16
思えば、人見知りの私は、自ら進んで職員室の中に入ったことがなかった。木製の引き戸を開けた瞬間、室内にいる先生方の視線が一斉に自分に集中する現象が堪らなく苦手だったのだ。
しかし、あの時は、ジョージの最後の任務を成功させなければという使命感に気分が高揚しており、職員室への苦手意識も一時的に忘却していた。よって、私は、ノックもそこそこに、ぴしゃりと音がするくらい勢いよく、職員室のドアを開け放った。
当然、先生方の視線は不作法な生徒に注がれたが、気にせず上座にある教頭の机の前まで一直線に歩いて行く途中で、はたと足を止めた。
頭頂部の髪が殆ど抜けているのに、残った毛髪で、禿げた部分を覆うようにポマードでがちがちに固めた髪型の教頭は、自席で腕組みをし、踏ん反り返って座っていた。ただでさえ堅物な性格がにじみ出た仏頂面なのに、更に眉間に皺を寄せ、唇を固く引き締めているせいで、仁王の如き恐ろしげな顔になっている。
仁王の机の前、説教をされているように立たされている背中は、セーラー服の少女ではなく、白衣を着た時任先生のものだった。
教頭の吊り上がった双眸とほぼ同時に、振り返った茶色のたれ目が私を捉えた。こげ茶色の眉がバツが悪そうに下がり、私は途端に申し訳ない気持ちになる。
よく分からないが、取り込み中のようなので、出直そうと思ったが、行動に移す直前に、不機嫌さを隠そうともしない教頭のだみ声に呼び止められてしまった。
「君は四年松組の櫻内だな。私に何の用だ」
「あ、後ででいいです……」
蚊の鳴くような震え声を出すのが精一杯だった。だが、教頭は許してくれなかった。
「遠慮するな。用があるなら、さっさと言ってしまいなさい」
用件を話すまで帰さないと物語る瞳に、眼光鋭く睨まれた。私が自分に遠慮をしていると察したのか、時任先生が、さっと横歩きで教頭の机の前から移動したせいで、私は教頭と差しで向かい合うかたちになってしまった。もう逃げられない。
勇気を出して、声を絞り出す。
「あ、あの。明後日。明後日……屋上……」
「屋上の使用許可か? だったら、この帳簿に学年とクラスに氏名、使用時間と目的を書きなさい。鍵は使用前に私のところに取りに来るように」
教頭は机上に立てかけていた出席簿と同じ黒表紙の簿冊を手に取り、鉛筆と一緒に突き出した。けれども、『屋上使用許可簿』と題された簿冊に記された時間割は、下校時刻までの記載しかない。
私は、どうしようかと鉛筆を握ったまま立ち尽くしてしまった。
「何をしている。屋上を使いたいのではなかったのか?」
あからさまに苛立たれているのに怯えながらも、簿冊に書き込めない理由を話す。
「あの、使いたい時間が表にないのですが」
「は?」
「いや、その。ごめんなさい。実は、明後日の夜九時前後から一時間、使いたくて。流星、見えるから……」
「そんな教師も全員退勤しているような遅い時間に使える訳ないだろう。流星が見たいなら、親御さんに頼んで、どこか別の場所で見なさい」
予想どおりの回答だった。厳格な教頭先生が仰る理屈は、非の打ちどころがないくらい正論だった。いつもの私だったら、泣きそうな気持ちを隠そうとへらへらと意味もなく笑いながら、引き下がる。けど今日は、今回だけは引き下がる訳にいかなかった。
「どうしても、学校の屋上で見たいのです。その、親と一緒なら良いですか? 友達も何人か呼びます」
親に付き添って貰うつもりなんて毛頭なかったし、日中、教室で話す友人はできたが、夜遅くに、一緒に流星を見て貰える程、距離の近い友人はまだいない。どちらも、でまかせだった。
「駄目なものは駄目だ。夜間、学校関係者の大人がいない状態で、生徒が校内を出入りするのは、防犯上禁止している。諦めなさい」
「お願いします! どうしても学校の屋上じゃなきゃいけないのです!」
「いい加減にしなさい!」
