Ending2 シンガポール・スリング
「俺のこれから先の人生、蓮華さんに捧げたい」
アメリカから帰って、蓮華と再会し、想いを打ち明け合った時、高ぶった感情に任せ、二人だけの部屋では、絡んでいた草の蔓をほどくように、ひとつひとつ丁寧に確かめ合う。
「……奏汰くん……!」
忘れてない。
自分の下で、ずっと泣いている蓮華は、アメリカに行く前と変わらないように奏汰には思えた。
本当に待っていてくれていた……!
「奏汰くんが好き……!」
強く、腕の中に彼女を抱える。
蓮華を抱く腕の感触も、記憶のままだ。
感動の波は次々と押し寄せ、渦に巻き込まれ、ただただ相手が愛しい。
「守りたい……って、……思った」
腕に抱くこの
「なあに?」と、蓮華が顔を上げた。
「これから先の人生、蓮華に捧げたいって言ったけど、それだけじゃなくて、……蓮華を、ずっとそばで守っていきたいって思ったんだ」
身体を起こし、ベッドに座ると、蓮華の上半身も起こして改まった。
「もう離れたくない。でも、同棲はしないって最初に決めてた。だから……!」
蓮華の瞳が大きく開き、奏汰を見つめている。
「一緒に……その、……結婚したい、俺は」
「待って」
遮った蓮華を、奏汰は黙って見つめた。
うっすらと頬は赤らみ、瞳も潤んでいる彼女は、少しためらってから、改めて奏汰の目を見た。
「……話さなくちゃいけないの。奏汰くんには」
髪を整える仕草をしてから、言った。
「お酒、飲みながらでいいかな? 飲みながらじゃないと、とても話せなくて」
「じゃあ、ここのラウンジに……」
「ううん。この部屋がいいの」
「あ、じゃあ、簡単に出来るものを作るよ」
近所のコンビニでジンと柑橘類のジュース、レモン果汁、炭酸水と氷を買うと、部屋に戻る。
蓮華は、外を歩いていた時と同じ姿になっていた。
ホテルに備わっていた大きめのロックグラスを二つ並べる。氷の上からジンを注ぎ、ジュースと炭酸水を加える。
スプーンで軽く混ぜ、レモン果汁を垂らし、味を整えてから蓮華の分を差し出す。
自分の分はサイドテーブルに置き、蓮華の座る椅子の隣にかけた。
「美味しい」と微笑んでから、蓮華は語り始めた。
「実の親、特に父親と合わなくてっていうのは、話したことあったわね。まだ高校生の時に家を出て、おじいちゃんとおばあちゃんのところに転がり込んだわ。音楽学校に通ってからは、時々新香ちゃんの一人暮らししてるアパートによく泊まりに行ったり、卒業してからは、おじいちゃんの秘書みたいなことや、音楽事務所やスナックの仕事をしながら新香ちゃんと一緒に住んでた」
奏汰は頷いた。
九歳離れた弟である琳都のことが心配で、父親のいない時を見計らって家に戻ったりしていたとは聞いている。
「父は、母やあたしたち子供に対して威張り散らしてた。何も言い返せない大人しい母は、あたしと父のケンカが始まると、父の味方をした。あたしの言うことに心では賛成していても。そう母から打ち明けられたわ。自分は父に嫌われないために従順でいたの。まだ幼い琳都を、父が無理矢理音楽から引き離そうとした時も、自分の価値観を押し付けて、嫌だって泣いてる琳都やあたしを庇うこともなく、母は自分の保身に走っていた。あたしが母を庇うことはあっても、母は父から庇ってはくれなかったから、ますます父はつけ上がって、あたしたちを従わせようとした」
淡々とした口調には、怒りなどは感じられない。
諦めに近い。
