★ 信頼関係の不安

「急患です! つい先ほど自宅のトイレでお酒と一緒に薬を80錠ほど大量服薬オーバードーズ! 更に両腕をカミソリで切ったようで出血も止まっていません!」


 深夜二時のやまざと精神科病院に運ばれて来たのは、ユカリ、二十二歳。

 意識が朦朧としながら担架に乗せられて運ばれてくる。


 実はユカリはやまざと精神科病院の患者である。

 十八歳が初診であるが、その時にも同じような状態で運ばれて来た。

 今回は酒を飲みながら、当院の薬と市販薬合わせて80錠ほど大量服薬(以下、OD)したという。更に両腕、手首から肩までびっしりと無数の線の傷で真っ赤に腫れ上がっている。


 彼女の病名は、境界性パーソナリティ障害である。



 ◆


 翌朝、今田は病棟に向かう。昨日は当直担当ではなかったため、入院があったら翌日出勤した時に申し送りなどで状況を把握するようにしていた。


「あ、ユカリさん」


 今田は呟く。実はユカリは急性期閉鎖病棟の常連患者である。これまでの入院歴は両手の指だけでは足りないほど。


「今田さん、久しぶり」


 と、ナースステーションでカルテを読む今田に隔離室の方向から声がした。声の主はユカリだった。昨日あれだけの状態で入院して来たばかりのため、まだ生気が戻っていない顔色をしている。


「ユカリさん、入院したんですね」

「そうなんだよね。ちょっと死にたくなっちゃって」


 拘束が解かれ、自由になったユカリは慣れた様子で隔離室内をウロウロをしている。


「また今田さんが担当してくれるんだよね? ユカリ嬉しいなぁ」

「退院までよろしくお願いしますね」



 ユカリは隔離室を出ると、他の患者とすぐに打ち解けあって話をしていた。元々気さくで人見知りをしないユカリはどんどん病棟内に仲の良い人を作っていく。

 しかしそれと同時に、ユカリはいとも簡単に病棟のルールを破ってしまう。


「ユカリさん、患者さん同士の連絡先の交換はダメって言ったはずですよ」

「えー。でも他の人はしてたよ? ユカリはダメなの?」

「他の人って誰がしていたの? 教えてください」

「でも教えたらその人のこと怒りに行くでしょ? そんなことはさせないよ」

「他の人もダメだけど、ユカリさんもダメです。これ以上守れないようなら、退院してもらいますよ」


 ユカリを叱りつける病棟の看護師長。ユカリは去っていくその後ろ姿を睨み付けると、今田の姿を見つけ、にやにやと笑いながら近付いて行った。


「今田さん今田さん。ユカリのお話し聞いて」

「どうしたんですか?」

「看護師長さんね、またユカリを怒ってきたの。あの看護師長さん、ユカリばっかり怒るんだよ。他の人が同じことしてても、。どう思う? ユカリ、いじめられてるよね。ひどくない?」

「そうなんですね。ちゃんと謝ったんですか?」

「謝ったけど、許してくれないの。退院させるぞって脅されちゃった。ユカリ病人なのに、そんなこと言ってもいいのかな? 訴えたら勝てるかな? 警察に相談してもいいんだけど、今田さんはどう思う?」


 相手を試す。


 相手を揺さぶる。


 境界性パーソナリティ障害(以下、BPD)の人は、みんな相手を探ってくる。


 ここでBPDにされてしまった人が『それはひどい! 私が助けてあげるね!』という気持ちになってしまうと、ドツボにハマり、BPDの思うように利用されてしまう。


「警察に相談したいくらい、傷ついたんだね。でもユカリさんは、ここに何をしに来ているのかな?」


 でも操作されないように、現実的な部分にしっかりフォーカスを当てる。

 ユカリは今田の言葉を聞いて、「つまんなーい」と言いながらその場を後にした。きっと自分の揺さぶりに動じなかったから、操作しやすい別のターゲットを探しに行ったのだろう。


