ハイファイブ

 その後、麻美さんとそのまま昼食をとり、カメラの話をしてから喫茶店を出ると、午後二時を過ぎていた。


 軽い足取りで写真館のほうに戻っていると、どきりと心臓が跳ねた。向こうから、里緒さんが歩いてくる。


「こんにちは!」


 会えるだけで嬉しいなんて、久しぶりだった。自分でも顔がぱあっと明るくなったのがわかった。


「あ、憲史君、こんにちは」


 里緒さんは俺に気づくと、いつもの笑顔で応えてくれた。その顔を見るだけで、疲れも眠気も吹っ飛ぶ。


「あれ、今日はバイト休みだったんですか?」


「ううん、早退させてもらったの」


「えっ? どこか具合悪いんですか? 大丈夫?」


「あ、違うの。実は予定があって待ち合わせしてるんだけど、ちょっと早めにあがらないと間に合わなかったものだから、店長にお願いしたのよ」


「そうだったんだ。てっきり、熱でもあるのかと」


「大丈夫よ、ありがとう」


「車で待ち合わせ場所まで送りましょうか?」


「いえ、そんな。これから葵を迎えに行かなきゃいけないし」


「いいですよ。幼稚園に寄ってから送りますよ。俺も葵ちゃんの顔見たいし」


「ありがとう。でも、お気持ちだけで」


 里緒さんの眉が困ったように下がっている。慌てて「ごめんなさい。お節介だったかな」と詫びた俺に、彼女はこう言った。


「違うの、実はこれから会うのって、別れた夫なのよ」


「えっ、そうなの? 葵ちゃんと三人で? 大丈夫なの?」


「大丈夫って?」


「あ、いや、離婚した相手と、その、子どもを連れて会うことって、あんまり聞いたことなかったから、びっくりしちゃって」


 東京の写真スタジオでも、バツイチのカメラマンは何人かいた。でも、その全員が『別れた旦那には二度と会いたくない』とか『子どもには絶対会わせない』と言っていたのだ。それを話すと、里緒さんが「あぁ」と苦笑した。


「そういう人もいるだろうけど、うちは円満離婚っていうのかな、愛情はあるけれど別れたクチだから」


「えっ? 愛情があっても別れるの?」


 きょとんとした俺に、里緒さんが「うん」と頷いた。


「あの人ね、酒癖が悪いのだけが玉に瑕だったの。だから、お互いのために離婚を選んだだけ。そのほうが楽になったの。不思議よね、夫婦って枠を外しちゃったら、一気に楽になって、戦友になった感じがするのよね」


 お気楽な調子の言葉だった。けれど、家を出たときに泣いていた話を葵ちゃんから聞いて知っている俺は、相槌を打つこともできなかった。


 きっと、身を裂かれるより辛かったはずだ。愛情がある相手と別れるだけでも悲しいのに、娘に寂しい思いをさせるのは耐え難いことだろう。だけど、里緒さんは、それでも覚悟を決めたんだ。

 その選択肢は、里緒さんと夫が、どれだけ深い絆で結ばれ、どれだけ互いに向き合ってきたかを物語っているように思えた。


 目の前の彼女は俺なんかよりずっと強い人なんだ。咄嗟にそう思った。

 この人を守りたいだなんて意気がっていた自分が恥ずかしくてたまらなくなった。何も知らないくせに、独りよがりで、空回り。間抜けもいいところだし、美月さんのときとまるで同じだ。

 思わず、ぽつりと俺の口からこんな言葉が漏れた。


「里緒さん、すごいや」


「えっ?」


「いえ、あの、俺ってすぐ逃げ腰になったり、茶化しちゃうから。どうしたら、誰かとそんなに向き合えるんだろうって思って」


「ううん、だって、夫婦といえども他人なんだから、譲り合って、許して、諦めて、補い合うしかないじゃない? うちはその結果、離れるのがベストだっただけで、そんな大層なことじゃないわ」


 どこかで聞いたことのある言葉だ。そう考えて、すぐに父親に思い当たった。つまり、俺がまず学ぶべきは、人への向き合い方なのだろう。

 恋も、写真も、商店街も、俺に欠けていたものは、同じことなんだ。だって、その全てが人と紡いでいくものだったから。


 俺は帰ってきてよかった。心からそう思った。もっと早く気づいていれば人生も変わっていたかもしれないけれど、それでも、故郷に逃げるようにして戻ってきたことを恥じる気持ちはなくなっていた。

 

 俺は里緒さんと別れると、まっすぐ奥田書店に入っていった。


「おう」


 眼鏡をくいっと指で上げ、亮が言う。


「打ち合わせ、大野さんのところでやったんだって?」


「なんで知ってるんだ?」


「おばさんが煎餅を差し入れしてくれてな。そのときに教えてくれた」


「あぁ、うん、急に麻美さんから連絡があってさ」


「ふぅん。それで、無事に終わったか?」


「うん」


「麻美さん、元気だった?」


「うん」


「そうか。それならいい」


 気のせいだろうか、声がいつもより不機嫌だ。


「腹でも減ったのか?」


「いや? なんで?」


「なんとなく。それより、記事の原稿、見てみて」


 亮は黙って原稿を受け取り、立ったまま目を通す。読んでいくうちに、眉間に寄っていたシワが消え、うっすら開いた唇から「へぇ」と感嘆の声が出た。


「いいじゃん」


「だろ? 大野さんも気にってくれたみたいでさ、好評だったら喫茶店の記事も追加になるかも」


 得意げに笑うと、亮は少し意地悪い顔になった。


「麻美さんの指示通りに直せば、もっといいけどな。この赤ペン、麻美さんの字だろ?」


「おう。あの人、いい女だな」


 ぴくりと、亮の眉が上がった。


「いい女?」


「ほら、打ち合わせの場所が大野さんの喫茶店になっただろ? あれ、理事長をのけ者にしないでいい気分にさせて、おまけに味方に組み入れようって彼女なりの気遣いというか、魂胆だったみたいなんだよな。俺にはそこまで気配りできないなぁ」


