ショートストーリー
★ においの正体
ここは
このクリニックでは毎月一回、クリニック全体に緊張が走る時間がやってくる。
――今日がその運命の日。
ある予約時間になると、各スタッフが配置につく。
そこにはケースワーカーの
雪凪は、トイレの前に立っている。看護師は処置室、受付は窓の周辺。
時計の針は、刻一刻とのその時間に向かって針が進む。
そして、その時がやってきた。
クリニックの自動ドアが開き、ある患者がクリニックを訪れた。
と同時に、配置についたスタッフは一斉に、クリニック中の窓を開けた。
そう――。
換気とは、特定の空間の空気環境を維持、または改善するために外気を取り入れて内部の空気を排出する(入れ換える)ことである(※Wikipediaより抜粋)。
なぜこのようなことをしているかというと。
予約通りにクリニックに来院した、患者。ユウスケがあまりにもにおうためだ。
クリニック中に充満する何とも言えぬ、異臭を放っている。マスクを二枚重ねても、その異臭は容赦なく臭覚を刺激する。臭いレベルは一体どれほどあるのだろうか。一体どうすればここまでの臭いを発することができるのだろうか。足裏の臭い? 脇の臭い? 汗の臭い? そういった次元の話ではない。どんなに鼻が詰まっていても、容赦なく襲い掛かってくるだろう。もはやどう表現していいのか分からないほどの異臭を放ち、それがクリニック中に充満してしまうのだ。
ユウスケ、三十二歳。統合失調症。三ヵ月前から小山田メンタルクリニックに
見た目は正直、一般人とさほど変わりない。きちんと私服を来て、礼儀正しい青年。言うとすれば、髪の毛が油のようなものでベッタリしているくらいであろう。髪の毛だけ見ると『あぁ、この人お風呂入っていないのかなぁ』と思うのであるが、正直お風呂に入っていないだけで、ここまでの異臭がするだとうか、と疑問に思う。
ユウスケがクリニックに入ってきた瞬間、待合室待っている数名の患者は、それを察したようで道を開ける。ユウスケが座ったソファ周辺の患者は慌ててユウスケから離れる。たまたまその場にいた患者の子供は「なんかくさいねー」と純粋な気持ちを口にする。周りの患者もユウスケのにおいについて、指を差しながらコソコソと言っているのが分かる。
順番が来てユウスケの診察を終えた後、雪凪は診察室に入る。そこにはクリニックの院長、
「あらあら、小山田先生。大丈夫ですか?」
「あ~。雪凪さん、ごめんね、大丈夫だよ」
「今日もなかなかですね、ユウスケさん」
「あぁ。この距離であのにおいは結構きつくてね……」
診察室はデスクひとつ挟んで、患者と主治医が対面するような造りになっている。
「お風呂入れていますか? って聞くんだけど、『昨日も入りましたよ』って言われちゃったんだよね」
「お風呂入っているのに、あのにおいですか?」
「ううん……。どうしたらいいのかな~……。何とかしてあげないと、電車でよくあちこち行くって言っていたから、周りの人に嫌な顔されていないか心配なんだよね」
正直、あのにおいを放ったまま電車という閉鎖的な箱に乗るのは、周囲が非常につらいかもしれない。
雪凪と小山田は考えた。
「もし、小山田先生が許可してくれるのなら――」
二人は目を見合わせる。
「私、ユウスケさんの家、訪問してきますよ」
「ええ。本当に?」
「はい。本人さんの生活の様子を把握するには、実際生活しているお家を見るのが一番いいので」
驚く小山田とは違い、真顔で訪問を提案する雪凪。
クリニックで働いているからといって、仕事の範囲はクリニック内だけとは限らない。時にはこうやって外に出て、アウトリーチすることも精神保健福祉士の仕事のひとつである。
「じゃあ、そうしようか」
「ありがとうございます。早速本人さんに声を掛けてきます」
「おお。仕事が早いね、雪凪さん」
雪凪は診察室を後にすると、会計待ちのユウスケさんのところへ向かった。
「はじめまして、ユウスケさん。ケースワーカーの雪凪と申します」
「あ、ワーカーさんですか。はじめまして、ユウスケといいます。どうかしたんですか?」
ソファに座るユウスケの隣でしゃがみ込んで声を掛ける雪凪。
さすがにこの距離でこの異臭は、さすがの雪凪も息を止めるほど。マスクをつけていないので、においが問答無用で鼻の中にある
「いえ、これからユウスケさんと関わっていくかもしれませんので、ご挨拶だけでもと思って。何かあれば、何でも相談してくださいね」
「そうなんですね。心強いです。ありがとうございます」
いきなり『家を訪問させてくれ』と頼んでもビックリされてしまうため、まずは信頼関係の構築からスタートする。
最初の挨拶から、約三ヵ月――。
診察の度に十分から三十分ほど話をするようになった。においはいつ会ってもあいかわらずのキツさを放っている。頑張っても三十分までが限界であった。
そしてある日、ユウスケから一本の電話が入る。
電話が入るのは珍しい。そんなことを思いながら、雪凪は電話を引き継いだ。
「あの……、雪凪さん。実は」
何だかもじもじして話しにくそうにしているユウスケ。
雪凪は急かすことなく、ユウスケが話をしてくれるのを待った。
「じ、実は……。困っていることがあって」
「うんうん。何かに困っているんですか?」
「何だか、お話しするのが恥ずかしいんですけど……、僕、部屋の掃除が、とても苦手で」
これだ。
こういう困っていることに手を差し伸べるために、信頼関係を築いてきた。
雪凪はこの機を逃すなとばかりに提案した。