 それから、ユカリの件で他の患者がナースステーションを訪れることが増えた。


「ユカリさん、スタッフに邪険に扱われて毎晩泣いているって言ってたんですけど、ひどくないですか?」

「ユカリさん、男性職員にセクハラを受けたって聞いたんですけど。そんな病院に私、入院していられません」


 もちろんすべて事実ではない。

 こうやってBPDは、利用できる人を探し、利用していく。


 例えば、Aに対して『Bはむかつくよ』『Bはこんなことを言っていたよ』と吹き込む。

 すると、操作されやすいAだと『Bむかつくね』となる(操作されにくいAは『あたしはそんなこと思わない』となる)。

 そうすると、Aに対してBがケンカを吹っ掛け、変な話バトルにまで発展することもある。

 しかし、AとBPDの関係は傷つくことなく、いい関係を続けられるのだ。


 これがマニュピレーション操作性と言われる、BPDの特徴のひとつである。


 BPDの人は、自然とこれらができてしまう。


 だから『何をしに来ているの?』『私と話をすることで、あなたにどんなことがあるの?』などの問いかけをし、外から客観的に把握させることが必要となる。


 また、本人と守れる約束を交わすこと。

 これが支援をしていく上でとても重要なことになる。



 ユカリが入院をして二週間あまりが経過したが、病棟内では派閥が出来てしまっていた。

 それは患者対病院側という構造。

 ユカリの揺さぶりに、不安定な患者たちはすっかり取り込まれてしまったのだ。


 ユカリはその構造が出来たことを外から見て、楽しんでいる。


 そんな状況にまで発展してしまい、さすがに今田はユカリに声を掛けた。


「ユカリさん――、ユカリさんはどうしてODやリストカットを繰り返すの?」


 ユカリは毎日毎日どこかに傷を作る。

 外来の予約外の臨時受診はダントツで多い。

 その度に手首や腕につけた新しい傷を見せて来て、『今日は一気に20錠飲んだ』などと言う。


 外来治療だけでは限界で、入院を勧めて入院治療を開始しても、今回のようにたくさんの人を取り込み、利用してしまう。


「んー。なんでだろうね。血ってね、赤いんだよ。知ってる? ユカリは小さい頃からお父さんにレイプされて、知らないおじさんにレイプされて、大変だったんだよね。小学校の時からリストカットはしてたし、もう癖になっちゃってるのかもしれないね。やっぱり切ると安心する。生きている心地がするんだよ。薬をいっぱい飲むのはね、しんどいときにスカッとするため、かな」


 ユカリは得意げにこれまでの人生を語る。


「そっか。じゃあ入院してどうなりたいと思っている?」


 ユカリは答えなかった。

 そしてしばらく時間を置いて、口を開く。


「そうだね。病気を治したい、かな」

「そっか。そしたら、今するべきことは何かな?」


 今田はユカリに問いかける。

 ユカリは笑うのを突然辞めて、赤ちゃんのおしゃぶりのように親指を加え吸いはじめた。


「うー。うー」


「うー」と言いながら自室へと戻っていく。


 退行。

 嫌なことから逃げるための手段の一つ。



 一週間後、ユカリは半ば強制的に退院となった。


 病棟のルールが守れず、たくさんの患者に大きな影響だけを与え、去っていった。


 彼女たちBPDの根底にあるのは、信頼関係の不安である。

 そもそも人が信用できないのだ。

 だから人を試す。試したくなる。かき回したい衝動に駆られてしまう。


 BPDは、薬で治るものではない。


 人対人の支援が必要だから、うまくいかないことも多い。


 また彼女が入院してきたら、今度は何ができるだろうか。


 彼女が守れる約束を交わすことができるだろうか。


 刹那的に生きるBPDに対して、その都度その都度、『今やりたいことは何か』『今叶えたいことは何か』を、確認していけるだろうか。


 精神保健福祉士として、彼らにどこまでのことができるだろうか。


 精神保健福祉士は神様ではない。

 できることは限られる。

 ユカリのODやリストカットを二十四時間監視するわけにもいかないし、ユカリが納得のいくまで利用されるわけにもいかない。


 できないことは、できないと言おう。


 無理なら無理だと言ってもいい。


 ただ、見捨てることはしないよ。


 あなたのために、アプローチは続けさせてね。


 一緒に努力していこう。

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