「よくわからないまま、お嬢様学校で有名な女子校に入れられ、琳都も中学受験をさせられたけど、反発してわざと落ちたりしてた。そして、あの子は心を閉ざしてしまった。あたしたち子供と父親との対決は、ずっと続いた。見るに見兼ねたおじいちゃんが、あたしたちを引き取るって言ったけど、おじいちゃんと父の仲も悪くて。……その辺の話は、優ちゃんや橘先生も知ってるわ」
蓮華が飲んで、再び話し始めるのを静かに待つ。
「両親を見ていると、結婚生活ってなんなのか、ちっとも幸せじゃない家庭に育ったからか、結婚することに良さを見出せなかった。反対に、おじいちゃんの家はあたたかかったわ。歌手だったおばあちゃんと結婚したおじいちゃんは今でも仲が良いし、音楽が好きで、若手ミュージシャンを応援したり、ミュージシャンに限らず、優ちゃんみたいな若い見習いバーテンダーたちの成長もあたたかく見守ってた。結婚して幸せになって、周りにも寛容になれるなら結婚も悪くないって、少しは思えたかも知れない」
奏汰の即席カクテルを口に含み、奏汰もそれに合わせて一口啜った。
「今まで本当に好き勝手やってきたの。若手ミュージシャンの子たちの応援はしても、やっぱりあたしには結婚するつもりはなくて。ミュージシャンの卵と付き合った最初の子には才能を感じて、なんとか一人前になって欲しくて尽くしたつもりだった。その彼とは半同棲状態で、でも、それはお互いのためにも良くなかったってすぐにわかってね。それ以来、同棲は絶対にしないことにしたの。未来あるミュージシャンの
静かに話をきく奏汰の表情を気にしながら、蓮華は続けた。
「優ちゃんのことも、奏汰くんは気を遣ってあまりきいて来ないけど、これまでの子たちは優ちゃんにライバル心燃やして――音楽面で張り合ってたとか、男として嫉妬してた、そんな感じだった。本当のところ、あたしの中では、優ちゃんとは友情でつながっていながら、彼を越えられると思えた男はいなかったわ。優ちゃんは、あたしにとって最後の
瞳を潤ませながらも気丈に話す彼女に対し、奏汰は冷静ではあったが、心に波風がまったく立たないわけではなかった。
過去の男なんかよりも、優と彼女との方が重要だとは、とうに知っている。
優と彼女とは、それほど切っても切れない絆で結ばれているのだ。
わかってはいても、彼女の口からきかされるのは、正直堪える。
それでも、そこを乗り越えない限り、自分に未来はない。
「優ちゃんは、見てると恋愛にはなんだかドライに思えたわ。どの人とも結婚するような強い結びつきはなさそうだった。あたしを心配するあまり、あたしは優ちゃんがいて安心するあまり、ずっと変わらないでいてくれる彼がそばにいるだけで、恋愛関係じゃなくても安心感があった。……まあ、付き合ってたミュージシャンたちとは穏やかな日々じゃなかったからね、優ちゃんが癒しになってたのよ。それでいいみたいに過ごしてきちゃってた」
少しはにかんだ蓮華が、グラスに口を付ける。
ますます、奏汰には、恋人関係にあった男たちよりも、友人を貫く優との方が最強に思えてくる。
これまで巣立っていったミュージシャンたちの心境は、理解出来る。
皆、優と自分とを、秤にかけたかったのだろう。
奏汰が考えるに、「ついてきて欲しい」と言うことで、優よりも、店よりも、蓮華に自分を選んで欲しかったのだ。
それは、愛とは呼べない身勝手なものだったかも知れないが、或は、蓮華を断ち切って巣立つための必要な手段だったのかも知れない。
自分も渡米する直前に別れを切り出した時は、さんざん悩み、最後には彼女の人生を優先させることにした。
蓮華が幸せであればいい。いずれ、自分はそれを糧に生きていけると思った。その時は。
「奏汰くんと再会する少し前、『友達であり、仕事上のパートナー』を貫いて来たあたしたちは『領域』を犯しかけた。でも、……出来なかった」
