再撮影

 月曜日の午後、店番を母親に任せて本多精肉店に行くと、洋子さんが出迎えてくれた。


「ご苦労さんね」


 そう言って笑う顔は見慣れたスッピンで、服もいつもの派手なTシャツにトラ柄のスパッツだった。なんだか無性にホッとして、笑みが溢れてきた。


「今日はよろしくお願いします」


「こちらこそ。それで、前みたいにいつも通り接客してればいいの?」


「そうですね、そこは同じで」


「任せて」


 洋子さんは店の奥からパイプ椅子を持ってきて、軒先に置いた。


「お客さんが来るまで手持ち無沙汰だろうから、ここに座ってな」


「ありがとうございます」


 一旦は腰を下ろしたが、なんだか落ち着かなくて、肉が並ぶケースの前に立つ。試しに霜降りの和牛を写してみたが、なかなか難しい。食べ物のシズル感を出すには、更に勉強しないといけないみたいだ。


「どうよ、憲ちゃん、綺麗な肉でしょ」


 自慢げな洋子さんに、「本当に」と笑って答える。


「ステーキ食べたくなりますね。すきやきもいいな」


「山賊焼きも売れてるよ」


「へぇ。普段は主婦が多いんですか?」


「うん。でもね、若い人は少ないね。みんなスーパーで済ませちゃうのかな」


「あぁ、そうかもしれないですね」


「うちに来ればさ、この肉を使ったらこんな料理がおすすめとか、献立を決めるヒントももらえるのにね」


「あ、そういうこと聞かれることってあるんですか」


「そりゃあるよ。肉を固くしないコツも惜しみなく教えるし、惚れた男を落とす絶品肉じゃがの作り方だってタダで教えてあげるわ」


 冗談なのか本気なのかわからないが、接客の話をする洋子さんは生き生きとして見えた。理事会でテーブルについているときの顔とは大違いだ。


 この日は運悪く、客足が悪かった。あんまりケースの前をうろうろしていると商売の邪魔になるかなと気まずくなったところに、メンチカツが目に留まった。


「ねぇ、洋子さん」


「うん?」


「洋子さんのメンチカツ、美味いよね。今日も帰りに買っていっていい?」


「あんた、メンチカツ好きだねぇ。たまにはコロッケも食べてみたら?」


「コロッケ? そっちのほうがおすすめ?」


「そうだなぁ、うん、どっちかというと私はコロッケのほうが好きだわ」


「じゃあ、今、食べてみる」


「あら、毎度あり」


 メンチカツの隣に並ぶコロッケは数種類あるらしい。定番のポテトコロッケにカレー味、かぼちゃコロッケもある。


「ここはやっぱりポテトコロッケだな」


「うちのコロッケはね、ジャガイモもタマネギも高瀬市の農家さんが作ってんの。うちの孫も好きなんだわ」


 そう言って袋に入れて手渡してくれた。こんがりした衣を噛むと、サクサクッと小気味いい音がした。芋のほくほくした感触とタマネギの優しい甘さが舌に絡み、すぐに肉の旨みが口いっぱいに広がっていく。


