★ タクシーじゃありません
ここはやまざと精神科病院。
今日もここは外来患者で溢れている。
そしてそんな待合室の一角で、「はーはー」と息を切らしているおばあちゃんの姿があった。
「こんにちは、トミさん。息、しんどい?」
トミという女性に話しかけるのは精神保健福祉士であり課長の金本だった。
「んあー?」
「トミさん、息、しんどい?」
トミは八十歳のおばあちゃんということもあり、少し耳が遠い。
金本はもう一度、トミの耳元で言い直した。
「ああー。息がね、しんどいんですよ。もう死んじゃうんじゃないかって怖くてね」
「ちょっと、処置室で、お休みしますか?」
「んあー?」
「ちょっと、処置室で、お休みしますか?」
「いいんかい? ありがとうね」
トミはぷるぷる震えながら杖を支えに、立ち上がる。
トミはパニック障害である。
パニック障害とは、突然起こる激しい動悸や発汗、息苦しさ、胸部の不快感、めまいといった体の異常(パニック発作)と共に、『このままでは死んでしまう』というような強い不安感に襲われる病気のことをいう。
パニック発作が繰り返し起こると、『いつまた発作が起こるんだろう』と強い不安を感じることを
トミは長年パニック発作に苦しめられており、十年以上やまざと精神科病院に通っている。
それもあってか、トミの人生の傍らにいたのはやまざと精神科病院であった。
まだ自分の足でシャキッと歩いていたトミだったが、だんだん手すりに摑まりながらじゃないと歩けなくなり、最近やっと杖を使い何とか歩ける状態にまで身体の状態が落ちてしまった。
両足ともぷるぷると震えており、いとも簡単に転倒してしまいそうな様子である。
「トミさん、今日はどうやって来たの?」
「んー、最近はずうっとタクシーで来とるよ」
そっか、タクシーか。
金本はそれなら、まだ安心できた。
ここにやってくるまでの間に、転倒してケガでもしてしまったら大変だと思っていたからだ。
「そっか。安心しましたよ。帰りはどうするの?」
「帰りもタクシーで帰っとる」
「足元、気を付けなきゃいけないね」
「んあー?」
「足元、転ばないように、気を付けてね」
金本は処置室までトミを運ぶと、【地域医療連携室】に戻ってきた。
そこには今田が座っており、「トミさん大丈夫でした?」と声を掛ける。
「んー、発作は横になっていれば大丈夫みたいだけど。足腰弱っちゃったね、トミさん。お耳も遠くなっちゃったし」
「そうですよね。今のところケアマネさんからおっきなケガの報告がないからいいですけど、あの様子だと心配ですね」
「まぁ移動はタクシー使ってるみたいだから、その点は安心かもしれませんね」
「ん? タクシー使ってるんですか?」
今田の表情が曇る。
何か気になることでもあるようだ。
「僕この前、病棟の患者さんの付き添いで役所に外出していた日があるんですけど、たまたま病院の外でトミさん見たんですよ。うちって、病院の敷地内に数台タクシー止まってくれているじゃないですか? でもね、それをスルーしてどこかへ歩いて行っていたんですよ」
「え? そうなの?」
「はい、間違いなくトミさんだったと思いますよ。まぁたまたまその日は乗らなかっただけかもしれませんけどね」
タクシーに乗って帰っていると言っているトミが、タクシー乗り場をスルーしている?
