唇を噛んで
満足してカメラの電源を切った俺に、亮がおずおずとこう言った。
「あのさ、今度も麻美さんと打ち合わせするんだろう?」
「そうなるな」
「俺も一緒に打ち合わせしていいか?」
「えっ、別にいいと思うけど、なんで?」
「なんでって……いや、やっぱりいいや」
「なんだよ?」
「あのさ、麻美さんがその写真を見てどんな反応をしたかだけ教えてくれ」
俺の目が点になった。そっぽを向いた亮の顔がみるみるうちに赤くなったのだ。
「お前、それって、つまり、そういうこと?」
「そういうこと」
「ええ! そうなの?」
素っ頓狂な声の俺に、彼は顔を軽くしかめた。
「うるせぇな、悪いかよ」
「いや、悪くない。悪くないけど、びっくりして」
そういえば、思い当たることがある。麻美さんの話題になると少し様子がおかしかった。
「いつから? ねぇ、いつから?」
「多分、小さい頃からだ。親父のレッスンを受けにくるたびに、舞い上がってた。親父が死んだあとに、俺がオケに入団したのも、麻美さんに会えるからだ」
「お前、だって、付き合ってる女が何人もいただろ?」
「だから、なんとなくずっと好きだったんだよ」
どこかで聞いた言葉だ。そう思った途端、英知の顔がよぎった。すっかり興奮した胸に、ふっと重いものがのしかかる。亮が打ち明けてくれたのは嬉しいが、英知の気持ちを知っている今、複雑な心境でもあった。
亮はそんな俺の心中も知らず、照れ臭そうに本をいじっている。
「彼女が結婚したときに、はっきりと自分の気持ちに気づいたんだよな。我ながら鈍臭いけど」
「えっ! 麻美さん、結婚してたの?」
「二年でバツイチになったけどな」
「ええ?」
「去年、離婚したんだ」
「はぁ」
ぽかんと口を開けていると、亮がニッと唇を釣り上げた。
「お前も麻美さんを知ったし、もう話してもいいかなと思ったんだけどさ、いざ話すとスッキリしたよ」
「なんで今まで麻美さんを紹介してくれなかったんだ」
「無駄にライバルを増やしたくないだろ。大体、お前は東京にいたじゃないか」
「ライバルって、なんで俺が麻美さんに惚れるって思うんだよ」
「お前、年上に弱いじゃないか」
あぁ、それで里緒さんも好みだと察しをつけたのか。妙に納得してしまった。
「お前はちょっと勘違いしてるぞ。確かに年上の人を好きになることは多いが、俺は守ってあげたくなるタイプに弱いんだ」
「へぇ、里緒さんも?」
話の矛先が俺に向いてきた。
「お、おう」
「でも、あの人、守ってあげなきゃってタイプに見えないけどな」
「えっ?」
「前の旦那さんと今も仲はいいみたいだし、少なくとも人付き合いの面では俺たちよりずっと大人で、地に足ついてる人に見えるけど」
「あぁ、そういえば」
俺は前夫に会うと言っていた里緒さんの様子を話して聞かせる。すると、亮が「へぇ」と感心したように言った。
「別れたらそれっきりって夫婦も多いのにな」
「そうだよな。どういう気持ちで会うのかな」
「なんだ、妬いてるのか」
「少しはな」
本当は少しどころじゃなく面白くない。彼女が向き合い、心を傾けてくれる相手が俺だったらどんなにいいだろうと願っているんだから。
けれど、亮は冷静にこう言った。
「反発するんじゃなく、別の道をお互い歩いていく選択ができるって、大人だな」
「……まぁな」
亮の言葉は、俺の勇む心をぺしゃんと潰した。彼に悪気はないが、彼女を守ろうだなんて、俺には百年早いんじゃないかと言われた気分だった。
「さて、それじゃ配達に行ってくる」
その一声でハッと我にかえり、「おう」と頷いた。
一人で店番をしている間、里緒さんの書いたポップをずっと見つめていた。少し丸みを帯びた癖字だが、読みやすい。はねやとめを見ると、書道でも習っていたのかもしれない。
もっと彼女を知りたいと思う一方で、腰が引けている自分に気づいた。俺みたいに青臭いガキが向き合える相手じゃないのかもしれない。彼女が遠く思えてくるなんて。これは恋だと思ったのに、いつからこんなに臆病になったんだろう。