「うっわ、これ美味い! 俺、今までこんな美味いものスルーしてたんだ」


 ちょっとショックを受けながら、頬張っていたときだった。

 精肉店の前を高校の制服に身を包んだ男の子三人組が通りがかった。そのうちの一人が俺を見るなり、顔を輝かせた。


「なぁ、あの人が食ってるコロッケ美味そうなんだけど。食いたくない?」


「へぇ、ここって一個から持ち帰りできるんだね。知らなかったな」


「いい匂いだな。俺、腹減った」


「買ってみる?」


「そうだな、塾までまだ時間あるしな」


 そんな話をわいわいしながら、彼らは店の前に進み出た。


「おばちゃん、ポテトコロッケ、一個ください」


「俺、かぼちゃコロッケ」


「じゃ、俺はカレーコロッケ」


「はいよ、毎度あり!」


 洋子さんが袋にコロッケを入れながら、朗らかに話しかける。


「あんたたち、これから家でご飯だろうに、もうお腹すいたの? 成長期だねぇ」


 コロッケに真っ先に顔を輝かせた子が答える。


「ううん、これから塾なんですよ。晩御飯はそれが終わってからなんで遅いんですよね」


「学生さんも大変だねぇ。これ食べてしっかりやんな! えっと、こっちがポテトで、こっちがカレーね」


「どうも」


 男の子たちは会計を済ませてコロッケを受け取り、目を輝かせていた。


「美味そう!」


 一人がそう言ったのを合図に、一斉にかぶりつく。


「やべぇ、うめぇ」


「あっつ! 熱いって!」


「揚げ物、最高だね」


 俺はその瞬間、彼らがあまりにいい表情をしているのに見とれてしまった。そしてすぐにシャッターを押しそびれたことを激しく後悔した。今から『撮影いいですか』なんて尋ねても、さっきの表情はもう撮れないだろう。

 惜しいとは思ったが、伝えたいことが見えた気がする。そろそろ夕食の支度をするために買い物に来る客が増える時間だ。今度コロッケを頼む人が現れたら、撮影を申し出てみよう。男の子たちが歩いていく背中を見送りながら、そう決めて店の脇に立った。


