第5章 未来を変える
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「つまり、西暦二〇四〇年に暮らすジョージ、時任航に会うため、十年経っても、あなたはタイムマシンの開発に精を出している。そういう理解でよろしいのですか?」
「はい。馬鹿みたいでしょう?」
「そうですね」
いくらかは謙遜のつもりで言ったのに、雑誌記者は冷淡に言い切った。黒い硝子玉のような瞳が、いい歳をして夢から覚めない痛々しい女を見下している。
「でも、表向きは、地に足の着いた平凡な研究をしています。タイムマシンはその合間を縫って開発中です。タイムマシンだけですと、指導教授も見つかりませんし、研究費も下りませんから」
「そりゃそうでしょう。あの、百歩譲って、女学生時代のあなたが時任を未来人ジョージだと信じてしまったのは仕方のないことだとしましょう。女学生なんて、まだまだ子供ですし、夢見がちな生き物ですから。けれども、成人済みの物理学者の卵がまだそんな妄想に囚われているのは何故です?」
何故って、さっきまでの思い出話で散々話したのに。雑誌の取材だったはずが、私を論破することに重きを置き始めた男の態度に立腹しながらも、私は滔々と説明した。
「ですから、ジョージの予言の一部は、講師の地位を利用したり、時任先生自身の科学的知識を使えば、実現可能なものでした。しかし、焼却炉の爆発や憲兵の摘発は一般の女学校講師が予言できる範囲を超えたものです。それこそ、未来人でもない限り、予期できません。そして、二人は、使っている香水、年の頃や、知的で物腰の柔らかい人柄は共通しています。また、時任先生は、やけに私の動向に詳しく、ジョージとのやりとりが停滞した時や、任務の実行が難しくなった時は、それとなく助け船を出してくれていました。極め付けは、二人は同時期に学園を去った。一つ一つの根拠は薄いかもしれませんが、これだけ条件が揃っているなんて、もはや偶然ではないです。ジョージという未来人の正体が時任先生だったと認定するに不足はありません」
成長するにつれ、時任先生=未来人ジョージ説を一度も疑わなかった訳ではない。だけども、論理的に考えれば考える程、この説は確証を得られるものだった。
だが、記者は私の説明を、冷めた顔で聞き流し、間髪入れずに反論した。
「時任航がジョージの正体だったという説には、僕も賛同します。けれども、時任が未来人だったという説は、全力で否定します」
「それは、どうしてですか?」
科学的に考えてあり得ない程度の根拠で話しているなら、『現代の科学で証明できない事象を全て否定してしまうのは、現実主義でも何でもない。ただ頭が固いってだけだ』といういつかの時任先生の名言を引用し、対抗するつもりでいた。
けれども、オカルト記者の論拠はもっと、ずっと現実的で理論だったものだった。
「僕が出征後の時任に会ったことがあるからです。僕は、戦時中は最初は関東軍にいて、その後南方に異動になり、こんな体になってしまいました。時任とは、関東軍時代に、同じ部隊にいて、そこそこ親しくしていました。終戦直前のソ連侵攻まで、僕たちのいた部隊は、激しい戦闘に巻き込まれることもなく、平和な時間を過ごしていたので、よく暇つぶしに彼から女学校教師時代の話を聞かされました。あなたとの話を含めてね」
「時任先生が出征していた……。そんな、嘘でしょう」
「嘘ではありません。何なら写真もありますけど、見ますか」
そう言うと、記者は鞄の中から一枚の写真を取り出した。いつも持ち歩いているのか、角が丸く欠け、皺を伸ばした形跡のある写真には、二人の軍服・軍帽姿の兵士が並んで写っていた。背景はどこかのビルヂングの玄関前に見えた。公式の場で撮影された写真ではないらしく、一人は、斜に構えた気障な立ち方で、恐ろしく整った顔に微笑を湛えていた。若き日の雑誌記者に間違いなかった。その隣で、格好つけの戦友に困っているように眉尻を下げながらも、柔らかに微笑んでいる兵士は時任先生だった。
自分の顔色が急速に青ざめていくのを感じた。この十年、気にもかけていなかった先生の消息が心配になり、いても立ってもいられなくなる。
