえば、違う形で礼をすると言っていた。
「なんだ、別にいいのに」
「そうはいかないよ。できれば、夜の九時くらいに来てもらえるとちょうどいいんだけど、どう?」
「なんだ、寿司の出前でもとってくれるのか?」
電話の向こうで英知はただ笑うだけだったから、お礼は寿司ではないらしい。
「俺は大丈夫だけど、そんなに遅くまでいられないけど、いい?」
正直に言って、端午の節句を控えていて忙しい時期だった。けれどせっかくの申し出だ。
「亮は来れるかな?」
「聞いてみるよ。駄目だったら、俺一人で九時に行くから」
「ありがとう。よろしくね」
英知との通話が終わると、すぐ亮に連絡を取った。
亮は喧嘩をしたことなどすっかり忘れていたらしい。
「別に礼をする必要もないのにな」
そう言って、短い唸り声を上げた。
「まぁ、息抜きにもなるし、気持ちはありがたいし、行くよ。ただ、総会を控えてて忙しいから、ちょっと遅くなる。先に行っててくれ」
こうして、俺は翌日の九時に、一人で英知の店を訪れた。
店に入ると、英知がカウンターの女性客と談笑しているところだった。他に客はない。女性客は五十代くらいだろうか、俺を見て話を中断すると、黙ってグラスに手を伸ばす。ふくよかな顔で、愛想が良さそうだった。俺がここで働いているときには、一度も見なかった顔だった。
英知は俺を見て、「いらっしゃい」と顔を輝かせた。
「ありがとう、来てくれて。亮は?」
「遅れるってさ」
「そうか。座って」
俺は女性客から少し離れたところに腰を落ち着けた。
すると、女性客がおしぼりを差し出した英知にこう話しかけた。
「よかったね、英ちゃん。お客さん来てくれて。今日は私一人で店じまいかと思ったよ」
「本当ですね。福の神が飲みに来てくれたからかな」
「私は神じゃないけど、体つきだけは恵比寿様ね」
自虐ネタの通り、風船のような体つきをしている。あまりジロジロ見るのも失礼だと思い、じっとおしぼりに目をやっていると、英知が俺に話しかけてきた。
「憲史、こちらは瑞枝さん。この界隈じゃ有名なお酒好きだよ」
慌てて礼をし、挨拶する。
「初めまして。甲斐憲史です」
すかさず英知が「甲斐写真館の息子ですよ」と説明すると、彼女は「ああ」と大声を上げた。
「ちょっと前に『たかせっこ』に記事を書いてたね。そうかい、あんたが三代目か」
「はぁ、そうなんです」
フリーペーパーの名前を出され、思わず照れ臭くなってしまった。
「英知、ビールくれ」
「かしこまりました」
ビールが出てくるのを待ちながら、ちらりと瑞枝さんのグラスを盗み見た。彼女が飲んでいるのは、真っ青なカクテルだった。まるでサファイアのように綺麗な色をしている。
出てきたビールを一口含んだところで、英知が話しかけてきた。
「商店街のガイドブックを作る話、難航してるんだって?」
「なんだ、亮から聞いたのか?」
「うん」
「いずれはポスターも作ろうって案はあるんだけど、全員を乗り気にするには、もう少し時間がかかるな。亮は印刷会社を先に探して、見積もりをお願いしようかって考えてるみたいだな」
そう言ったとき、瑞枝さんが口を挟んできた。
「君、商店街の役員なの?」
「いえ、この前まで代理人だったんですけど、いずれは役員としてやっていきたいとは考えてます」
「ふうん。ガイドブックって、新陽通り商店街の店舗を載せるつもり?」
「そうなんですけど、名前だけでいいって人も多いんですよ。駅ビルができるんで、腰が引けている人も多いんじゃないですかね」
「まぁ、気持ちはわかるよね。太刀打ちできないもん」
彼女はカクテル・グラスを傾け、軽く頷いた。
「それでも、足掻こうっていうの? 勇気あるね」
俺は少し眉をひそめる。彼女の声には、俺を試しているかのような、挑発的な響きがあったように聞こえたからだ。それに、太刀打ちできないと決めてかかったことに、少し腹が立った。
「うちの商店街は足掻きますよ。ただし、真っ向から挑むわけじゃないですけど」
「へぇ、じゃあ、どういう風に攻めるつもり?」
「駅ビルにはない魅力を伸ばすしかないと思うんですよね。興味を持ってもらいたいんです」
「フリーペーパーに載せたからって、そんなに効果があるとは思えないけど? ガイドブックやポスターを作っても変わらなかったら?」
瑞枝さんの声からまたもや否定的なものを感じ取った俺は、半ば意地になって答えた。
