空が眩しい

夏村響

第1話

 いつも施錠されている屋上の扉が開いていた。


 今はお昼休み。他の生徒たちは気の合う友達同士で楽しくお弁当を広げている頃。そんな時に薄暗い階段の奥にある屋上の扉の前で、一人きりで立ち尽くしている私は、言うまでもなく教室に居場所のないはみ出し者だ。


 重たい扉を押し開き、そろりと屋上のコンクリートの床に足を下ろした。鍵が掛かっていないのだから誰かいるはずだ。先生か、もしかしたら清掃の人? そう思いながら辺りを見回すと、一人の少年と目が合った。

「やあ」

 と、先客である彼は片手を上げて気さくに挨拶をする。


 胸の学年章を見ると緑。

 三年生の先輩だ。条件反射で頭を下げようとする私に、彼はそんなものはいらないと上げた手を忙しく横に振った。

「君も死にに来たの?」

 一瞬、何を言われたのか判らなかった。黙っていると先輩は続けて言った。

「せっかく来たんだ。僕と心中していかない?」


 心の隅でうなずく自分がいた。けれど、実際は首を横に振っていた。

「そんな価値、私にはありませんから」

「価値?」

 ふっと口元だけで先輩は笑った。

「死ぬことに、価値なんかあるものか」

 そうして、視線を上に向ける。つられて私も空を見る。雲ひとつない鮮やかな青だ。


「死は等しく万人に訪れる。死は死。それ以上でも以下でもない。死に意味なんか求めるもんじゃない」

「死んでしまえば、それまでってことですか」

「何だ、判っているじゃない」

 彼はまた視線を私に戻すと微笑む。

「死は人をただの『モノ』に返してくれる。ただのモノに意味や価値を求めるな。なんてね」

「……求められないなら……楽でいいですね。現実逃避も甚だしいけど」

 ぼんやりと言った私の言葉に、先輩はハッとする。それから不意に笑い出した。

「いいね、君。核をつく」

「あ、すみません。自分のことを言ったんです」

「いいさ」

 小さく吐いた息をまとわせたままの唇で、彼は言葉を継いだ。

「僕はね、ここにたどり着くのに血の滲むような努力をしたんだよ」

「……努力?」

 先輩はポケットから鍵を一つ取り出すと、大切そうに掲げる。

「屋上の鍵。手に入れるのに、もう少しで悪魔に魂を売り飛ばすところだった」

「悪魔に、ですか」

 思わず、笑うと、先輩もつられるように笑ってくれた。

「なのにさ、世界はずるいよ。死を覚悟した人間の前に、こんなに美しいものを展開させてくるんだから」


 先輩は空を見上げる。

「こんなに美しいと錯覚してしまいそうになる」

「何を錯覚するのですか?」

「この世界は美しい、と、だよ」

 なんとなく納得して頷いていると、不意に、先輩はフェンスに歩み寄って行った。緑色の古ぼけたフェンス。三メートルぐらいの高さはあるだろうか。それがこちらとあちらの世界を分かつ境界線だ。


「先輩?」

 不安になって声を掛けると、いきなり彼はフェンスに背中からもたれた。全体重をかけてのそれに、古いフェンスは大きく軋むと、ゆるりとたわむ。そうして斜めに傾いだ空を、彼はみつめ続けていた。

 私は彼にそっと近づくと、その隣で同じようにフェンスに体を預けてみた。フェンスはさらに軋み、たわむ。もしこのままフェンスが壊れたら、私たちは真っ逆さまにあちらの世界に落ちてゆくのだろう。そんな危うさに、私は少し陶酔した。


「眩しいな」

 先輩は眇めていた目を、静かに閉じた。

 私は先輩の、そんな横顔を盗み見る。

 細い線で描かれたそれは、繊細で儚げで、同時に神々しくもあった。私も慌てて、目を閉じる。


 ああ、本当、眩しいや。

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空が眩しい 夏村響 @nh3987y6

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