理論立てて説得しているのに、強情に引き下がらない私に、業を煮やした教頭の胴間声が職員室中に響き渡った。窓硝子がびりびりと振動し、私だけでなく。数人の先生たちまでが飛び上がった。
「櫻内さん、ちょっと向こうで話しましょう」
担任の中年の女性教師が慌てて駆け寄り、私の肩を掴み、退室させようとした。が、私は、彼女の手を払いのけ、懇願を続けた。
「お願いします! 今回だけです。もう、卒業まで、こんなわがまま言いませんから!」
「しつこい!」
「櫻内さん! いい加減になさい!」
今度は教頭と担任、同時に怒鳴られた。尚も抵抗し、教頭に近づこうとした私を、体格の良い男性教師が取り押さえ、強制的に追い出そうとする。
「お願いします! 問題なんて起こしません。天体観測をさせてください!」
「櫻内さん!」
堪忍袋の緒が切れた担任が、平手を振り上げた。叩かれると覚悟し、瞼を閉じる。
地味で内向的な性格が幸いし、小学校から女学校四年まで更新し続けた、教師に叩かれた経験がない歴も今日で終いだ。何ということだろう。大人に従順なことだけが、ほぼ唯一の取り柄だった櫻内さんがぐれてしまった。きっと、親にも報告されるに違いない。そうなれば、任務遂行は絶望的になる。
絶体絶命の危機を救う、涼しげな声が聞こえたのは、万事休すと観念し、脱力しかけた時だった。
その声は、さほど大きな声ではなかったのに、騒然とした職員室でもよく通った。
「待ってください、教頭。屋上で天体観測がしたいなら、僕が監督します。帝都で、しかも午後九時という比較的早い時間帯に流星が見られる機会はそうありません。家から学校への送り迎えもします。学校にも親御さんにも心配をかけないよう、僕が責任を持ちますので、彼女の希望を聞いてやってはくれませんか」
声の主は、騒ぎの輪からはやや外れたところで、所在なさげに佇んでいた時任先生だった。目尻の下がった瞳が、怒りで紅潮した顔色の教頭をしっかりと見据えていた。
「……責任って。平講師の君一人で負えるものではないだろう。何かあった時、どうするつもりなんだ」
「僕が一緒ならば、何も起こりません」
妙に毅然とした態度で断言する先生に、教頭はひるんだ。その隙を逃さず、時任先生は淡々と畳みかけた。
「僕はこの学校に赴任してから常々、女子生徒の理科に対する興味が他の科目について薄いことを懸念しておりました。だから、きっかけは些細なことでも、理科に興味を持ってくれる子がいると嬉しいですし、折角、芽生えた知的好奇心の芽を摘んでしまいたくないのです。教師として、できる限り援助してあげたいと思うのです」
おとぎ話の王子様のようで、浮世離れした雰囲気の時任先生が、ここまで熱い志を秘めていたのは意外だったし、その熱意に心打たれた。
教頭も私と同じだったようで、眉を八の字に下げ、もごもごと歯切れの悪い反論をするのがやっとだった。
「君の熱意はよく分かる。教師として見上げた志だ。しかし、君は……」
「だからこそです。無茶を言っているのは承知です。教頭先生、僕たちのお願いを聞いて頂けませんか」
生徒に『鬼教頭』と陰口を叩かれている強面が、やりきれなさに耐えるような表情を見せた。若造の時任先生に追い詰められたのが、そんなに悔しいのか、今にも泣きだしそうな顔だった。
「……分かった。ただし、時任先生には全監督責任を負って貰う。彼女を家に迎えに行き、無事、親御さんの手に引き渡すまでが君の仕事だ。くれぐれも、後で問題が発生することのないよう、君の教師人生を賭けてやり遂げなさい」
もし何かあったら、切腹しろとでも言いそうな、大袈裟な言い様だったが、説得に成功したことは確かだった。最も、私は徒に喚いていただけで、ほぼ時任先生の功績だった。
「ありがとうございます」
最敬礼で教頭に礼を言い、顔を上げた先生の唇が一瞬、不敵な笑みを浮かべた。
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