Little Breath

言端

それでも、祝福を祈ったから。

 彼を初めて見たのは寒気が身を刺す、ひと月に一回か二回は白雪のちらつく季節だった。一目見たとき鳥と見紛うほどの羽を持って、彼は飛んでいた。否、思い返すと飛んでいたとは言いがたい。風の一吹きごとに煽られて、重たげに飛ぶ姿は今にも落ちんと見えて、私は気が気ではなかったのだ。地上に落ちるならまだ良い。このあたりはクレパスの多い荒野で、深い溝の底は餓えた魍魎であふれている。彼が鳥であれ、それ以外の飛行動物であれ、落ちたが最後身体の一片も残らなかったであろうことは間違いない。せめて私のところに落ちてくるようにと、その時は誠実に、ただ純粋な心配から願った。


 彼を二目見たのは、崖下が残らず雪に覆われて、文字通り底冷えするころだった。積雪で地面が上がって、少しだけ地上が近くなるその時期に感謝するのは、それがきっと最初で最後だ。空も澄みきるから飛んでいるものの姿ははっきりと見える。その時に、彼は片翼だと知った。相変わらずの危うい飛行で私の狭い空を横切る彼の行き先が、少しだけ気になった。


 三度彼を見たとき、それは思いがけず急すぎる接近になった。大粒の結晶が容赦なく乱舞する、雪深いときだった。私の懸念の通りに、いつだか私が願った通りに、ついに彼は天空から飛来したのだ。吹雪に嬲られながら飛ぶ彼を見守っていた私の視界内で、どんどんその姿が大きくなったとき、まさか彼が近づいているのだとは俄には信じがたかった。しかし、思わず差し出した両腕にかかった重力は、確かに本物だったのだ。今でも少し痛む骨が、唯一の証拠のような、それほど夢のような出来事だった。私は夢心地のままに彼を家へ入れた。横たわる彼の青白い顔を見つめていると、ひしひしと安堵がこみ上げた。思いの外美しかった彼の顔や肢体が魍魎どもに食い荒らされた様を想像すると背筋が凍り付く。彼の頬に紅が差し始めるまで、眠る美しい顔を飽かず眺めた。そのうちに、私の献身の心は傲慢なほどに膨れ上がって、身の内に燃えさかる業火のような激情が何なのかもわからず、ただ誘われるように彼の頬に触れた。色味を取り戻し始めた唇を人差し指でなぞり、強く押して、閉ざされた上下の唇をこじ開けた。押し込むと、冷えきった指先に生温い舌先が触れて、はっと手を引っ込める。不埒な行為に及んでしまったことへの罪悪感や驚きが早鐘となって心臓を打ち、それが落ち着いてくると、舌に触れたときの恍惚と、もっと先を求める衝動を収めるのに苦労した。何度も彼の額に手をついて唇を重ねそうになる寸前で、怖じ気づいたように飛び退く。それを幾日幾夜も繰り返し、私が恐れているのは何だろうと考えるようになった。

 彼の素性が知れないからだろうか。間近で見るとそれは瞭然としていて、片翼の背中は思ったよりもずっと不完全だったのだ。縫い付けた痕も露で、生来の翼でないことは明白だった。それで飛翔できていたことに驚くほどだ。一体何のために、どんな手段で翼を片方だけ手に入れたのか、それだけで既に彼は謎に満ちた存在だった。或いは、彼がその翼で目指していた先が気掛かりなのかもしれなかった。重雪に翼をもがれかけても目指したい場所とは一体どんなところなのか、もう随分長いこと同じ景色しか見ていない私にはその気持ちすら、想像もつかない。彼を射ち落としてくれなければ、雪だって一生嫌いなままだったはずだ。

「貴方はどこへ行くの?」

初めて話しかけたのは、そのとき。もちろん眠ったままの彼は応えなかったが、お気に入りの人形に話しかけている時のような満足感があった。その快感が致命的な間違いだったと、気づかなかった愚かさを、私は呪うべきなのだ。気づかないから過ちなのだと、諦観して消えるような悔いではない。それほどに、重い。

私は思ったのだ。眠る彼は人形に等しい。幼い私のどんな行為でも受け入れてくれたビスクドールと、変わりない。目的があったのか、行き先があったのか、私を拒絶するのか、人形は主張しないものだ。もし何か過ちがあったとしても、物言わぬ方が悪いのだ。私の中でにんまりと笑う欲望が囁く。遠くでやかんが高く鳴いていたが、聴こえなくなった。私の唇に、ずっと欲しくて堪らなかった果実が触れそうになった。

