4.本人の人権

 新井と今田は、真剣にカケルの両親の話を聞いていた。カケルのこれまでの人生、そしてそれに伴う家族の思い。十分すぎるものだった。


「お父さん、お母さん。ありがとうございます」


 新井はにこやかな顔で二人に声を掛けた。新井はそう言うと、ある書類に何かを書き始める。カルテは電子カルテなので、パソコンで記入する。ではいったい何の書類だろうか。新井は書類を書き終わると、再び両親の方へ姿勢を向け、話し始めた。


「カケルさんは、恐らく統合失調症で間違いないでしょう。カケルさんの場合は、陽性症状ようせいしょうじょうと言って、幻覚げんかく妄想もうそうが躊躇に現れています」

「げ、幻覚と妄想……ですか」


 これもあまり聞きなれない言葉だった。更に新井は続けた。


「幻覚というのは、そこにないものが見える幻視げんし、いないはずの声が聞こえる幻聴げんちょう、あとは『脳みそが溶けた』などの体感幻覚たいかんげんかくなど様々な種類があるのですが、カケルさんの場合、幻聴はあったみたいですね」

「たしかに聞こえる、聞こえるって言っていました」

「ですよね。あと妄想。アメリカの軍隊に殺される、自分を殺しに来る、など、通常ではありえないこと、そしてそれに対して訂正することができないのが妄想です」

「ああ、そうです。それも間違いなくありました」

「それにより、カケルさんは統合失調症と診断することができます。この病気は、すぐにでも薬物療法を開始した方がいい病気です。今拘束し、鎮静をかけていますが、カケルさんが目を覚ませばすぐにでも投与していきたいのですが、よろしいでしょうか」


 薬物療法。偏見のせいもあるが、精神科の薬は、とても忌避きひされることが多い。『飲めば頭がおかしくなる』『薬物依存症になる』『副作用が怖い』など様々な声が上がる。それは、この両親も、例外なく同じことを思い、不安になっていた。


「たしかに精神科の薬というのは、とても嫌がられがちです。怖い薬、という印象が強いんですよね。ですが、最近の薬はとてもいいものが多いです。副作用もほとんどなく、ちゃんと症状をさせてくれるものが多い。安心して飲んでもらっても大丈夫ですよ」

「先生、あの……」

「なんでしょうか、お父さん」

なんですか? ではなく……」


 父は、素朴だがとても重要なことを質問した。たしかに新井は治るという言い方ではなく、緩和すると言った。この言葉を、父だけでなく母も聞き逃してはいなかった。


「とても残念ですが、この病気、統合失調症を発症すると、完治することはありません」


 それは、とても驚愕な言葉だった。

 治らない。難病で薬や治療法がないわけでもない心の病気なのに、治らないとハッキリ述べられたその言葉に、両親は納得のいかない表情を浮かべていた。


「これは完治することのない病気です。発見した時点ですぐに治療を開始すれば、まだが、このまま治療をせずに放っておくと、当たり前ですが、症状はどんどん悪化します」

「と……、いうことは。つまり、その」

「はい。再発を防ぐためには、一生お薬を飲み続けなければいけません」


 母は泣き崩れた。まだ三十五歳の若さで突きつけられた現実。一生、とは死ぬまで、ということ。まだ幸いにも健康な両親の介抱の元、永遠に薬と付き合っていかないといけないという事実。


「ただでさえ、統合失調症は脳にかなりのダメージを与えます。そして、薬を中断し再発するたびに、脳に強く強くダメージを残すのです。そうなると、だんだんします」


 新井は、酷であると分かっていても話を続ける。両親は聞きたくもないことだろうが、カケルの人生においてはとても重要なことなのだ。


「先程もお伝えしましたが、薬を飲んで、リハビリを続ければ、一般の方と変わらない生活が送れます。お父さん、お母さん。この度、カケルさんの入院治療にして頂き、薬物療法を行うことに了承を頂けますか?」


 父と母は、声を出さずに、ゆっくりと頷いた。


「では、カケルさんは本日よりご両親の同意のもと入院する、で治療を開始します。この後の詳細に関しては、今田より説明がありますので」


 今田はそんな三人のやり取りを、何も言わずに後ろからただ、見守っていた。



 ◆


 診察を終えた新井は、診察室を後にする。そのまま診察室の中へ残された今田とカケルの両親。今田は、先程新井が座っていた椅子へ座り直した。


「あの、今田さん」と父が今田に声を掛ける。

「む、息子に会うことはできないのでしょうか」と、親ならば当然と言える言葉を述べた。

 しかし、「すみません。息子さんには、まだ会うことができないんです」と今田は答える。両親は、今日何度目だろうと思うほどに、がっくりと肩を落とす様子が見受けられた。


 精神科病院。よく内科と同じ感覚で来院したり入院を希望する人がいるが、一般的な病院とは、やはりいろいろと違うところがある。

 カケルは保護室での治療を開始したばかりのため、面会は基本的にお断りさせてもらう場合が多い。あれだけ興奮していたのだ。両親に会うことで刺激を与えることは、今は避けたい。