金本は首を傾げた。
そんなことはあるのだろうか。
たしかに偶然かもしれないし、タクシー会社のこだわりもあるのかもしれない。
でも、なぜかこの件が少し気になった金本は様子を見てみようと思った。
◆
翌月、トミが診察にやってきた。
「トミさん」
「おあー。こんにちは」
金本はすかさず声を掛ける。
「トミさん、今日はどうやってきたんですか?」
「今日もタクシーよ」
「電話して来てもらうの?」
「そうだよ。なんか電話しても、なっかなか来てくれない時があんだよ」
「それは大変だね」
「帰りはほら、そこにあるから直接行ったりするんだけど」
「ん? この辺りにタクシー会社あったっけ?」
「あるよ。でも帰りはなかなか乗せてってくれなくてね」
ちょっと話が噛み合わない。
ちなみに、この辺にタクシー会社は存在しない。
隣の駅には割と集まってはいるが、それだと『そこにある』と表現を使うだろうか。
この辺にあるのはコンビニや幼稚園、飲食店がちらほら。そして交番、消防署など。そこまで栄えた場所ではないため、かなり限られてくる。
「トミさん、それ、本当にタクシー?」
「んあー?」
「トミさんが乗ってくるのって、本当にタクシー?」
「んー。タクシーじゃないんかね?」
トミは自身で分かっていないようだった。
そこで金本は提案する。
「トミさん、そしたらね、私そこまで今日同行しますよ」
「んあー?」
「今日帰り、一緒にそこまで付き添いますよ」
「おおー。ありがとうねー」
金本はトミが診察を終えるタイミングで白衣を脱いだ。
スラリと形の良い足が伸びており、黒いパンツがよく似合っている。
「トミさん、行きましょうか」
「ありがとう。ありがとう」
トミはゆっくりと歩き出した。
杖をついているが、杖全体が震えており、本当に危なっかしい。
そして病院を出ると、目の前のタクシー乗り場を――、スルーした。
(やっぱり、タクシーには乗っていないのか?)
金本は特にそのことには触れずに、ただトミについて行った。
とても歩くのがゆっくりのため、その間に病院前の横断歩道は何度も信号が赤に変わってしまった。
でもトミは自分のペースで歩いた。
何度も変わった横断歩道を渡り切ると、ゆっくりと慣れた足取りで進んでいく。
(あれ、この方向……)
金本は何だか嫌な予感がした。
この方角に思い当たるものがひとつしかないからだ。
「ここなんだけどね」
トミが足を止める。
金本は眉を引きつらせた。
目の前に広がるのは、タクシー会社なんてものではない。
――消防署であった。
トミはこれまた顔なじみかのように「お~い」と言いながら、消防署の敷地内へ入っていく。
「あらら、トミさんまた来たの?」
「来たも何も、これに乗せて帰ってもらおうと思ってね」
トミが『これ』と称し、いつも乗せてもらっているというのは、タクシーではなく、なんと――救急車のことであった。
金本は目を点にする。
「これはだーめだって、トミさん」
「別にいいやないか」
もはや消防隊員と思われる体格の良い男性陣がみんなトミの扱いになれているところを見ると、ここに長く通い詰めている常連のようだ。
「ああ~、あなたご家族さんですか。よかったー。トミさんいっつも『乗せてけ乗せてけー』って来るんですよ。まぁ家から乗るときは電話で無理やり呼び出したりしているみたいですけどね」
金本はすぐさま、トミの近くに歩み寄ると、耳元で大きく声で修正をした。
「トミさん、これはね、タクシーじゃありません! タクシーはね、こっち!」
そう言うと、トミをもう一度病院の前まで連れて行き、本物のタクシーの乗せてあげた。
金本はすぐにケアマネと主治医に報告。
後日の診察で、認知機能の検査を行ったところ、認知機能が下がっていることが発覚した。
◆
「トミさん、こんにちは」
「あらー。この前はありがとうねー」
次の診察の時、金本はトミに声を掛けた。
「トミさん、今日は何で来ましたか?」
「んあー?」
「今日は、どうやって、ここまで来ましたか?」
「おおー。今日はね、ちゃんとタクシーで来たよ」
よかった、ついに訂正ができたようだ、と金本が一息ついて病院の外を見ると――……
そこには一台の救急車が止まっていた。
「な!?」
金本は急いで救急車の元に向かう。
「ええと、どちらの患者様を載せて頂いたのでしょうか?」
「あの、あちらの……」
救急隊員が指さす先には、トミがいた。
「トミさん! これは救急車です! タクシーじゃありません!」
「んあー?」
金本の苦労は、まだまだ続く。
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