でも、これが今まで誰かと向き合うことを無意識に避けていた要因なんだろう。自分の足だけで立てなければ、誰かに向き合うことなんて、できない。自分の弱さや孤独から逃げていた俺には到底無理な話だったんだ。
思わず深いため息をついて、カウンターに頬杖をついた。
「……疲れる」
ここのところ、みんなで俺を驚かせすぎだ。いろんな想いや事情が絡まって、俺にのしかかっているように感じた。
亮が配達から戻ってきたのは、わずか三十分後だった。
「お疲れ。今日は早いな」
そう言うと、亮は「おう」とだけ答えた。すっかりいつもの亮に戻っている。
「車で英知とすれ違ったよ」
不意に出た名前に、ぎくりとした。俺は英知の気持ちも、亮の気持ちも知ってしまった手前、妙な緊張感に囚われていた。
「英知に悪いことしちゃったな。俺が殴った男って、あいつの友達かなんかだろ? 仲がこじれてないといいんだけど」
「それは気にしなくていいんじゃないか。あいつも子どもじゃないし。それに、礼は違う形でするからって言ってたぞ」
「そうか、ならいいんだ」
亮の呑気な顔を見て、彼らの想いの行く末を見守っていく覚悟を決めなければならないと、とっさに考えていた。
その日の夜、俺は亮の記事を書くために原稿に向かっていた。けれど、英知のことや里緒さんのことが次々に頭に浮かんできて、集中できない。
ふと、亮が里緒さんのことを大人だと評したことを思い出し、ペンを置いてしまった。
「反発よりも共存か」
そう口にして、ため息を漏らす。窓を開けて部屋の空気を入れ替えると、恐ろしく冷えた風が頬を撫でて身震いした。
夜の商店街は相変わらず人通りもなく、静かなものだ。
「商店街もそうなのかもな」
大型店やスーパーに立ち向かおうとしていた俺たちは、間違いだったのかもしれない。大型店には大型店だからこそできることもあるけれど、できないこともある。そして商店街にも、商店街だからこそできることがあるんだ。
俺たちが目指すべきなのは、共存なんだ。駅ビルは駅ビル、そして俺たちは俺たちで、それぞれが足りないところをうまく利用して売りにするしかないじゃないか。
波乱をこえて、困難をかいくぐって、しぶとく生き抜く道を切り開こう。そう決めて、窓を閉めた。
父親が退院してきたのは、入院から三週間後の月曜日だった。
「うまく食べられなくてなぁ、結局退院が延びちまった」
車で迎えに行った俺に、彼は「まいった、まいった」と笑う。ますます痩せたけれど、それ以外は元気そうでほっと胸を撫でおろした。やはり病衣を脱ぐと、それだけで印象が違って見える。
運転する俺に、父親は助手席からこう尋ねてきた。
「役員の代理人、ご苦労だったな」
そうか、父親が戻ってきたということは、役員もお役御免ということだ。今更ながら気付いて、「お、おう」と口ごもった。名残惜しい気がするなんて、俺もずいぶん変わったものだ。
「あのさ、親父が引退したら、俺が役員引き継いでいいか?」
父親は少し驚いた様子で、俺の顔をじっと見ている。
「今すぐじゃなくていいよ。だけど、いずれはそうなったらいいなと思ってる」
父親がなんていうか怖くて、まっすぐ前を向いていたが、すぐに隣で「けけっ」と愉快そうな笑い声がした。
「役員はな、推薦で決まるんだ。まずは、みんなから推薦されるくらい、精進することだな」
「望むところだ」
俺はにやりと笑い、アクセルをぐっと踏み込んだ。役員でなくても、俺にはできることがある。まずはそこから踏み出そう。
「親父」
「うん?」
「帰ったら、記事の写真を撮っていいか」
「おう」
父親は、背もたれに身を預け、ゆっくりを目を閉じた。彼が唇を噛んでいるのを横目で見て、俺まで同じ仕草をしてしまった。
商店街へ続く道を走りながら、俺は晴れ晴れとした気分だった。
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