第1章 カケルのケース【統合失調症】

1.緊急入院

「あああぁぁぁーっ! 離せぇー! 来るっ! あいつらが来るうぅーっ!」


 とある精神科病院に響き渡る、男性の叫び声。何かに怯え、何かから逃げるようにもがき苦しんでいる。


「殺されるっ! 黒服の……っ! 軍隊っ! あいつら、毎晩毎晩俺の部屋を覗きに来て……っ!」


 黒服の軍隊に殺される、という。

 毎晩部屋を覗きに来る軍隊が、今のこの世の中のどこにいるというのだろう。さっきからことを口走っている。


「アメリカの軍隊っ! あああーっ! 聞こえるっ! 『今から殺しに行く』って聞こえるっ! 俺は殺される! 逃げないと! 早くここから逃げないと殺されるっ!!」


“アメリカの軍隊”から逃げようと、泣き叫び、大暴れする男性。壁を殴り、窓を割り、家族をも突き飛ばし、どうにかして安全な場所へ隠れようと必死だ。

 しかし、病院の体格の良い男性看護師数名と付き添って来た警察官に覆い被さられ、取り押さえられる。


 そう、彼カケルは、のだ。

 本気で、アメリカの軍隊が自分を殺しに来ると思っている。しかし、このありえない話こそが、病気の症状そのものなのだ。



 ◆


「今田さん、先程の入院相談のあった患者さん、もうすぐ救急搬送口に到着されるそうです」

「了解しました。すぐに向かいます」


 ここは、とある田舎に位置する、やまざと精神科病院。

 昔からこの場所に長年精神科として運営してきたため、この辺りでは有名な病院である。なぜ有名なのかというと、近所の人の不穏な声――『あそこはの集まる病院だよ』『一度入ったら出てこられないよ』『ちゃんと宿題しないと、あそこに入院させるって母ちゃんに脅されたっけ』。

 偏見も根強く残っているこの地域で、300床を超えるベッドを持ち、地域密着型の病院として対応も良く、役所や地域福祉の方からの評判はとても良い。

 そんなやまざと精神科病院の中にあるひとつの部署、【地域医療連携室】というところに配属されている、今田の声が部署内に響いていた。


 今朝方【地域医療連携室】宛に一本の電話が入った。ここでは初診や入院相談を電話を一括で受けている。それだけでなく外来患者のサポートをする部署でもある。


『息子が、息子が暴れているんです! アメリカとか……変なことも言っていて、大暴れしていて、とても手に負えない!』


 今朝の電話の内容は、母親らしい女性からの電話。相談というよりも、かなり切羽詰まっている状況のようで、もはやSOSに近かった。

 その時電話対応をしたのは、【地域医療連携室】の課長を務める、金本かねもと。精神保健福祉士だ(この病院では、精神保健福祉士のことを“相談員”と呼ぶため、以下は“相談員”に統一することにする)。


「ご家族さんですか? ケガはありませんか? もう少し詳しい状況を聞きたいのですが、今お話しできる状況ですか?」


 辺りの空気は一変した。暴れている患者の入院相談である。

 そんな中、金本は冷静に応対をした。一本の初めましての電話。これだけである程度の状況を把握し、判断しなければならない。そのためのアセスメントが必要だ。本人は誰で、何歳で、どんな人で、いつからこのような症状が出ていてなどの他に、家族構成、その中でもキーパーソンが誰か、誰が病院まで連れて来るのか、果たして今の状態で連れて来れるのか、などここに挙げられないほどの確認事項がある。


 金本は「暴れているなら警察へまず相談し、警察とともにこちらへ来れないか」と提案をする。家族も理解したのか、電話は一旦節電。その後すぐに金本は院長の元へ、入院受け入れの相談をしに向かった。返事はもちろん二つ返事でOK。金本は院長との付き合いも長いため、受け入れてくれるであろうと信じ、警察と一緒に来ることを促していたのだ。


 当日の受け入れのため、すぐにベッドの調整をする必要がある。金本はすぐに(※1)急性期閉鎖病棟へ向かい、病棟担当の看護部長とともに、どのベッドの患者をどう動かすのか確認を取る。暴れているなら(※2)保護室での対応がベスト。ちょうど体調も良くなり、一般室への移動が可能な患者がいたため、うまく保護室を開けることが出来た。