「、」

けれど叶わなかった。触れ合う刹那に、彼の一息が私の唇を撫でていって、それがあまりにも苦しげだったから、それ以上動けなくなってしまった。私はまた獣の早さで飛び退いて、乱した息がようやく落ち着いた時、指先が違和感を捉えた。硬い何か。右手は彼の顔の横に、左手は心臓の真上に置いていたはずなのに、その左手の指に当たる感触がどうにも硬い。人体ではない感触。する、と少しなぞると角があって、まるで石か何かが付着しているようなのだ。飢餓感も途端に吹き飛んで、不安が襲う。谷底の毒気が彼を殺そうとしているのではと、今まさに自分がしようとしていたことは棚に上げて、逸る手先で彼の胸元を広げた。そして目にしたものに、声も出なかった。心臓の上の皮膚にこびりついている、黴のような灰。固まって手の平ほどの原石のようになっているそれは、背信を示す。神に背く契り、つまり堕天使との契約痕だ。歪な翼にも、決死の飛翔にも、これですべて説明がつく。私の恋情を粉々に砕く答を、その時知ってしまったのだ。


 『堕天使。神を貶め、地上に堕ちた罪の権化。神の目を逃れたことで、より一層悪行を重ねる愚者を天上の誰も、最早止められない。餌食となるのは人間。堕天使は人間の恋慕の情を食いものにして、愛しき者のもとへ飛びたがる恋心を羽に変える。与えられるのが欠陥の片翼とも知らない盲目の人間は、羽を得るや否や喪った恋心を返せと泣く。堕天使はそこで約束する。その不完全な翼で愛する者の元へ舞い降りることができたら、恋情を愛情に、一時の恋心を悠久の相愛にして返そうと。約束の証人として、堕天使は人間の心臓に己が罪を分ける。しかしそれは時とともに人間を食い荒らし、やがて全身を灰と散らせる呪いである。』


 そこに存在しなくても影をちらつかせる彼の想い人に、私が勝てる筈はなかった。彼が眠っているのは確かに私の腕の中だとしても、胸から消えようとしない結晶が私を拒絶する。彼には愛しい人が、既に存在していた。それなのに自分はなんて浅ましい行為に及んだことだろう。居たたまれなさに顔を覆い、見知らぬ女性に思いを馳せる。地の底にいても鳥たちは律儀に情報を運んでくれる。この荒野を越えた先、つまり彼が目指していた先には小国があるらしい。きっとそこにいる女性なのだろう。小国は近いとは言い難いが、翼があれば届く距離だ。しかし今の彼の羽では、吹雪がなくなってもたどり着けるかどうか、わからない。翼がもう片方あれば、あとは飛ぶ者の気力次第というところだろう。

見ることもないだろう小国の話など、いっそ知らなければ私はもう少し足掻けたかもしれない。一説には、知は武器であるらしいが、知っていることによって得られるはずものに手が届かなければ、奪い去るだけの蜃気楼だ。小国の存在など知らなければ、そこへ行く術も知らなければ、どうせ辿り着くことはできないだろうと彼の可能性を奪って、己の欲望で捕えておけたかもしれないのに。彼が想い人のところに行かなければ文字通り死んでしまうこと、その想い人がいる場所、そこへ行ける可能性、そのすべてを知ってしまっているが為に、私にできることは最早一つしか残されていないのだ。一瞬でも、赦されない不埒な想いを抱いてしまったことへの償いにでもなると思えば、幾ばくか、虚しさは薄れた。


 私はそれから眠り続ける彼には触れずに、豊饒の季節を待って、彼を空へ還した。


   *  *  *


 その荒野には、幾つもの亀裂が奔っている。浅くはないその一つ一つの底には異形の魍魎が巣食い、それを恐れて地を歩く者はおろか、空路を行く旅人すらいない。地上で花が咲き乱れても、果物が熟れても、光の差し込まない奈落には関係なく、世界から取りこぼされたように沈黙し続ける。僅かに動く雲だけが、かろうじて時間を廻す。一際強い西風が吹き抜けて、砂埃を立てていった直後、一つの亀裂から飛びだした影があった。垂直に高度を上げていき、蛇行しながら少しずつ下がってくる。やがて傾きながらも彼方へ飛んで行った影は人間の形をしていて、しかし背中には翼を生やしていた。右肩に白い羽を背負い、左肩にそれよりはるかに大きく艶のある黒耀の羽をつけた、両翼の人間であった。


 その飛翔と対をなすように、亀裂の底では一つの生が終わりかけていた。地上の雪解けから一歩遅れる地底は未だ雪の地面だ。赤い絨毯のようなものの中に長い髪を散らして彼女は横たわっている。絨毯のように見えるものは血をたっぷりと吸った雪で、まだ温かく湯気を立てる血は、彼女の背中から流れて止まる気配がない。同じ背中から凛々しく生える黒耀の翼が重力に引かれ、しどけなく白の中に沈みかけている。翼は片方しかない。急速に生気を失っていくように見える彼女は、不意にざりざりと雪の中で頭を動かし、まどろんだ瞳で遥か上空を仰ぎ見た。小さくなった影の、黒い翼が大きく羽ばたいたのを見て、真紅の唇が弧を描く。小さく動き、閉ざされた唇は瞳と同じく、もう開くことがない。白い吐息とともに立ち上った最期の言葉は、地上へ飛びあがるには小さすぎた。或いは大気に溶けて、緩慢に昇っていくかもしれない。その行方は誰も知らず、密やかな恋慕は跡形も残さずに、雪解けに紛れて消えた。

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Little Breath 言端 @koppamyginco

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