「フリーペーパーで一回広告したくらいじゃ、そりゃ目に見えた変化はないですよ。でも、まずは知ってもらいたいんですよ。それには声を大にするより、続けることが大事だと思ってます」
瑞枝さんは何も言わない。俺は苛立ちを紛らわそうと、カウンターの上で手を揉み合わせた。
「俺、商店街のみんなが好きなんです。でも、どこが好きかって訊かれたら、やっぱり直接会いに来てもらうのが一番わかりやすいから」
「なんだか、若いねぇ」
瑞枝さんがぽつりと言う。
「やる気のない商店街の人だって、かつてはあんたみたいな若者だったはずなんだけどね。そういう腰の重い年寄りを邪魔だと思わないの?」
なぜ、こんなに突っかかってくるんだろう。邪魔だなんて、言い過ぎだ。
「邪魔な人なんて一人もいませんよ。もどかしくはありますけどね、あの人たちはじっと、商店街で店を開け続けてくれたんです。店を畳もうと思えば畳める人も、じっと商店街を守ってくれてるんですよ。攻めるのは、俺たち若手の出番です」
「へぇ」
「がむしゃらに無茶をするのは、若者だけでいいんです」
「お年寄りには期待してないってこと?」
「そうじゃないけど、時代の流れを汲んだり、イベントで動き回るのは、現実的にお年寄りには難しいでしょう。でも、その代わり『亀の甲より年の功』で俺たちにはできないものの見方で諭したり、叱ったり、見守ってくれれば心強いです」
俺はまっすぐ瑞枝さんを見据えた。
「焦らないことにしてるんです。自分の商店街の組合員すら味方にできるくらいの説得力がなければ、市民に良さをアピールしたってたかがしれてますからね。じっくり、距離を詰めていこうって考えてるんですよ」
「ふぅん、あんた、面白いね」
瑞枝さんが真っ赤な唇を釣り上げたとき、店の扉が開いた。
「すまん、待たせた」
俺に歩み寄ってきたのは亮だった。張り詰めていた空気がふっと緩むのを感じ、胸をなでおろした。このままじゃ瑞枝さんと喧嘩になりそうだった。
亮は何も知らず、呑気な顔をしている。
「英知、悪いな。ご馳走になりに来たぞ。でも、礼なんて気にしなくてよかったのに」
「そうはいかないよ。座って」
「んじゃ、とりあえずビールくれ」
英知の顔はいつも通りだったが、おしぼりを取り出そうと屈んだとき、こっそり口元から笑みがこぼれたのが見えた。やはり、気持ちを押し隠していても、会えるのは嬉しいのだろう。
亮は俺の隣に腰を下ろし、おしぼりで手を拭いていたが、ふと瑞枝さんを見て、ぎょっとした。
「あれ? 山さん?」
亮が瑞枝さんを『山さん』と呼ぶと、彼女は少し驚きながらも、にやりと笑った。
「英ちゃんのもう一人のお友達って、奥田君だったのね」
「知り合いか?」
驚いた俺に、亮が戸惑いながら頷く。
「山崎瑞枝さんは高瀬印刷会社の社長で、錦川商店街の役員だよ」
「ええ?」
思わず目を見開くと、瑞枝さんはくくっと小さく笑って英知を見た。
「英ちゃんが営業電話なんで珍しいと思ったら、私たちを引き合わせるつもりだったね?」
「ばれましたか」
英知が口元に静かな笑みを浮かべた。
「瑞枝さんなら、力になってくれるんじゃないかと思ったんですよ」
「どうして私なんだい? 他に印刷会社なんて沢山ある。それに自分のところの商店街だけでも手一杯なのに、よその力にまでなれると思うの?」
「瑞枝さんは憲史たちを気にいると思うんですよね。それに、どこの商店街だろうと関係なく盛り上げていかないと、駅ビルと大型店にないものが商店街にあるって、みんなが気づくことはないんじゃないでしょうか」
二人のやりとりを聞いている間に、俺は心の中で『なるほど』と頷いていた。英知は亮が印刷会社を探そうとしていることをとっくに聞きつけ、こうして橋渡しを企てたんだ。
「待って、話が見えないんだけど」
慌てている亮を、瑞枝さんが面白そうに見ていた。
「奥田君、あんたはいい友達を持ったみたいだね」
「えっ?」
「さっきの写真館の三代目のセリフをさ、うちの商店街の若い者からも聞きたいもんだよ。羨ましいね」
英知に差し出されたビールに手を伸ばしていた亮は、俺を横目で見ながら「お前、何を言ったの?」と囁く。
そうは言われても、あらためて説明するのも恥ずかしい。返事をしかねていると、瑞枝さんはこう言った。
