6.大事な決断

「――と、ショウコさんが話してくれたんですけどね、荒川先生」

「仕事を辞めたい――か」


 ここは医局いきょく。やまざと精神科病院に勤める医師が集まって仕事をしたり、休憩をする場所。

 ショウコとの面接を終えた今田は、主治医である荒川の元を訪れていた。


「やりがいを感じていた分、たしかに仕事は相当つらかったようなんです。基本給は低めに設定をされていて、化粧品をどれだけ売ったかで給料が増えていく歩合制。ショウコさんはその中でも上位の成績を収めていたようなんですけど、女性の職場と言うこともあって、妬みもあったようで」


 荒川は眼鏡をくいっと上げる。

 今田の話を聞きながらショウコのカルテを開き、今田の面接記録を眺めた。


「たしかにうつがひどくなる環境なのであれば、退職した方がいいのかもしれないけど、うつの患者さんは焦って大きな決断をしない方がいいからね」

「そうですよね。なので、ショウコさんには大事なことだから今すぐに決めないで、家族さんともよく相談してほしいと伝えています」


 うつ病をわずらっている人は、どうしても物事を悲観的に、否定的に、悪い方向へ捉えてしまう傾向がある。これは本人の性格もあるのかもしれないが、病気がそうさせていると言った方がいいだろう。

 そのため『私が会社に残っていると、みんなに迷惑をかけるから退職しなければ』というように追い込まれてしまう。そしてすぐに決断をしてしまい、後から後悔の念にさいなまれ、余計に調子を崩してしまいがちである。

 そういったときには、『すぐに決断をしないで』と声を掛けることが大事だ。『まずいったん誰かに相談しよう』や『私でよかったら、一緒に考えるよ』でもいいかもしれない。

 すぐにでもそれについて決めたい、と本人さんが焦る反面、いったん深呼吸をする場をつくるだけで気持ちが変わったり、自分で気付きを得られる可能性はぐんと上がる。


「じゃあ僕、今度旦那さんが面会に来た時にでも、三人で話をしてみましょうか」

「今田さん、頼んでもいいかい? 助かるよ」


 今田は、夫の次の面会時に三人で話をしてみることにした。

 これは、ショウコの今後を考える大事な話し合いとなる。

 今田は病棟の看護師に声を掛け、ショウコの夫が面会で来院した際に内線を鳴らしてもらうようにお願いをした。



 そして四日後の土曜日。ショウコの夫が面会のため来院した。

 これまで夫とは数回面会時に挨拶を交わしていたが、きちんと面と向かって話をするのは入院時以来である。


 やまざと精神科病院での面会は、基本的に病室での面会は控えてもらっている。他の入院患者への配慮もあるが、食堂など開けた場所、病棟職員の目の行き届く場所での面会をお願いしている。

 また面会は家族のみに限らせてもらっている。つまり友人や恋人は残念だが面会することができない。


 ショウコの夫は、受付で面会の手続きを行い、“面会”と書かれた名札を首から下げて、病棟まで中央エレベーターで上がる。病棟には鍵が掛かっているため、面会に来た際は扉についているインターホンを鳴らし、病棟職員に鍵を開錠してもらうという仕組みになっている。


 画面越しにショウコの夫だと気付いた今田は、病棟の鍵を開錠しに向かった。

 久しぶりに対面する二人は頭を下げ、丁寧に挨拶をする。


「今田さん、ご無沙汰しております。ショウコが本当にお世話になっています。なんか、毎週毎週お話を聞いてもらっているみたいで」

「いえいえ。とんでもないです。僕にできることをしているだけですので」


 二人は話しながら、ショウコの部屋を覗いた。

 グレーのスウェット姿のショウコは夫の姿を見ると、すぐにベッドから下りて「いつもごめんね」と夫に声を掛けると食堂まで並んで歩く。その後ろを今田は見守るようについていった。


 食堂に到着すると、すでに数名の家族と患者が面会をしている。窓際の端の方へショウコと夫は向かい合うように座った。

 そしてそこへ今田が「僕も一緒にいいですか?」と、三人がコの字に向かい合うように椅子を移動させて座った。


「ごめんなさい、大切な夫婦の時間に図々しく入ってしまって」

「いえいえ、いいんです今田さん。気にしないでください。今田さんに話を聞いてもらっているおかげで、私とても心が救われているんです」

「僕からも改めてお礼を言わせてください。ありがとうございます」


 ショウコと夫は、今田に向かって頭を下げる。


「そんな。僕でよければ、いつでも話聞きますよ。ところで、ショウコさん、これまで僕にどんな話をしてくれたか、覚えていますか?」


 今田は、これまでの面接を振り返りを始める。


「そうですね。両親の話。母親の病気のこと。そして……、昔の話。学生時代のこととか。あ、あとね、あなたのこともいろいろ話したのよ」

「僕のこと? 気になるなぁ」

「私たちのなれそめの話をしたら、今田さん真剣に聞いてくれたわ」

「そうなんだ。いやぁ恥ずかしいなぁ」

「そうですね。たしかに聞いちゃいました。――他には?」

「――あとは、お仕事のこと、かな」


 ショウコの顔色が少し曇った。


「あなた。私、仕事辞めようと思うの……」


 ショウコは夫に、今田に相談したことを話し始めた。

 今まで三人の時間が流れていたが、この話題から夫婦の時の流れへと空間が変化する。


「……今田さんに相談したら、家族とよく相談してって言われたの。あなたは、どう思う?」

「でもショウコ、最初やりがいのある仕事だって言っていたじゃないか」

「たしかに……、そうだった。最初は顧客が増えていくのが楽しくて。うちの化粧品使ってどんどん綺麗になっていくお客さんたちを見ているだけで、本当に……、本当に楽しく感じていたの」

