5.バケツの水
ショウコは保護室を出たのは、入院して約三週間後のことだった。保護室を出て、四人部屋へと移った。夫は個室代のかかるひとり部屋の個室でもいいと言ってくれていたのだが、まだひとりにさせるわけにはいかず、まずは大部屋に入ってもらうことになった。
やまざと精神科病院では、毎日午前と午後に二時間ずつ、
内容としては、ちょっとしたゲームをしたり、卓球などのスポーツ、裁縫やビーズアクセサリーなどを作る、また絵を描くなどの創作をしている。
入院中はできるだけOTに参加するように声掛けをしているのだが、ショウコは日中のほとんどを部屋で過ごし、ベッドに横になっているか、ボーっと窓の外を見ているかのどちらかであった。
今日もベッドに体育座りで座っているショウコの元を今田は尋ねた。
「こんにちは、ショウコさん。OT、参加しないんですか?」
「こんにちは、今田さん。……はい。ちょっと、ああいうのはしんどいかなって思って……」
これは面倒臭いなどといった感情とは違う。本当に心がつらく重いため、参加することができないのだ。
精神科以外の一般的な環境ではこういった発言があると、「参加していないのに、しんどいも何もあるか」なんてことを言われてしまうかもしれない。無理やり引っ張られて強制的に参加させられるかもしれない。
しかし本人からすれば、体中に重りをぶら下げているような感覚。心をずっと何かに鷲掴みにされているような感覚。人の視線が槍のように飛んできて、自分の体を突き刺していく感覚に常に襲われているのだ。
「もう、トイレに行くのもしんどいんです。いっそのこと、おむつを付けて生活したい……」
ショウコは本当につらそうに話す。こう話している間にも、ショウコの目には涙が溜まってきている。
「今田さん……。私、治るのかな。つらいよ。本当に、つらい。トイレに行くのもしんどいとか、もう人として終わってる……。こんなつらい気持ちを背負ったまま、ずっと生きていかないといけないのかな……」
「ショウコさん……」
今田はベッドの横にある椅子に腰かけ、ショウコの気持ちを傾聴する。
「これまで私ね、あんまり人に弱み見せた事がなくて……。弱み、っていうか相談とか、全然したことなくて。私にとってはつらいことでも、周りからしたらそうじゃないことってあるじゃないですか。もしかしたらまだ頑張れるんじゃないか、とか思うとなかなか周りに言えなくて……」
「そうだったんですね」
「もう分かんない。どこまで周りに自分の気持ちを話していいのか……。結局はこうやって抱えちゃって、入院までなって……。もう、やだ……」
「ショウコさん」
今田に名前を呼ばれ、ショウコは涙が頬を伝う顔を上げる。
「誰かと比べなくてもいいんですよ」
ショウコは、更に顔がぐしゃっとなった。
「他の人のものさしで、自分を測る必要はありません」
とどまることを知らない大粒の涙が、ボロボロとこぼれ落ちる。
ショウコはそれを拭わず、まっすぐに今田の方を見据える。
「僕でよかったら、ショウコさんの話、聞きますよ」
ここで初めてショウコは、涙を袖で拭き上げる。
「私の話……、聞いてくれるの?」
「聞きますよ」
「で、でも……、何をどう話せばいいのか……」
「何でもいいんです。これまで誰にも話せなかったような、ショウコさんの気持ちでも」
「うう……っ」
ショウコは、布団を握りしめて布団で目元をゴシゴシと拭く。
「今のショウコさんは、バケツにたくさん水が溜まっていて、それが溢れている状態です。しかもバケツが穴だらけでそこからも水が漏れてしまっている。僕はその穴を塞ぎたい。更にできることなら、バケツの水をすくって、もうひとつの僕というバケツに移し替えてあげたい」
ショウコは手を止めた。
手を止めるとともに、涙も不思議と止まっている。
「想像してみてください。バケツの穴を塞いで、バケツの中の水が減れば――バケツの中は、軽くなりますよね」
ショウコは感じた。
今バケツの例え話を聞いただけで、何故か自分の心が少し楽になったことに――。
「今田さん。私……話、聞いてほしい」
「はい。もちろんです」
翌日から、週に一回一時間、今田とショウコは病棟の面接室で話をすることになった。
閉鎖病棟にある面接室のため、もちろん部屋には鍵がかかっている。
毎回五分前にドアの前で待ち合わせて、今田が鍵を開け、面接を行なった。
これは強制ではない、と最初に今田はショウコに告げた。体調が悪い時はキャンセルしても問題ないことを伝える。もちろん、この定期的な面接を中止にすることもできる、と合わせて伝えた。
ショウコは面接を休むことなく続けた。
