2.治療開始
「頼むからっ! 離してっ! 本当に、本当に殺されるっ!!」
「カケルさん、大丈夫ですよ!」
「あなたを守るためなんですっ! こっちに来てください!」
大の大人が子供のように泣き叫びながら、男性看護師に羽交い締めにされ、病棟に到着する。これだけ激しく暴れていると、少しでも手を緩めるとカケル本人だけでなく、他の入院患者に大きな被害が出かねない。カケルを抱える看護師たちの間には、かなりの緊張感が走っていた。
他の看護師に誘導されるように、カケルと男性看護師たちは、ナースステーションを抜け、保護室へと向かって行く。
その間にも、暴れ狂うカケルの手足がデスクや器具にあたり、大きな音を立てる。そんな状況に、他の入院患者も、野次馬のようにナースステーションの周りに集まって来た。
「ああああああーっ!! やめろおおおーっ!!」
保護室へと到着したカケルが目にしたのは、何もない小さな個室。畳六畳もないほどの部屋の中に、ベッドとトイレが設置されているだけの簡易的な造りのものであった。
トイレにはドアや壁などの隠してくれるものが存在せず丸見えの状態。そして、このトイレにはトイレットペーパーは備え付けられていない。これは、症状によってはペーパーを大量にトイレに流し、詰まらせてしまう場合があるため。更に言えば、用を足した後に自分で流せる、水洗のレバーなども何もついていない。トイレの中の水も最低限の量しか入っていない。中には、このトイレの水の中に顔を埋め、溺死という形で自殺する者がいるからだ。
また、部屋には突起物が何もない。ハンガーを掛けるようなフックや、ドアの内側もつるんとしていて中からは開けることができない仕組みとなっている。これは要は、引っ掛けられるものを徹底的に排除しているのだ。保護室に入る患者というのはかなり緊迫した具合の悪い患者がほとんど。ハンカチやネクタイ、ズボンの紐などあらゆる物を使って、首を吊ろうとする。それを防ぐためだ。
また、ここの保護室には窓も付いているが、もちろんレバー等は付いていない。スタッフが操作して開ける仕組みとなっている。しかしこの窓、たった三センチほどしか開かない。これもまた、飛び降り自殺を防ぐため。
また、壁や床は硬いコンクリート、ではなく、特別な素材で柔らかいものに仕上がっている。保護室で大暴れしてしまった際に、ケガを最低限に留まるため、そして自ら壁に頭を打ちつける者がいれば、それを柔らかい素材で緩和させるためのものだ。
そのような造りをしている保護室のベッドに、カケルは寝かせられるように押さえつけられた。
ベッドの周りを取り囲む看護師たちに、次々と手足、胴体を拘束されていく。カケルは、精神症状はもちろんのこと、今の状況にとてつもない恐怖感を感じ、震え上がった。自分の中でも精一杯の、ありったけの力を込めて抵抗するも、拘束は全く解ける気配はない。
「俺が何したっていうんだよおぉ! 軍隊に狙われて、殺されかけてるのは俺なのにっ、どうしてこんなことするんだよおっ!!」
カケルにとっては絶体絶命の状態。未だ自分を付け狙うアメリカの軍隊。そして、どこか分からない場所に連れて来られたかと思うと、突然手足を拘束され、身動きの取れない状況。
その時――「カケルさん」と名前を呼ばれる。カケルは、その声のする方へ顔を向けると、白衣を着た今田が立っていた。
「あ……っ。あのっ。た、助け……」
今田の姿に一筋の光が見えたのか、唯一動く手首から上、手のひらを目一杯広げ、助けを乞うカケル。もうその顔は、涙と涎と鼻水でぐちゃぐちゃだった。
今田はベッドの横へ歩くと、カケルの目線まで姿勢を下げる。
「カケルさん。今まで、ひとりで苦しかったですね」
カケルは言葉を失った。
今まで叫んでいたのが、嘘のように、今田の言葉に耳を傾けた。
「ここは病院です。あなたを守るところ。僕たちが――あなたを助けます」
カケルは、泣いた。
先程までの絶望感から来る涙ではない。
これまでずっとひとりぼっちで、得体の知れない恐怖と戦ってきたカケルにとって、その言葉は強く胸に突き刺さった。
初めて会ったこの人に、心の奥を見透かされたような感覚。ほんの少しだけだが、安心していいんだ、とカケルは思い、目を瞑った。
「お……お願い、します……。助けて……」
◆
カケルが男性看護師とともに、病棟へ向かった後、その場には今田が残っていた。
