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したり顔の時任先生が、理科準備室から運んできたのは、それこそお釜みたいな大きさと形の黒い金属の塊だった。蓋や横の部分には、細かい穴がブツブツと不規則に空いている。
「大学時代に暇つぶしで作ったんだ。星の位置を動かしたりはできないけど、意外とそれっぽく映るものだよ」
はんだを使って繋ぎ合わされた跡が、何とも手作り感濃厚な謎の物体を、先生は理科室中央の机の上に置き、大事そうに撫でた。
「映る? 星空?」
この奇怪な物体を使い、何をしようとしているのか、てんで分からず、鸚鵡返しをした。
「そう。今からこいつを使って、この部屋の天井に星空を映し出す。櫻内さんは見たことない? プラネタリウム」
「あ、知ってます。見たことはないけど、有楽町にある!」
手ごたえのある反応を得られた先生は満足そうに頷いた。
三年くらい前、大阪の科学館に、日本で初めてドイツ製のプラネタリウムが設置され、その少し後、東京にも同じ型のものが設置されたと話題になった。時間や天候に左右されず、満天の星空を仰げるということで、有楽町にある天文館は大賑わいだと聞いた。私も興味がなかった訳ではないが、人の多い繁華街は苦手だとか、子供だけでは行ってはいけないと言われるのではないかとあれこれ考えているうちに、時期を逸し、そのままになっていた。
「そうそう。まあ、あそこのものに比べれば、おもちゃみたいなものだけど。一応、ちょうど今時分の帝都の星空を元に作っているから、あとは気持ちで補ってくださいな」
カーテンを閉め、部屋全体を巨大な暗室にする準備を整えると、先生はお手製プラネタリウムの蓋を外し、中の装置をいじった。すると、外側に空いた穴から微かな光が漏れた。元通り蓋を被せると、天井にうっすらと光の粒が投影されているのが見えた。
「さて、これで電気を消せば、そこそこ綺麗に映るよ。僕は準備室にいて、時間になったら戻るから、外にいるつもりで堪能してみて。はい、懐中電灯」
「あ、あの、待ってください」
実験器具を収めた戸棚の上に置いてある懐中電灯を手渡し、出て行こうとした先生を、呼び止めた。
振り返り、首を傾げる先生に、精一杯の勇気を振り絞り、お願いした。
「せ、先生も一緒に見ませんか? プ、プラネタリウム。いや、一緒に見てくれませんか」
「どれか分かる星座はあった?」
「えっと、あれがオリオンで、あれがカシオペア、ですよね。他は……すみません」
「正解。ちなみに、オリオンの左上端にあるのがベテルギウス、そのまま真っ直ぐ左に進んだところにあるのがこいぬ座のプロキオン、ベテルギウスとプロキオンの中間地点から真っ直ぐ下に行ったあたりにあるのがシリウスで、この三つで冬の大三角なんだけど、分かりづらいよね。光の強弱がつけられないから、一番明るいはずのシリウスの輝きも表現できていないし」
「いえ、分かります。綺麗です」
「いいよ、別に無理しなくて」
「む、無理してません」
クスクスと先生の忍び笑いが、すぐ近くで聞こえ、私は耳まで紅潮した。部屋が暗くて助かった。
プラネタリウムを設置した机の隣にある実験台の上に、私と時任先生は並んで寝そべり、人工の星空を眺めていた。
実験台は、生徒四、五人で使うことを想定しているので、大人二人が並んで仰向けに寝る余裕があった。活け造りの魚のように、男女が並んで実験台の上に仰向けになっている絵面は、中々シュールであっただろう。余裕があるとはいえ、少しでも身動きを取れば、触れられる距離に、時任先生が寝転んでいる状況に、初心な私の心臓は爆発寸前だった。
「櫻内さんはさ、どうしてジョージが未来人だと思ったの?」
教えて貰った星座をなぞっていると、時任先生が話しかけてきた。