そんな私の変化をよそに、記者は淡々と続けた。
「あなたの通っていた女学校は、元々ミッションスクールでしたし、外国人の教師も複数人在席し、進歩的な考え方の教員が多かったようですね。戦時中には、取締りの対象になるような」
だからこそ、母校は一時的に、生き残りのためにキリスト教を完全に捨て、外国人教師も全員母国に帰した。教師陣が反戦的、自由主義的な主張を表だってすることもなかった。しかし、当時の国体を学校側が酷く懸念している雰囲気は、子供ながらに感じていた。時任先生が出征した時も、先生たちは誰一人として、白々しく万歳三唱するように促さなかった。ただ静かに、何かに耐えるように歯を食いしばり、前途ある青年教師を戦地に送り出した。
だが、その話が時任先生が未来人ではないことと、一体何の関係があるのだろう。
「確かにうちの学校は変わっていましたが、誰かが憲兵や特高の取締りに遭うようなことはなかったと聞きます。沈黙し、息を潜め、苦難の時代を乗り切ったと昨年の同窓会でも先生方は話していました」
「実際に派手な捕り物がなかったから、全く目を付けられていなかったとは言えませんよ。というか、時任とあなたの暗躍がなかったら、派手な捕り物が起きていた可能性が非常に高かったと、僕は時任本人から聞きました」
時任先生と私の暗躍? 一体どういうことだ。
「僕も本人から、大分情報をぼかして聞かされたので、はっきりとしたことは分かりませんが、『彼』は『時任航』という偽名を使い、反体制勢力の巣窟と疑いをかけられたとある女学校に潜入していたのです。出征前、彼は研究者の傍ら、陸軍のスパイ任務に従事していたそうです。あなたの学校の教師陣は、考え方も当時としては反体制的でしたし、母国に帰した外国人教師と裏で繋がり、スパイ行為を行っているというタレこみがあったとか。そこで、調査のため、時任が潜入し、協力者としてあなたを見出した。いくら教師とはいえ、成人男性より、何も知らない無垢な女学生にやらせた方が疑われないことが沢山ありますからね。あなたがやらされた意味不明な任務は、教師たちの秘密の連絡手段を試してみたり、攪乱する目的があったと考えられます。最後の任務で、あなたに職員室でひと悶着を起こさせてまでして、屋上を使わせたのも、大方、夜の学校を集合場所にした反社会的な計画を阻止するためだったのではないか、と思います。結果的に、大捕り物になる前に、不穏な動きを見せていた教師陣の尻尾を掴み、話し合いの末に、情報提供者として配下に置けたのは、自分の功績だと自慢され、反応に困ったものです」
記者は訥々と口の端に酷薄な微笑さえ浮かべながら話した。予想だにしなかった話の連続に、私の頭はついていくのがやっとで、膝の上に置いた手は、知らぬ間に小刻みに震えていた。
「先生は……どうしてスパイなんてしていたのですか? それに、私は利用されていたということですよね? そんなの信じられません。先生がそんなことをするなんて……」
「どうしてスパイをしていたのかは、僕も知りません。ただ、時任はあなたを利用しました。自分を未来人だと信じ込ませ、未来人として、あなたの前から姿を消すところまで、全てが彼の書いた筋書です。後腐れなく、あなたと別れるための。先生がそんなことするはずないと思われるということは、それだけ彼が完璧に好青年を演じていたという証拠なのでしょうね」
「……焼却炉の爆発とか、からくりが証明できない予言は、どう説明するのですか? 事故があった時、先生は教室で授業をしていました」
「あくまで予想ですが、焼却炉は他のスパイ仲間に工作を手伝って貰ったのでしょう。憲兵のガサ入れ情報なんていうものは、特務の仕事をしているなら、事前に知っていてもおかしくないことですし、そもそもあなたの信用を得るために行った大掛かりな茶番の可能性もある。時任航は未来人でもない、現代人のスパイだったというのが全てのオチです」
飲み込めない。頭では記者の話を理解できるのに、心が受け付けない。でも、受け入れられないなりに、確かめておかなければならないことがあった。
「あの、どうしてあなたは、私にそんなことを話にわざわざこんなところまでいらしたのですか? 雑誌の取材、ではないですよね」