「うん。そうだろう? 僕が最初ショウコに声を掛けたのも、楽しそうに仕事をしている君がとてもキラキラして眩しい人に見えたからなんだよ」


 ショウコは本当に今の仕事が好きだったようだ。そしてそれを夫も十分に理解している。


「でも、でもね……。怖いのよ。またあんなクレーム……。しかも私のミスじゃないのに、当の本人は全然クレーム対応してくれなくて、陰でコソコソ笑って見ているだけ。なんで私がこんなに怒鳴られて、ありもしないようなひどいことを言われて、必死に頭を下げないといけないの……。なんで全く状況も知らない私が責任を負わされて、報告書まで上げないといけなかったの……」

「ショウコ……」


 夫は言葉を無くした。

 ショウコからこの話を聞いたのは、初めてだったからだ。

 大元は同じ会社の営業を担当している夫。かなりの成績を収め、部署内で右に出る者はいないという程の実力者。そんな夫に、同じ職場の文句なんて言えなかった、そして何より夫に迷惑を掛けたくなかったというショウコの思いがあった。


「店長だって何もしてくれなかった……。『いい加減にしてちょうだい』としか言われなくて、助けてくれなかったの……。悔しい。なんで私がこんな目にって思ったら、もう本当につらくて」

「ごめんショウコ。気付いてあげられなくて、本当にごめん」


 夫はショウコに頭を下げた。

 ショウコはそんな夫の姿に、こんな思いをぶつけてしまったことに対する罪悪感からか、ぼろぼろと涙をこぼし始める。


 それに気付いた病棟看護師が今田に「大丈夫?」と口パクで遠くから話しかける。まだショウコが本調子でないことは今田をはじめ、病棟職員の誰もが分かっていた。だからこそ常に目を掛け、様子を伺っているのだ。

 今田はその口パクに気付くと、「大丈夫」と言わんばかりににこりと笑った。


「ショウコさん」


 今田は涙を袖で拭いているショウコに話しかけた。


「本当に、退職しか道はないのでしょうか?」


 退職――?


 本当に、それだけしかない――?


 夫は何かに気付いたように、ハッと目を見開く。


「ショウコ。俺は、お前にこれからももっと輝いてほしいと思っている。できることなら、今の仕事が好きなら続けてほしいと思っているよ。そのためにもさ、退職の前に、できることからやってみないか?」

「あ、あなた……」


 夫は立ち上がり、ショウコの方へと身を乗り出した。


「まずは休職。そして体調が良くなって復職するときに、部署異動の希望を出してみよう。店舗配属がいいなら、別の店舗へと届け出を出せばいい。僕の知っている会社の役員に声を掛けてあげるよ」

「で、でもそんなことしたらあなたに迷惑が――」

「迷惑? そんなのいくらでも掛ければいいさ。僕は君の夫なんだから」


 止まらない涙がショウコの服を、食堂の机を濡らしていく。

 ショウコは、長い間ずっと気付かなかったのだ。

 自分のことをここまで思ってくれていた人が、こんなに近くにいることを。


「そうです、ショウコさん。旦那さんの言う通り、まずはゆっくりと体を休めてください。そのために退院後はしばらく休職をした方がいい。そしてショウコさん、傷病手当金しょうびょうてあてきんは受けていますか? まだなら、お店か本社に手続きの相談をしてみるといいと思います。最長で一年六ヶ月間貰えますので、それを受給しながら療養すると生活にも大きな支障は出ないと思います。休職については、荒川先生に改めて診断書を書いてもらいましょう。それを会社に提出すれば休職することができます」

「傷病手当金ですか?」

「傷病手当金とは、休職期間が連続して三日以上経った後(※待機期間と呼ぶ)、四日目から支給される、休職者向けの手当金のことです。診断書は主治医に作成してもらい、会社に提出をします」

「そんな手当金があったなんて……」

「あと、体調が良くなってきたら復職支援のリワーク(※トキオのケース【双極性障害(躁うつ病)】<5.リワーク>参照)を利用されるといいと思います」

「ほう。リワークですか」


 夫はカバンから急いで手帳を取り出すと、慣れた手つきでページを開き、先程の今田の話を記入していく。


 そして今回の話し合いのまとめとして、退院後はまずは休職。その間は傷病手当金を貰いながらしっかり体を休める。そして体調次第でリワークを利用し、復職とともに部署が異動できるか相談する、ということでいいですか? と、最後に今田が簡単にまとめた。


「じゃあこれらの流れでいけそうか、荒川先生にも僕から相談してみます」

「はい、今田さん。今日は本当にありがとうございました」

「いえいえ。僕は特に何もしていませんよ。あ、ショウコさん。仕事のこと旦那さんに相談してみてどうでしたか?」


 ショウコに尋ねる、今田。

 ショウコはちらっと夫の方見るなり、


「相談して、本当によかった」


 と笑って答えた。

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