「予言が当たったんです」
「予言?」
「ええ。少し前にあった焼却炉の爆発事故とか、抜き打ちテストの有無とか、明日の天気とか。あと、近所の学生寮に憲兵が押し入った事件も」
「ふーん」
てっきり、『それは凄いね』と食いついてくるかと思ったが、実につれない相槌だった。
「信じられませんか?」
恐る恐る尋ねると、先生は曖昧な返事をした。
「いや、過去の予言が当たったからくりは僕には分からないけど、単純に、未来人のくせに今日の大雨を当てられなかったのは何でだろうって思ったから。だって、以前に天気を当てたこともあるのだろう?」
言われてみればそのとおりだった。なんて私は迂闊だったのだろう。開いた口が塞がらなかった。
「やっぱり、未来人なんている訳ないですよね」
あまりの自分の馬鹿さ加減に、自嘲が漏れる。だが、先生は問いかけには答えず、別の推理を展開した。
「もしかして、ジョージの目的は天体観測でもなければ、屋上で何かをすることでもない。今夜、午後九時前後に屋上を誰かが使っている状態にすることだったのかもしれないね。何のためかは分からないけど、未来人には未来人の理屈があるのだろう」
「未来人の話、信じてくれるのですか⁈」
意外にも未来人の存在を否定しない口ぶりに、上擦った声が出てしまった。
「信じるも何も、判断材料が不足しているから何も言えないってだけだよ。現代の科学で証明できない事象を全て否定してしまうのは、現実主義でも何でもない。ただ頭が固いってだけだ。むしろ、既存の常識を信奉し過ぎているという点では、夢想家と言って良いのかもしれない」
哲学じみていて、分かるような分からないような、難しい話だった。
「でも、タイムマシンには、知的好奇心がそそられるよね。一体どんな仕組みなんだろう」
楽しげな声が隣から聞こえた。少年のように溌剌と目を輝かせて話している様子が目に浮かび、私も楽しい気分になる。
「もし、タイムマシンがあったら、先生は過去に行きたいですか? それとも未来?」
因みに、私は過去だ。去年の夏に戻り、大事な友達を失わないよう、当時の馬鹿でいじっぱりな私に忠告してやりたい。
先生はきっぱりと言い切った。
「僕はどちらも行かないな。生きていれば、あの時に時間を巻き戻したいとか、自分の行く先が不安になって、十年後どうなっているのか知りたいと思うことはあるけど、本当にそうしたいかと言うと、僕は違う」
暗闇の中、身じろぎをする気配がした。先生の寝ている方向を見ると、薄明りの中、学園の王子様がこちらに顔を向けていた。薄明りの中、こげ茶色の瞳に真っ直ぐ見つめられ、鼓動がひときわ大きく波打つ。
「人間はさ、やり直しなんてできないから、明日のことすら分からないからこそ、懸命に今を駆け抜けられるんじゃないかな。後悔しないように、満足のいく未来を作れるように、今を全力で生きる。それって、当たり前のようで、難しいことだし、尊いことだと思うんだ。だから、僕は特に時間旅行をする必要性を感じないんだ」
「……」
全くの正論だった。やり直せないから、先のことなんて分からないからこそ、人は今日を大事にできる。そのとおりだ。でも、何だろう。この胸のわだかまりは。何と相槌を打つべきなのか分からず、私は黙り込んだ。
「まだ、生徒には伝えていないのだけど、赤紙が来たんだ」
静かな、既に覚悟を決めたような乾いた口調で、時任先生は告白した。突然のことに、私は凍り付いた。
「入営まで、若干の時間はあるけど、如何せん僕の本籍地は関西でね。身辺整理もしなきゃいけないし、近々、長期休暇を貰った後、学校を辞めることにした。籍が残っていると、代用の先生を雇ったり、色々学校側にも迷惑がかかるしね。僕は理系だし、あまり体が強くないから、まさか今更召集されるとは思っていなかったよ。教師として、やっとやりがいが見つかったのに、想定外で参ったよ。せめて今年度が終わるまで待って欲しかった」