面接では、本当にたくさんのことを話してくれた。
母親がうつ病で治療をしている姿を見てきたこと。
学生時代のいじめが本当につらかったけど、両親(特に母親)を困らせたくなくて相談できなかったこと。
仕事では顧客がつくほどの実力があり、役職の話を貰っていたこと。
しかしその反面、接客業であり、更に化粧品をどんどん売らなければいけない、つまり歩合制のとてもストレスのかかるハードな仕事内容であること。
そして、愛する夫と息子の話。
今田はそれらの話を、ただただ
傾聴――。
それはただ単に話を聞くことを指すのではない。
自分の中にある価値観を全て取っ払って相手の話を聞くのだ。
『私はハンバーグが好きなの』
という人に対して、
『へー。私はパスタの方が好きだなぁ』と思いながら話を聞くのは傾聴とは言わない。
『ああ、この人はハンバーグが好きなんだなぁ』とありのままにその人を受け止めること、それが傾聴である。
ちなみに、ここで『ハンバーグおいしいですよね』と言うのは共感だ。
例えば、
『私、朝起きるのがとてもつらいんです。どうしたらいいんでしょうか?』
と相談してきた人にどう答えた方がいいだろうか(ぜひ、一緒に考えてほしい)。
どうしたらいいか、と助言を求めてきているパターンである。
親身になってくれる方だと『そうだね。目覚ましをもう一個増やすといいかもしれないよ』とアドバイスをするだろう。
しかし、そのアドバイスを受けて本人がどう感じるだろうか。中には『そうだね。よし、早速もう一個買おう!』という人ももちろんいると思う。
だが中には、『目覚ましを買うお金がない……』と思っているかもしれない。更に『そんなに目覚ましを掛けたら、家族に怒られる……』と困っている人もいるかもしれない。
そこでここで返すとすれば、
『朝起きるのがとてもつらいんだね。どうやったらうまく起きれるようになるんだろうね?』
と返す。
そうすることによって、相手は自分で考えるようになる。そして、こちらが知らなかった情報を教えてくれるかもしれない。うまくいけば、これだけで相手が『あ、目覚ましをもう一個買えばいいんだ!』と気付くかもしれない。
もちろんケースバイケースではある。具体的に助言をしなければいけないケースもある。だが、極力助言は控えるようにする。相手に自分の価値観で話をしないように心掛けること。これはひとつの面接技法である。
「今田さん。いつも話を聞いてくれてありがとうこざいます」
それは面接が始まって一ヶ月が経過しようとしていた頃だった。
ショウコはだんだん表情も明るくなってきて、涙を流すことも少なくなっていた。少しずつ作業療法への参加も増え、最初は端っこで細々と活動していたショウコは、だんだん輪の中に入れるようになっていった。
「いえいえ。とんでもないです。臨床心理士さんとは違うので、話を聞くことしかできないんですけどね」
「そんな。かなり助かっています。ああ、話してもいいんだなって……、気付けたことがとても嬉しい」
「それです。ショウコさん。“気付く”こと――それがとても大事なことなんです」
「そっか……。気付けたんだ、私」
本人に気付いてもらう。
それは支援をしていて、精神保健福祉士が意識して働きかけることのひとつである。
人は自ら気付くことで、意識や行動が変わる。
自分が本当はどんなことを思っているのか。自分が何をもって行動したのか、発言したのか。本心が何なのか。本当は何を求めているのか。
それがいつの間にか、周りの情報や周りの視線に流され、見えなくなってしまうことが多い。
気付きは、自分で得ることしかできない。
魔法使いがいれば話は別だが、自分の心は自分にしか分からない。
そのために、気付きを促す働きかけをしていく。
『あなたが本当に困っていることは何?』
『自分がどこまでできて、どこからが苦手なのか分かる?』
本人が気付きを得るまで、時間を有する場合もある。
『絶対自分が障害者なんて認めない』と言って頑なにサービス利用を拒否していた人が『やっぱりサービスを利用しないととてもじゃないけど生活できない』と相談してくるまでに五年かかったこともある。
その五年は決して空白の五年ではなく、ベッタリではなく、ほどよい距離で寄り添っていた精神保健福祉士の存在があった。
「今田さん……。ちょっとご相談したいことがあるんですけど……」
その日の面接残り五分となったところで、ショウコが相談事があると切り出した。
「どうしたんですか、ショウコさん」
「私、今の仕事――辞めようかと思ってます」
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