「あぁ、あの人は頭の回転早いかもな。でも、いい女って思うの? お前が?」


「綺麗なくせに勝気でさ、豪胆かと思えば気遣いできるって、ギャップがいいと思わない?」


 俺としては軽い気持ちで言ったつもりだったが、亮は黙り込んでしまった。


「亮? 俺、なんか変なこと言った?」


「……憲史、お前、麻美さんに惚れたのか?」


 思わず「ぶっ!」と噴き出してしまった。


「違うって! 俺が好きなのは里緒さ……」


 しまった。思わず口を押さえたが、遅かった。亮の顔にみるみる愉快そうな笑みが浮かんでいく。


「そうか、里緒さんに惚れたか。やっぱりタイプだと思ったんだよな」


「いや、今回は違うぞ。最初はそうだったけど、でも、違うぞ」


 そうだ、さっき、彼女の強さに惚れ直したところなんだ。ところが、亮はすっかり面白がっていた。


「ふぅん。お手並み拝見といくか」


「あぁあ。お前には言わないつもりだったのに」


「なんでだよ?」


「だって、店の従業員を好きになったなんて、言えるかよ」


 恥ずかしいやら、迂闊な自分に腹がたつやらで唇を噛むと、亮がくくく、と笑った。


「お前、その唇を噛む癖、親父さんそっくり」


「みんな、知ってるんだな。知らないのは俺だけか」


「いいじゃねぇか。それだけみんな、親父さんもお前もちゃんと見てくれてるってことだよ」


「そうか。俺たち親子がわかりやすいだけじゃないのか。物は言いようだな」


「そうさ」


 亮はそう言うと、記事の原稿に添えられた写真に目をやった。


「それにしても、文句無しの写真が撮れたな。今回はお前も満足した?」


「まぁな。でも、データで見せたとき、洋子さんとお孫さんが大はしゃぎだったのが、一番嬉しい」


「そうか、よかった」


「あのさ、英知の店で、俺の撮った記念写真、見ただろ?」


「うん。美月さんの写真だろ?」


「そっちじゃなくて、ホームページに載った記念写真」


「あぁ、何枚かあったな」


「俺、正直言って、あの写真のどこを美月さんが気に入ったのかわからないんだ。だから、こうして喜んでもらえた手応えがあるって、本当に嬉しいんだ」


「でも、美月さんはいい写真だと思ったんだろ。なんか思い当たることはないの?」


「確かにお客さんと会話が弾んで、撮影がとんとん拍子に進んだのは覚えてるけど」


「じゃあ、それだろ」


 亮があっけらかんと返してきた。

 言われてみれば、洋子さんとの撮影もそうだったかもしれない。実際に商品を手に取って、客の様子をきちんと見て、洋子さんと話をした。たったそれだけの違いだが、写真の出来栄えはこうも違う。

 亮にそのことを話すと、彼は「心の垣根に一歩踏み込んだからだろ」と頷いた。


「俺がお前を推薦しようと思ったのはさ、商店街の人間だからって理由のほかに、美月さんの写真を気に入ったからなんだ」


「あのオムライスの?」


「そう、へなちょこオムライスの」


「うるせぇ」


「はは」と笑い、亮がこう言ってくれた。


「写真館の息子に言うのもなんだけど、俺にはお前の撮った記念写真より、美月さんの写真のほうがずっと気に入ったんだ。あの写真、すごくよかった。彼女がお前といて、癒されてるのがわかったよ。だから、お前に頼もうと思った」


「美月さんが? 癒されてる?」


「そうだよ。安心しきってた。あんな無邪気で無防備な顔、会社では見せなかったんじゃないか?」


 言われてみれば、そうだ。彼は仁志君と洋子さんの写真を見比べ、しみじみ言った。


「憲史は表情の奥にあるものを撮るのがうまいな」


「それって、俺が気付けていなかったと思うものなんだけど」


 写真において、人と向き合うことの大切さは、そこにある。


「無意識かもしれないけど、お前の写真には確かに写ってたよ。だから美月さんはずっと、お前のほうを向いててくれたんじゃないかな。だけど、お前が明後日の方向を向いてて、それでもたまに向き合う瞬間があったんだろ。そういうときに、恋が発展したり、いい写真が撮れたんじゃないかな」


 最後の言葉は心に突き刺さりそうになったが、多分、本当のことだ。黙って頷くと、亮は静かに、でも力強く言った。


「今回、必要なのは記念写真じゃない。あの美月さんの写真みたいなやつだ。商店街のためでもあるけど、それ以前に、お前が納得する写真を撮ってくれ。そうでないと、推薦した甲斐がないからな」


「甲斐写真館だけにな」


「くだらねぇ冗談言うところまで親父さんに似てきたのか」


 顔を合わせて、二人で豪快に笑った。そして、亮が原稿をひらひらと揺らし、ニッと笑う。


「明後日、また緊急理事会を開こう。この記事でみんなをアッと言わせてやろうぜ。組合員が羨むような写真を武器にな」


「おうよ」


 ハイファイブの音がパァンと陸上のスターターピストルのように小気味よく響き渡った。俺たちが青臭い、でも新しく美しい時代を引き寄せるために、走り出した合図だ。そう思った。

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