「……」
「びっくりさせちゃってごめん。でも、いずれ分かることだから。友達には学校から言われるまで、黙っていて貰えるかな」
「……はい」
私が屋上の使用許可を取りに行った時、教頭が時任先生の真摯な演説を聞き、つらそうな表情を見せた理由が、遅ればせながら分かった。
将来有望な若手教師が、志半ば、白墨を銃に持ち替え、お国の為に命を散らさなければならない非情な運命を、彼は嘆いていたのだ。きっと、あの時、時任先生は教頭に辞職の申し出をしていた。昨今は、昔のようにお金や権力にものを言わせ、徴兵逃れをすることなんて出来ない時世になっている。女学校の一管理職でしかない教頭が、時任先生の召集を防ぐなんてできない。抗おうにも抗えない、自分の無力さに苛立っていたから、いつもに増して機嫌が悪かったのだ。
しかし私は、最初こそ、どきりとしたし、先生が学校を辞めてしまうのは寂しいと感じたが、不思議と悲しくはなかった。そんな私の気持ちを先生は見透かしていた。
「櫻内さんは、あまり動じないみたいだね。話す人、話す人、みんなが悲痛な気持ちを隠した妙な作り笑いで励ましてくるから、気が滅入っていたんだけど、君の反応にはむしろ安心するよ。今は虚弱気味ではあるけど、五体満足で、あと何十年も生きられる自信があるのに、まるで末期の結核患者みたいな扱いをされるのは、ほとほと疲れたよ」
私もついさっきまでだったら、みんなと同じ反応をしただろう。全員が全員死んでしまう訳ではないけど、兵隊に行った人が生きて帰ってくることなんて、考えてはいけない。
お国の為に戦い、死ぬことは名誉なことだし、靖国に行けばいつだって会えるようになる。だから悲しむのではなく、万歳三唱で送り出すべき、というのが、当時の建前だった。いわば綺麗ごとだ。
本当はみんな、身近な人が死んでしまうことは、どんな理由であろうと悲しいし、自分が死ぬのは怖い。どんなに名誉なことだろうと、すばらしい戦果を上げようと、時任先生が死んでしまうなんて嫌だ。
でも現状、私は悲しくない。だって、先生は死なないし、戦争になんか行かないから。
「先生、いい香りがしますよね。ラベンダーの香水ですか?」
全く脈絡のない発言に、先生は戸惑ったようだった。
「そうだけど……」
それがどうした、もっとずっと大事な話をしていたのに、と言いたげな、不満そうな響きの声だった。
「この香り、どこかで嗅いだことがあるって、前から思っていたのですが、今漸く、こうやって先生の傍に寝転んで気づきました。ジョージの手紙からほんのりしていた香りと同じなんです」
「へえ、それはとんだ偶然だね」
わざとらしく平静を装った返答だった。
「偶然、偶然なんでしょうか。ジョージの予言、全てのからくりが分かった訳ではないですけど、実は、いくつかは先生の仕業なのかなって思っていたものがあるんです。主に、テスト予想とか、学校がらみのものですけど。あと、精度抜群の天気予報も。それに、先生は担任でもないのに、教室で目立たない存在の私の動向にやたらと詳しかった。ジョージも、どこから見ているのかは分からないですが、妙に校内の施設や私の動向に詳しかったのです」
「えっと、櫻内さん?」
当惑を含んだ声色で遮られたが、無視して、私は自分の推理を披露した。
「私は、からくりの分からない予言のせいで、ずっとジョージの正体を見抜けずにいました。けど、からくりなんて分からなくて良かったんです。だって、本当に未来人の予言だったのだから、そもそもからくりなんてないのですもの。時任先生、先生が未来人ジョージだったのですよね? もしかして、二人は同じ人なんじゃないかって、ここ最近ずっとそんな気がしていたのです」