「そうなんですね。掃除が苦手なことに困っているんですね。もしよかったら、ユウスケさんのお部屋、見せて頂けませんか? 直接見た方が、具体的なアドバイスとかできるかもしれませんし」
「ほ、本当に部屋汚いですよ! 見たらビックリしてひっくり返っちゃうかも……」
「大丈夫ですよ。嫌かもしれないけど、ユウスケさんのこれからの支援を考えるために必要な事だと思っていますから」
「そ……そうですか。じゃ、じゃあ――」
そして五日後。雪凪はユウスケの家に向かった。
ユウスケは三つ隣の駅から徒歩五分ほどのアパートで単身生活をしている。家族は遠方の実家に住んでおり、ユウスケに会いにこっちに出てくることはないという。生活は
雪凪は、約束の時間の五分前に、ユウスケのアパートへ到着した。
そして、雪凪は何かを感じ取った。
ゆっくりとユウスケの住んでいる部屋に向かって階段を上がる。ユウスケの部屋は三階の角部屋。
雪凪は階段を上がるたびに、ひしひしと感じるこのにおい――。
ユウスケがクリニックに訪れた時に放っている、あの異臭だ。それもクリニックの時とは違う、すごく強烈なにおいだ。雪凪は思わず、持っていたマスクをつけた。しかしマスクは全く意味を成さない。もう鼻が千切れてしまいそうだった。冷静でクールビューティーな雪凪はその非常事態に足元がおぼつき、階段を登り切ったところで思わず膝をついてしまう。
雪凪はたまらず、持っていた軽めのにおいのコロンをマスクに振りかける。――が、しかし逆効果だった。甘いにおいと猛烈な異臭で吐き気を催す。雪凪はマスクを外し、丸めてポケットに入れると新しいマスクを二枚取り出し装着した。
ユウスケの部屋の前に到着する。
まるで異世界に繋がる扉の前に立っているようだった。他の部屋のオーラとはまるで違う。全体的に白がモチーフとなったアパートのはずなのだが、この扉の周りだけ黒い。黒いのだ。さすがの雪凪も震えあがった。インターホンを押そうと指を伸ばすが、見たことのない虫が大量に壁を張っており、なかなか押すことができない。タイミングを見計らい、なんとかインターホンを押し、ユウスケが中から扉を開ける――と同時に、大量のハエやコバエが部屋の中から飛び出してきた。雪凪は思わず「ひゃあ」と言って回避する。
「す、すみません。雪凪さん、本当に来てくれたんですね」
「はい、やってきました」
「本当に、や、やばいですよ。もうすでに、感じているかもしれませんけど……」
「大丈夫です」
雪凪は口だけで呼吸をしている。
しかし日中であるにも関わらず、ユウスケの家の中は真っ暗でよく見えない。
「で、では、覚悟してくださいね。ど、どうぞ」
「はい、ありがとうございます。お邪魔しま――」
雪凪は固まった。
部屋が真っ暗だったのではない。
天井まで積みあがったゴミで、真っ暗に見えていただけなのだ。
そう――。
ユウスケの家は俗にいうゴミ屋敷だった。
家中、すべてがゴミだった。人ひとりがやっと通ることのできるゴミの中に作られた道。道と言っても、自衛隊の訓練のように張って移動しなければいけない。
もはやキッチンがどこかトイレがどこなのか、全く分からない。風呂場の中までもがゴミに溢れ、近所の銭湯に行っているという。ここが寝る場所だと、ゴミの上に敷かれた布団を指差すが、その布団は真っ黒に変色していた。
ユウスケの場合、『ゴミを拾え』と
仕事も決まり、ひとり暮らしを始めて、今後こそ部屋をきれいにしようと掃除を頑張っていたが、掃除が進むペースよりもゴミ集めのペースが早すぎて、部屋を借りて一カ月ほどで腰くらいの高さまでゴミが溜まってしまったという。
「すみません……、雪凪さん。本当に汚いですよね。今日は、早く帰った方がいいと思います……。こんな家……、嫌ですよね」
ユウスケは俯いた。
「――ううん」
しかし、雪凪はユウスケが覚悟していた返事とは全く違う言葉をユウスケに返した。
「ユウスケさん……、これまで本当につらかったですね」
これが、雪凪がユウスケの部屋を見て最初に言った言葉であった。
雪凪は、すぐに掃除業者を利用し一気に片付けることを提案した。
業者のホームページを一緒に調べ、一番安いところを見つけると、早速ユウスケは業者に電話を入れた。
後日、業者が入り、ゴミは二日間できれいさっぱりとなくなった。
そして雪凪は更に、ヘルパーの利用を提案した。
ヘルパーは高齢者だけのサービスではなく、精神科に通院しており、
幻聴に左右されてゴミを集めて来ても、ヘルパーに手伝ってもらえば、ゴミ屋敷にならずに家の状態を維持できると考えたからだ。
ユウスケはすぐに役所へ行き、ヘルパーの申請を行った。ユウスケの詳しい状況は、雪凪が事前に役所へ連絡を入れていたため、窓口ですんなり対応してくれることができた。
そしてユウスケはヘルパーの利用を開始。週一日、仕事が休みの日に部屋の掃除のため入ってくれることになった。
◆
二か月後――。
「最近、ユウスケさんのにおい、マシになってない?」
「たしかに。前ほどきつくなくなりましたよね」
ユウスケの診察を終えた小山田が雪凪と話している。
「しかしユウスケさんの家がゴミ屋敷だったとはね。雪凪さんに行ってもらって正解だったなー」
小山田はカルテを開く。
「最近ね、ユウスケさん症状すごく落ち着いているんだって。しかもね――」
小山田は先程記載したカルテの、ある一ヵ所を指差した。
「最近、職場で仲の良い人ができたんだって」
雪凪はその一文を読むと、ふわっと微笑んだ。
「そうですか。ユウスケさん――、よかった」
――Fin.
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