「憲ちゃん、座ってなよ。そんなに張り切っても、今日は客が少ないから悪いよ」


「いや、いいんですよ。お孫さんが喜ぶ写真を撮りたいですからね」


「あ、うちの孫ね、もうすぐ来るよ」


「本当に?」


「うん、撮影しなおすって電話したら、遊びに来るって言ってた」


「へぇ。三歳でしたっけ? 可愛いでしょう?」


「そりゃもう、可愛いのよ」


 洋子さんはパッと顔を輝かせて、とろけるように笑った。


「言葉もだいぶ増えてきてさぁ、すっかりワガママだけど可愛いから許しちゃうのよね」


「わかりますよ」


 思わず、葵ちゃんを思い出してしまった。あまりの可愛さになんでも「はい」って許しちゃう洋子さんの気持ちがよくわかる。

 洋子さんは、ちょっと一息おいてから、おずおずと言った。


「憲ちゃん、あのね」


「なんですか?」


「この前さ、理事会で撮影料ケチるようなこと言っちゃってごめんね。私、最初に憲ちゃんが撮ってくれた写真、好きだよ。すっごく綺麗に撮ってくれて嬉しかった」


「いや、かえってこちらこそすみません。俺が最初に『いつもの通りで』って言っておけば、こうして再撮影の手間もかからずに済んだのに」


「いいんだよ、私が勝手にめかしこんだんだ」


 ふと、洋子さんが目尻を下げて笑った。


「孫にはかなわないよねぇ。なんだか、いつものばぁばじゃないって言われたとき、おかしな話だけど嬉しくもあったんだよ」


「嬉しい?」


「そう、飾り気のないガサツなばぁばだけどさ、そのままでいいんだって言ってくれた気がしてさ」


「そうだったんですか」


「最初はさ、孫に自慢するための記念写真のつもりだったのにさ、その孫がどんな顔を喜ぶかわかってないなんてさ、恥ずかしくなっちゃって」


「それは俺もですよ」


「ううん、これは私の失敗よ」


 そう言うと、洋子さんが目を細めて肉を並べたケースを撫でた。


「でもね、もう一回撮ってもらおうと思ったのは、他にも理由があってね」


「えっ?」


「この前、孫が積み木を並べてさ、『いらっしゃいませ、今日は豚がおすすめだよ』って遊んでるわけよ」


「へぇ、そりゃ可愛い」


「そうなの、可愛いのよ」


 真顔で言ってから、彼女はガハハと大口を開けて笑い飛ばした。


「だからね、欲が出たの」


「欲って?」


「あの子の将来は私が決めることでもないけれど、もし店を継ぎたいって言ってくれる可能性があるなら、孫が大きくなるまで店を続けていたいなって」


 初めて、洋子さんの口調に力がみなぎった。小さな目にちろちろと明るい灯が燃え始めたように見えて、思わずハッとした。


「自分のちっちゃな見栄より、この記事をもっとよくしたいと思ったのね。自分の孫も喜ばせられないのにさ、客を喜ばせることができるかって話だよね」


 そうして、洋子さんはこの日初めて、あのウィンクのような笑みを見せた。


「だから、頼むよ、憲ちゃん」


「はい!」


 笑顔がこみあげる。たった一人の気持ちが前を向いただけのことだ。それなのに、こんなにも嬉しい。


 買い物に来た常連の主婦と談笑する洋子さんを何枚も撮った。大きく開いた口からは決して綺麗とは言えない入れ歯の金具が丸見えになっているし、顔中をくしゃっとして笑うものだからシワも目立つ。けど、見る人までほっこりさせるとびきりの笑顔だ。

 それからしばらくして、「ばぁば!」という可愛らしい声が響いた。


「あ! ひぃちゃん、来たね!」


 洋子さんが嬉しくてたまらないといった顔で出迎える。


「憲史君、紹介するわ。うちの孫の仁志と、娘よ」


 仁志君はいかにもやんちゃそうな顔つきをした男の子だった。隣にいる洋子さんの娘は背が低く、目と口が大きいあたりが、どことなく洋子さんに似ている。


「初めまして。母がいつもお世話になっております」


「甲斐憲史です。こちらこそお世話になってます」


 店先に出てきた洋子さんに、仁志君が「ばぁば」と嬉しそうに抱きついている。

 あぁ、そうだよ、そういう笑顔がいいんだ。俺はなんだか嬉しくなって、洋子さんに申し出た。


「あの、もしよければ、お孫さんを撮ってもいいですか?」


「えっ、いいの? あとで写真くれる?」


「もちろん。ただ、ちょっとお願いしたいことがあって。もしよければの話なんだけど」


「あら、なに?」


「コロッケを食べてるところを撮りたいんですよね。俺からご馳走してもいいですか?」


「えっ、そんな、憲ちゃんが出すことないよ」


「いえ、モデル料だと思って」


 洋子さんの娘が「はは」と、母親譲りの笑い声を上げた。


「じゃあ、遠慮なくお願いしようかな。ひぃちゃん、このお兄さんがコロッケくれるって」


 仁志君はパッと顔を輝かせて、俺を見上げた。


「本当? いいの?」


「もちろん。ばぁばのコロッケ、好き?」


「うん!」


「どれがいいかな? ポテト? カレー?」


「ポテト!」


 洋子さんが「ありがとね、憲ちゃん」と頭を下げた。そして、ポテトコロッケを袋に入れて、孫に手渡す。


「ほら、こういうとき、なんていうの?」


「ありがとう!」


「どういたしまして」


 心の中で「こちらこそ、ありがとう」と呟き、すかさずカメラを構えた。

 ファインダー越しの仁志君を見た途端「これだ」と確信した。彼は小さな目を輝かせ、コロッケよりもほくほくした笑顔でかぶりついた。ぱくり、ぱくりと頬張るたび、頬が幸せで染まっているように見える。


 俺は無心でシャッターを押した。気がつけば、彼がコロッケを食べおわる頃には『こんなに撮ったのか』と思うほどの枚数を撮っていた。

 カメラのデータをチェックした俺の唇に笑みが浮かぶ。本当にこれを俺が撮ったんだろうか。そう疑ってしまうほどの出来栄えに、胸の奥が震えていた。


 そうだ、俺がかつてカメラに求めていたものは、熱量だった。そう思い出し、「なぁんだ」と呟いた。商店街のみんなに熱量がないなんて偉そうに言っておきながら、俺だってそうだったんだ。


 でも、少なくとも今、この瞬間は違う。これから先、また同じようにシャッターを押せるか保証はないけど、それでもカメラを持ち続ける理由が見つかった気がして、嬉しかった。