「少しだけお待ちください。今カケルさんは入院したばかりで病状も不安定です。状態が落ち着けば、面会もできるようになります。その時は、もちろん僕の方から連絡をさせて頂きますので」

「そ、そうですか。すみません、慣れないことばかりでして」

「いえ。分からなくて当然だと思います。そのための僕です。できる限りのサポートはさせて頂きます」

「あの……」


 今度は母が口を開いた。まだ完全に涙が止まったわけではないが、どうしても聞いてみたかったことなんだろう。


「息子……、カケルの話を聞いて、変なやつだなぁとか、変な家族だなぁと思いませんでしたか?」

「変な、ですか?」

「気持ち悪いとか、関わりたくない、とか……」

「思いませんよ。必死に病気と闘っているカケルさんと、そんなカケルさんを支えてきたご家族さんなのに、そんなこと思うはずもありません。逆に思っていたら、僕は長年この現場で働いていませんよ」


 力強く、暖かい言葉。冷たくあしらわれることを恐れ、誰にも相談できず、ずっとうちうちだけで抱えて生活をしてきた二人にとって、それはとても希望を持てる言葉であった。母は「ありがとうございます」とお礼を言いながら、再びハンカチで涙を拭った。


「では早速なんですが、今回の入院形態がというものです。これは家族さんの同意があれば、言い方は悪いですが、強制的に入院が可能な方法になります」


 両親は今田の言葉に真剣に耳を傾ける。


「もちろん本人さんの同意で入院することができるというのもありますが、今回はやむおえない状況でしたので、こちらのやり方を新井が判断させて頂きました」


 今田は、先程新井が記入していた紙をぺらっと両親に見せる。


「もちろん病状が落ち着けば、主治医の判断で退院となるのですが、それよりも先にいかなる理由でも退院したいとご家族さんが望まれるのであれば退院させることが可能です。ですが、今回はご家族さんの同意で入院をしているので、もしカケルさんが退院したい、と訴えても退院させることはできません」

「なるほど……。これは、内科とかにはない仕組み、ですよね」

「はい、これは精神科特有の入院形態です」


 今日はカケルの両親にとって、初めてのことばかり。正直、ついていけるか不安であった。


「大丈夫ですか? 分からないことがあれば、その都度聞いてもらって構いませんからね」

「す、すみません」


 今田の優しい配慮。両親は、その言葉だけでもホッと胸を撫で下ろした。


「あ、あの時……」と母はあることを思い出す。

 それは、カケルがエレベーターに乗せられる前、今田が両親に、入院の同意を求めてきたことだった。


「あの時、声を掛けて頂いたのは、入院に必要な、大事な同意を得るためだったんですね」

「はい、そうです」


 今田は続けた。


「先程、新井の話の中にも出てきて、こちらの用紙にも書いてありますが、必要に応じて、をさせて頂く場合があります。カケルさんは実は今その状況なんです。保護室に入って拘束され、鎮静のための点滴を打っています」

「こ、拘束ですか!?」


 さすがに、その単語に両親は驚いて声を上げてしまった。父はがたっと立ち上がり、その拍子で座っていた椅子が音を立て、床に転がった。


「申し訳ございません。ですが、これはカケルさんだけでなく周りの患者さんを守るために、とても大切なことなのです」

「だ、だがしかし、拘束までしなくてもっ」

「カケルさんから、了承は頂きました」

「え?」

「僕が行ったときには、すでに拘束はされた後でしたが、ちゃんと話をしてきました。カケルさんは言っていました。『』と」


 両親は、言葉を失った。母は肩を震わせ、泣いた。

 知ってしまったのだ。カケルが助けを求めていたことを――。それに気づかず、社会から遠ざけ、カケルが本当に言いたかった心の叫びを聞こうともせず、『頭がおかしい』と罵ってしまった自分たちを責め、後悔した。


「ご本人の人権を大事にします。本人さんがになった関わり方をするのは、僕たちの仕事ではない。ご本人の気持ちに寄り添って、一緒に考える。それが我々、相談員の仕事ですから」

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