「おたくの商店街がガイドブックやらポスターを印刷したいときは、力になってもいいよ。その代わり、反応がよければ、うちの商店街の写真も依頼していいならね」
俺は思わず腰を浮かせた。
「それはもちろん!」
亮はやっと状況が飲み込めたようだ。
「でも、山さん、お気持ちはありがたいけど、まだ参加人数も定まってない段階なんですよ」
「だから、大体の見積もりなら、何パターンか出してやるよ。実際の金額を見れば重い腰を上げるやつもいるかもしれない。それだけならタダだし、うちは別に構わないよ」
彼女はケラケラと笑い飛ばす。
「気長に待とうじゃないか。いきなりみんなを集めるっていうのは無理があるけどさ、こうして私みたいに一人、そしてまた別の一人が次々に手を取り合っていけば、いずれは全員がまとまるだろう」
そして、彼女は青いカクテルを飲み干し、夢見るように言った。
「私は若者の向こう見ずは嫌いじゃないんだよね。何かに打ち込んでいるのを見るとさ、こっちまで若返った気がする」
空のグラスを見て、英知がそっと言った。
「ありがとうございます。何かお召し上がりになりますか?」
「スカイ・ダイビングをもう一杯」
あの真っ青なカクテルは『スカイ・ダイビング』というものらしい。英知はラムとブルー・キュラソー、そしてライムジュースを量り入れ、軽やかにシェイクした。
英知が澄んだ青空のようなカクテルを差し出しながら、言う。
「瑞枝さんはね、青いカクテルしか飲まないことで有名なんだよ」
「そうさ、私は青が好きなんだ。だから、青臭い奴らががむしゃらになるのも、悪くはない」
全員で乾杯を交わすと、亮と瑞枝さんが商店街の情報交換を始めた。
それを聞きながら、ふと英知を見る。彼は視線に気づき、微笑んだ。本当、昔から参謀みたいな役回りだ。でも、これが英知にとって亮に協力できる唯一の手立てだったのだろう。
健気なやつだよ。そう思うと、温くなったビールがより苦く感じた。
瑞枝さんは会計を済ませたとき、亮に「総会で会えるのを楽しみにしてるよ」と言った。総会にはすべての商店街から役員が集うのだ。
「明日にでも奥田書店にうちの営業を向かわせるからね、お手柔らかに」
そして、扉まで見送る英知にはこう言った。
「今日は英ちゃんの知らなかった一面が見れて、よかったよ」
「えっ?」
「意外と策士なんだね。でも、そういうしたたかなところは、嫌いじゃないね」
彼女が扉の向こうに消えたとき、英知は「へへ」と子どものように笑った。
「計算高いとはよく言われるけど、瑞枝さんにあんな風に言われると、嫌な気はしないな」
そう言う彼は、どこか吹っ切れたような顔をしていた。
それから三杯ほど飲んでほろ酔いになった俺と亮は、英知に礼を言って店を出た。
亮に「英知、ありがとう」と肩を叩かれたとき、英知は照れ笑いを浮かべていた。
「いいんだ。僕は商店街の人間じゃないし、これくらいのことしか協力できないから」
「だから、お前も商店街で店をやればいいんだよ」
「ううん、考えておくね」
英知は店の前で、俺たちが角を曲がるまで見送ってくれた。酔っ払いとタクシーで賑わう飲屋街を出ると、街灯と月明かりが夜道を照らしていた。辺りがちっとも暗く感じないのは、心が明るくなっているからだろうか。
突然、亮が思い出し笑いをする。
「英知のやつ、やたら商店街のことを根掘り葉掘り聞いてくると思ったら、とんだ礼をしてくれたな。なんだか、あいつまで商店街の力になってくれるってありがたいよな」
この鈍感め。英知が力になりたいのは、商店街ではなくお前だ。そう言いたかったけれど、ぐっと堪えた。英知は自分の気持ちが知れたのではないかと危惧していたけれど、実際はまったく気づいていないように見えた。
どうして、誰も傷つかない恋愛はないんだろうな。ため息を押し殺していると、ふと民家の庭先に目が止まった。暗がりに、ぼんやりと白いものが浮かび上がっている。よく見ると、大きな桜の木だった。
「おい、見ろよ。もう桜が咲くぞ」
ついこの間、雪解けが始まったと思ったら、もう桜の蕾がある。もう少しで咲きそうだ。
「いつの間にか、春が来ていたんだな」
亮の言葉に、俺は言葉なく頷いた。寒い冬を乗り越えて、人知れず蕾を綻ばせるように、俺たちも花を咲かせたいものだと思った。
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