 帰り際、洋子さんが俺にコロッケとメンチカツの入った袋を持たせてくれた。


「すみません、こんなにご馳走になって」


「いいんだよ。お母さんによろしくね。きっと入院のことで参ってるだろうから、優しくするんだよ」


 そういえば、父親が入院して以来、バイトや商店街のことで慌ただしく、ろくに話もしていなかった。


「うん、そうします」


 そう言って、油のいい匂いが漂う袋を手に、写真館に戻る。

 店番をしていた母親のところへ行くと、彼女の背中を見てハッとしてしまった。少し前かがみでカウンターに座る母親は、なんだか疲れて見えた。


「帰ったよ」


 そっと声をかけると、母親は「あら、おかえり」と力なく言って振り返った。いつも威勢のいい彼女が、まるで穴の空いた風船だ。母親にとって、父親の存在は大きいのだと、改めて知った。本当は繊細な女なのかもしれない。


「これ、洋子さんから差し入れ。コロッケとメンチカツ」


「あら、嬉しい。ちょうど晩御飯何にしようか迷ってたのよね」


 そう言って、彼女はしんみり言う。


「あんたがいない間に、二人分の食事を作るのは慣れたはずなのにね、なんだか作りすぎちゃうのよね」


 泣いているのかと思うほど、弱弱しい伏目だった。涙はない。けれど、声に力もない。俺はいつにも増して優しい声を心がけて言った。


「親父が戻ってきても胃を切ってるんだから、そんなに食べれないだろ? また慣れればいいよ」


「うん、そうね」


 母親は両手で袋を抱え、カウンターから立ち上がる。


「コロッケ、いい匂いね。ありがたいわ。……あったかい」


「……そうだな」


 洋子さんの気遣いが嬉しいのだろう。母親は微笑みながら、足早にキッチンへ向かった。

 カウンターに腰をおろし、ふうっとため息を漏らす。本当に人のいたわりはあったかいもんだ。そして、そういう温かみが、この商店街にはたくさんある。


 ふと、壁に飾られたカワセミの写真に目がいった。横を向いているはずのカワセミが、こちらをじっと見ている気がする。


「やっと、俺も飛べる気がするよ」


 そうさ、だって肉屋でシャッターを切る俺の心はカワセミよりももっと羽ばたいていたんだからな。


 その日、英知の店でバイトをしている間も、頭の中は記事のことでいっぱいだった。真夜中に仕事を終え、急いで家に戻ると、部屋のパソコンを立ち上げ、たくさん撮った写真の中からとびきりの二枚を選んだ。


 一枚はコロッケを頬張りながらとびきりの笑顔を見せる仁志君で、もう一枚に写っているのは、客に向かってウィンクをする洋子さんの姿だった。

 スッピンで、シワだらけで髪に白いものもあるけれど、俺が知る中で最も魅惑的なウィンクだ。そう思うと、ついつい一人で笑っていた。


 そしていざ、記事の原稿を書こうと机に向かうと、あれだけ悩んでいたのが嘘のようにペンが進む。

 不思議だった。俺の手がまるで誰かに動かされているように伝えたいことが溢れてくる。あっという間に原稿は文字数がいっぱいになり、読み返してみると「俺が書いたんだっけ?」と思うほど、今までの原稿とは違って見えた。


「これなら、麻美さんからのダメ出しもちょっとは減るかな」


 ふと窓の外をみると、いつの間にか空が白ばみ始めている。


「やっべ、もう朝かよ」


 午前中は母親が店番をしてくれるとはいえ、麻美さんと打ち合わせの予定がある。慌ててベッドに寝っころがると、どっと疲れが押し寄せてきた。

 このところ、気持ちが休まることがない。気づかない間に疲れがたまっていたのか、体が重く、まるで布団に沈んでいくようだ。

 それでも、テーブルに置いた記事を横目で見ると、どこか心地いい疲れだと思えるのだった。

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