「いいえ、一番の目的は取材です。タイムマシンを本気で作ろうとしている奇特な女性研究者に、オカルト雑誌の記者として、是非ともお話を伺いたかったので。時任の話は、余談です。昔の戦友から『タイムマシンを本気で作ろうとしている女の子がいる』と聞かされていたので、まさか、と運命じみたものを感じなかったと言うのは嘘になりますが」
大した意図はありませんよ、とオカルト記者はにこやかに笑いとばした。けれども、彼の言葉を額面通りには受け取れなかった。しないでいられるなら、きっとずっと幸せなままでいられる問いを投げる。
「時任先生は……今、どうしていらっしゃるのですか?」
聞かなくても、答えなんて分かっていた。真実が分かった今、先生の戦友だというこの男が一人で現れたことからも、大体のことは察しられる。先生が、同窓会に一度も顔を出さないどころか、話題にすら上らなかったことからだって、分かり切っている。
抑揚の少ない、意図的に感情を排した口ぶりでオカルト記者は答えた。
「時任は、僕が南方に転属になる直前に死にました」
「そう……ですか」
分かり切っていたのに、頭を思いきり殴られたような衝撃に目の前が真っ暗になった。先生はもうとっくにこの世にいない。例えタイムマシンに乗り、未来に行ったって会えない。
「白血病だったそうです。戦死や事故死だったら、タイムマシンを使えば、防げるかもしれませんが、こればかりはどうしようもないですよね。不治の病だ」
記者は、私の考えそうなことを先回りして潰した。事実、私は働かない頭を必死に動かし、もし先生の死因が戦死や事故死なら、タイムマシンの行き先を未来から過去に変えれば良いと算段しかけていた。
俯いて、黙りこくってしまった私に、記者は子供に言い聞かせるように告げた。
「櫻内さん。あなたは優秀な女性です。戦後の物理学会を背負う人材にだってなり得る。それに、あなたはまだ若い。女性としての幸せも手に入れるべきだ。記者から取材対象者に対してと言うよりは、人生の先輩としてあなたに言いたい。もう過去の幻想に囚われ、無意味なことに心血を注ぐのはやめなさい。時任が言ったように、今を全力で生き、未来を切り開くんだ。あなたには、十分にその力があるでしょう」
気付けば、胸元に下がるセルロイドの花を指で無心になぞっていた。ジョージからの、否、時任先生からの贈り物。明るい黄色の筒状花を、紫の可憐な舌状花が囲む構造は、エゾギクをモチーフとしていると後に知った。
「……この花、エゾギクがモチーフのようなんです」
ペンダントヘッドをつまみ上げ、記者に見えるようにした。
「花言葉は、『変化』、『追憶』、『同感』、『信じる恋』。何とも意味深というか、皮肉ですね。彼がそこまで考えて選んだのかは、今ではもう分かりませんが」
突然の話題転換にも動じず、彼はすらすらと空で花言葉を上げ、苦笑いをした。今はみすぼらしい服装をしているが、元はそれなりの家で高等教育を受けた人物なのだろう。
「特に紫のエゾギクの花言葉は『私の愛はあなたの愛より深い』らしいです。まるで私と時任先生の関係そのものですね。私の重すぎる片思いに対し、先生はあくまで任務上、必要な駒にすべく、私に接近していた」
認めたくはないが、それが真実だったのだろう。だが、『でもね』と私は言葉を続ける。
「紫のエゾギクには、実はもう一つ花言葉があるそうなんです。『恋の勝利』という。記者さん、人生の先輩として、時任先生の戦友として、私の行く先を案じてくれるお気持ちは、ありがたく受け取ります。けど、私はタイムマシンの開発を諦めません。未来で会えないなら、別の会える時代に行けばいい。先生が死んでしまうなら、そうならない未来を作り直せばいい。先生は、過去や未来に行き、運命を変えることには消極的だったけど、やっぱり私は諦められない。今を懸命に生き、タイムマシンを作って、運命をゴリ押しで切り開いて見せます。スカーレット・オハラのように」
当初の目的とは多少ずれてしまうし、やらなければならないことも増えるけど、まずタイムマシンを完成させる必要があることには変わりない。
「櫻内さん、時任は病死だったと言いましたよね。仮に過去に戻ったところで、彼を助けられはしませんよ」