 ベッドの調整も終わり、金本は【地域医療連携室】の今田へ内線を入れる。


『今田さん。これから緊急の入院が入りますので、対応をお願いします。急性期の保護室、調整できたので』

「金本さん、ありがとうございます。情報ありますか?」

『35歳の男性。母親から電話あり、『アメリカ兵に殺される』という暴れているそうです。警察に介入してもらって、同伴するように伝えていますが』

「あ、今ちょうどね、家族から電話が掛かってきたようですね……、うん……、今こっちに向かっているようです」

『了解です。ありがとう』


 そう言うと、金本は内線を切った。急性期閉鎖病棟は、慌ただしく動き出した。ずっとひとりで苦しんでいる患者を受け入れるために。



 ◆◆


「では、僕は患者さんのお迎えに行ってきます」

「はい、今田さん。よろしくお願いします」


【地域医療連携室】はとても忙しい部署だ。ひっきりなしに掛かってくる電話や、患者対応に追われ、とてもバタついている。

 今田もこの入院対応が終われば、他の患者の面談予定が詰まっている。時間との勝負、と言いたいところだが、今回はそうもいかない可能性も高い。


 今田は【地域医療連携室】を出ると、救急搬送口に向かった。そこは、外来患者の正面出入り口とは全く違う方向にあり、救急車、もしくは警察車両で搬入されてそのまま病棟へ向かえるように、エレベーターが設置されている。


 今田はファイルにたくさんの書類を挟み、筆記用具を白衣の胸ポケットへ入れ込んだ状態で駆け足となる。

 ここの相談員は、皆白衣を着ている。そのため、よくドクターと勘違いされてしまう。救急搬送口へ向かう途中も、二、三名の患者とすれ違いざまに「先生っ」と声を掛けられた。「ごめんなさい。先生じゃないよ」と簡単に返答すると、再び走り出す。


 その角を曲がると、目的の救急搬送口だ。


 すると、何やらガヤついた声が聞こえる。どうやら予定よりも早く到着したようだが、かなり様子がおかしい。叫び声も聞こえる。今田は意を決して、角を曲がる。そして目の前の光景に、思わず一瞬立ち尽くしてしまった。


 そこには警察官数名、救急隊員数名、家族らしき人に取り押さえられるひとりの男性。若干ではあるが、顔や体には血がついており、地面に腕を押さえ座り込んでいる年配の女性の姿もあった。

 今田は相談員として働いて十年ほど経つ。やまざと精神科病院で働いて、もうすぐ七年が経過するが、このような状況は、決して少なくはない。しかしやはり、日常ではなかなか遭遇しないこの状況は、かなり緊迫したものだった。


「やめろおぉーっ! 頼むっ! 頼むから離してくれっ! 殺されるっ! 殺されるからあぁっ!!」


 かなり声がかすれている。よっぽど叫び続けていたのだろう。その表情は、滝のように冷や汗を流し、真っ青になりながら何かに怯える表情だった。


 すると、エレベーターから更に数名の男性看護師が降りてくる。「大丈夫だから!」「安心して!」と各々本人に声を掛ける。

 しかし男性は「ああああーっ!!」ともはや絶叫に近い叫び声を上げながら、それらの腕を振り切ろうと、更に自らの腕を振り回す。「聞こえるっ!」「見られてるっ!」「こっちにくる!」など、理解しがたい言葉を連呼している。

 その時、主治医が駆けつけて来た。さすがのこの状況に、少々驚いているようにも見える。


「これは、急性的にしているね。すぐに治療を開始しよう」

「やめてっ! 助けてっ! 軍隊が! アメリカの! 声が聞こえるっ! いやだあぁ! 殺さないでええっ!!」

「殺さない。治すんだ、君を。アメリカの軍なんてどこにもいないよ。大丈夫。大丈夫だから」


 今田は家族の元へすかさず走っていく。本人はもちろんだが、家族は混乱していた。おそらく本人に突き飛ばされたのであろう、母親らしき人が声に出して泣いている。それを父親が肩を抱き、慰めているところだった。


「ご家族さんでよろしいですか?相談員の今田と申します。息子さん、これから入院治療となりますが、よろしいでしょうか」

「……はい。む、息子をよろしく……、よろしくお願いします」


 家族の同意が取れたところで、男性看護士たちに強制的にエレベーターへ乗せられる本人。エレベーターが閉じても本人の叫び声が、しばらく響き渡り、消えることはなかった。


 こうして、本人――カケルは、急性期閉鎖病棟へ入院することになった。





【用語】

(※1)急性期閉鎖病棟とは、急性的に症状が出た患者が入院する病棟で、病棟全体に鍵がかかっている。外出は主治医の許可なくすることは出来ない。閉じ込める目的ではなく、あくまで本人や周りの身を守るためのもの。


(※2)保護室、もしくは隔離室とも呼ばれる。要は自傷他害、自傷行為や暴力・破壊行為が著しい場合に、一時的にその部屋へ入ってもらい、本人の状態に応じて拘束を行う。

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