「……その質問には、答えられない」
沈黙の後発せられたのは、肯定も否定もしない黙秘。何も答えていないようで、答えているようなものだった。
「赤紙が来たと言うのも、この時代から去るための方便ですよね。先生は死んだりなんかしない。戻ってはこないかもしれないけど、この先何十年も元気に生き続ける。未来で」
だから、心配なんてしていません、と私は笑った。
「……そうか、そう考えたか」
感慨深げに先生は独りごちたが、やがて、むくりと起き上がり、実験台の上に座ったまま、偽物の星空を見上げた。
「こうもはっきり死なないと言って貰えると、本当にそんな気がしてくるから不思議だ。ありがとう」
プラネタリウムが発する光に照らされた優しげな顔立ちは神々しく、晴れやかなものだった。
「いいえ。……先生。私、卒業したら大学に行きます。それで物理学者になって、いつかタイムマシンを作って、ジョージに、先生に会いに行きます」
突拍子のない夢に、先生のたれ目が大きく見開かれた。
「将来のことはまだ決めてないのじゃなかったのか」
「はい、さっきまでは。でも、今決めました。物理学者になって、タイムマシンを作って、ジョージに会いに行く。会って、ちゃんと好きだと伝える。それが私の夢です。だから、その時まで待っていてください」
世話の焼ける子供を相手している時のような呆れ顔で、でもとても優しい声で先生は言った。
「君は、やっぱりスカーレット・オハラに似ている。人の話なんて聞かず、運命や物理法則なんて無視し、自分の進みたい道を切り開く馬力と根性。正にそのものだ」
それから程なく、時任先生は予告どおり、長期休暇を取得した後、故郷の関西地方某県から出征して行った。先生が東京を去る日、何人かの有志は、東京駅に見送りに行ったようだが、私は行かなかった。元より茶番だと分かっていたから、行く気になれなかったし、何より、いずれまた会えると信じていたからだ。
先生が学校に来なくなり、ジョージからの手紙もぴたりとやんだ。あの夜の翌日、最後の任務が無事終了し、これから未来に帰るという一方的な別れの手紙が挟まっていたのが最後だった。
翌年の十二月、日本は真珠湾に奇襲攻撃をかけ、太平洋戦争が始まった。戦地は中国大陸だけでなく、東南アジアにマリアナ諸島と拡大の一途を見せた。出征した時任先生の近況については、一切情報がなく、案じている生徒もいたが、真実は未来に帰っただけなので、私は特に不安にはならなかった。
日本軍の快進撃に、銃後に暮らす国民の機運もいよいよ高揚している時期に、私は女学校を卒業し、大学の理学部物理学科に進学した。
しかし、次第に戦況は悪化していき、文系の男子大学生の徴兵免除が解かれ、私たち女子大生や理系の男子学生も勤労動員等で授業どころではなくなった。
物資や食料の不足もいよいよ深刻になり、グーグーと鳴る腹を押さえながら、灯火管制のおかげで暗い部屋の中、疲れた体に鞭を打ち勉学に励んだ。いつか、タイムマシンを開発するために。
そのうちに、アメリカ軍の本土空襲が始まり、女学校も被災し、自慢の鉄筋造りの校舎は半壊し、戦後建て替えられてしまった。
焼夷弾の降る夜空の下、死ぬ思いをしたり、空襲の心配はないが、居心地は最悪だった疎開先での経験については、傍論でしかないので詳細は触れない。
ただ、どんな苦境にあっても、ジョージこと時任航先生という未来人との思い出が私の生きる支えであったことだけは、明言しておく。
あの日、渡しそびれた手紙は戦火を潜り抜け、いつでも渡せるよう、今でも私のハンドバッグの中に眠っている。
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