勿論聞いていた。しかし、それが何だと言うのだろう。戦中戦後の混乱を経、私も大分図太くなった。超えなければならないハードルが一つ二つ増えようと、どうということはない。超える、若しくはなぎ倒すだけだ。
「ようは、白血病が不治の病ではなくなった未来に行き、そこから治療薬とかを調達して、過去に戻ればいいのでしょう? 或いは、先生を一緒に未来に連れて行き、治療を受けさせるのも良いかもしれません。予定より、大分手間はかかりますが、何とかなるでしょう」
私の新たな目標に、記者は深く深く嘆息し、右手で額を押さえた。手の付けようがない馬鹿者を前に、ほとほと匙を投げたくなったのだろう。
「あなた、本当に人の話は聞きませんし、自分の思うままに生きていますね。女学生時代に友人がいなかったのも頷ける。いいですか。このことは言わないままにしておこうと思っていましたが、あなたがあまりにも物わかりが悪いので、はっきり申し上げましょう。時任は、あなたを騙したことについて、何の罪悪感も抱いていませんでしたよ。さすがに、『タイムマシンを作って、未来のあなたに会いに行く』と息巻かれたのは予想外だったようですが、所詮子供の戯言。すぐに忘れて、まともな奥さんなり職業婦人にでもなるだろうと高を括っていた。あいつは、あなたの人生の大事な時間を浪費してまでして固執するような男ではありません」
「そうですか。悪い男だったのですね、先生は。その辺りも、再会した時に、きっちり話をしたいです。私ももう子供ではありません。大人の女として、存分に追及します」
別の言語を話す外国人並に話の通じない女の相手にうんざりしたのか、記者の人形のように秀麗な容貌に疲労の色が表れ始めた。
「……僕は忠告しましたからね。これ以上、大事な時間を無駄使いするのはやめるようにと」
「はい。肝に銘じておきます」
「聞き入れるつもりなんて毛頭ないくせに」
仰るとおりだったが、口だけでは否定しておいた。
その後、前に雑誌に書いたことのおさらいのような形だけの取材を終えると、記者は左足を引きずりながら、帰途に就いた。
帰り際、ドアの向こうに消えようとする背中に向かい、私は思いつくままに話しかけた。
「私、タイムマシンの研究のために、オカルト系の雑誌はカストリを含め、全て目を通すようにしているのです。手に入れるのに苦労する雑誌も多いですし、出版社もしょっちゅう潰れては、社名を変えて再出発したりで、追いかけるのはかなり大変なのですが。でも、そのおかげで、出版社の社名や雑誌名にはかなり詳しいのです。社名と雑誌名を聞けば、どちらかには思い当たるくらいには。けれども、記者さんの会社も雑誌名も、どちらも聞いたことがないものでした。おまけに、名刺に書いてあった住所近辺に事務所のある会社も知りません。それに、聞いたことがあるのです。スパイは、例え気心の知れた戦友であろうと、部外者にぺらぺらと過去の任務を語ったりはしない。秘密は墓場まで持って行くと。あと、スパイは身分を隠し、様々な職業の人物に成りすまして任務を行いますが、特に『記者』に成りすますことが多いとも」
くたびれたジャケットを着た肩が微かに動いた。自称オカルト雑誌記者は、歩みを止めて立ち止まり、顔だけ振り返った。時任先生も時折見せた、感情が読み取れぬ、硝子玉のような瞳が私を捉える。
「あなたが知らないだけです。うちの会社は、社名を変え、事務所も移転させ、心機一転したばかりなんですよ。なんせ『三号で潰れるカストリ』ですから。それから僕個人に、妙な疑いをかけられるのは迷惑です。僕にも家庭があります。こんな体ですが、せめて残りの人生は家族と穏やかに暮らしたいのです」
では、失礼しますと会釈し、今度こそ男はゆっくりと傾ぐような歩き方で、去って行った。
結構な時間を取材に割いたのに、その後、肝心の出来上がった雑誌が私の元に届くことはなかった。大分探したが、本屋の店頭に並ぶこともなかった。多分、カストリ雑誌だけに、編集途中で廃刊になったか、没になったのだろう。そういうことにしておこう。
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