警察官と救急隊員に、感謝の言葉を述べると、次は家族の対応に取り掛かる。家族は呆気にとられたように、ただただエレベーターの方を見て立ち尽くしている。母は息子の変わり果てた姿に涙し、父はそんな妻の肩を抱きながら、開いた口が塞がらない様子だった。
「ご家族さん、でよろしいですか? 医師から話がありますので、いったん、病棟の方へご案内しますね」
今田は、二人に対し、声を掛ける。
父母は「はい……」と小さな声で頷くと、よろめいた足取りで今田の後をついて行く。二人の歩くペースに合わせ、遅すぎず、早すぎないように、今田は家族のペースを乱さないように、先導した。
今田は、一般の患者や家族が使用する、病院の中央にある大きなエレベーターへ案内した。
「これで、三階まで行きますね」
エレベーターに乗り込む三人。何も話はせず、ただ下を向いている家族。今田はそれを見守るように見つめると、手に持っているファイルを持ち直した。
三階へ到着する。
しかし、通常のエレベーターとは違い、二重扉になっている。家族は「?」と不思議そうに扉を見つめていた。
そして扉の向こうから、何やら規則正しい音が聞こえる。――コン コンッ、と。今田は家族に「少し離れて頂いてもいいですか?」と優しく声を掛け、自分の後ろに回ってもらった。
ガチャ、と音を立て、今田が扉の鍵を開錠する。
次の瞬間、ひとりの男性が目の前の今田を無視して、扉の外に出ようとする。
「ダメですよ。こっちは出てはいけない方です。先生に許可もらいましたか?」
今田は患者と思われる人にそう言い聞かせる。カケルの父母は声を失い、今田と患者のやりとりから目を離すことができなかった。
そう、先程の音は、入院患者が扉を“コンコン”とノックする音。そして、扉の鍵が開いた瞬間、外に出ようとしたのだ。
目の焦点がどこを向いているのか分からない患者に対し、笑顔で対応する今田。家族は、彼が何者なのか――その時はまだ、分からなかった。
◆◆
カケルに声を掛けている間、病棟にある診察室で待っていた両親。
診察室の一部はガラス張りになっており、そこから見える光景は、正直、『ここは同じ日本なのか』という世界が広がっていた。
猫背になりながら、ひとりで同じ場所をぐるぐるとずっと徘徊している人。
誰もいない壁に向かって、まるで誰かと一緒に居るかのように会話している人。
ボーっと椅子に座っているかと思えば、何かの拍子に声を出して大笑いしている人。
人なのか物なのか分からないほど、さっきから全く微動だにしない人など。
これらは、ほんの一部の様子。もちろん、『この人、本当に病気なの?』というような“パッと見”では分からない、街ですれ違っても気付かないような人も大勢いた。
そしてここに入院している患者は、みな精神的な病気により、苦しんでいる人々の姿でもあるのだ。
「失礼します」
突然ノックされ、主治医が部屋に入室する。その後に、今田も続くと、家族の座る椅子の後ろに腰かけた。
「はじめまして、主治医の
「改めまして、相談員の今田と申します。今後は僕も担当となりますので、何かありましたら何でもご相談くださいね」
両親は、『担当』という言葉に安心したのか、今回初めて安堵の表情を見せる。そして今田が笑顔で言ってくれた『何でも』という言葉。これを聞き、両親は再度今田に尋ねた。
「な、何でも……相談していいんですか?」
「はい。どんなことでもいいですよ」
何もかも初めての状況に、初めての精神科。不安しかなく、誰に、何を、どう、相談すればいいのか全く分からず、混乱していた。ましてやここは、地域ではかなり偏見の目で見られている精神科病院である。自分たちだって、ここに来る前は『あの病院は……』なんて、近所の人と一緒になって言っていた。ここに入院すれば、一生病院から出してもらえず、刑務所のような生活を強いられるのではないか――そんなことまで考えていた。
ここにこんな人たちがいたなんて。こんなに笑顔で、息子と真剣に向き合ってくれて、変な目を持たず診てくれる人たちがいたなんて――と強く思った。とても心強かった。
「あの、早速ですが、カケルさんのことなんですけれども……」
「ええ。新井先生、どうかされましたか……?」
主治医の言葉に両親は固まった。
両親にとっては、聞き慣れない病名。だが精神科医療では、とてもポピュラーな病気。
「カケルさんは――
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