自分で勧めたこととはいえ、奏汰の心臓は、大きく音を立てた。
目尻を指で軽くぬぐってから、蓮華は、奏汰を真っ直ぐに見た。
「それほどまでに、奏汰くんを、あたしは忘れてなかった。初めてよ。だって、あの優ちゃんを越えたのよ、あなたは」
蓮華の瞳から、はらはらと涙がこぼれた。
「巣立たなくてはならない時、皆、あたしに付いて来て欲しいって言った。その度に、あたしは別れを切り出して来た。彼らの夢を応援すると同時に、あたしは店を取ってきた、自分の夢を取ってきた。最初から答えは決まっていたの。最低だと自分で思ってた。唯一、優ちゃんだけが、あたしの決断を信じてくれた。どんな決断であっても軽蔑しないでいてくれた」
ミュージシャンの卵を育てる度に、蓮華は覚悟して来た。
その覚悟を、優は見届けてきた。
どちらも、並大抵なことではないと、奏汰は思った。
おそらく、蓮華の決断は、いくら強くてもひとりでは辛過ぎる。
それと同じくらい、見守るだけだった優のもどかしさも、想像出来る。それを抑え込んだ上で、蓮華の判断を受け入れてきたのだ。
「あなたのことも、『アメリカについてきて』と言われたら、同じように……例え、心の中は違っていても、別れるつもりだった。でも、あなたは違った。自分から身を引いて、優ちゃんに譲った。あたしのためを思って……。それがどんなに簡単じゃなく、辛いことか。今までそうしてきたあたしにも、あたしのこともあなたのこともずっと見て来た優ちゃんにも、深く刺さった。その後のあたしたちの価値観を変えるくらいに」
「……」
「優ちゃんも、奏汰くんのことは認めてた。彼の中でも、あなたの存在は大きかった。だから、あたしと優ちゃんは、お互いに『最後の人』ではなくなった。年月をかけて築き上げた絆より、あたしは、あなたを選んだの」
奏汰の瞳も潤み、足が僅かに震える。彼女を抱きしめたい衝動に駆られるが、こらえた。
「あたしの気持ちは、正直に全部話したわ。だからといって、あたしのすべてを受け止めなくてもいいの、奏汰くんにだって選ぶ権利はあるのよ。あたしの恋愛観や過去を、どうしても許せない、認められない
目の前から歩きかけた蓮華を、奏汰が両腕を掴んで引き止め、背を屈めて正面から見据えた。
「何日考えても、いくら時間をかけようがかけまいが、俺のこたえは変わらないって、蓮華、知ってる?」
潤んでいた蓮華の瞳が、揺れる。
「俺は、蓮華と一緒にいたいんだよ。蓮華と一緒なら、絶対楽しい。っていうか、蓮華がいい。蓮華じゃないと嫌だ。過去は関係ない。過去あっての今なんだから。俺は、今の蓮華が好きなんだよ」
きつく、蓮華を抱きしめた。
「楽しくない家庭に生まれたから、いい家庭が築けないなんてことはないはず。蓮華の中で優さんのことは特別な人だってこともわかってる。俺だって、優さんを完全に蓮華から切り離したいなんて思ってない。全部わかってるつもりだよ。優さんがいて、今の蓮華がある。全部込みで、蓮華のことが好きなんだよ。それって、……愛なんじゃないの? もう手放したくない。ずっと一緒にいて欲しい。誰かにちゃんと愛されていれば、いい家庭もいい未来も築けるって、俺は思ってる。蓮華と一緒なら、俺は築いていける」
既に啜り泣く蓮華を、もう一度正面から見つめる。
「蓮華はどう思うの? 俺とじゃ、楽しい未来は築けそうにない?」
やさしく尋ねた奏汰に、蓮華は少し笑って、首を横に振った。
「もう、奏汰くんたら、大した
飛び跳ねるように、奏汰の首にしがみついた。
「一緒にいたら……、きっと、楽しいわ」
奏汰も心から安心した笑顔になって、彼女を抱き留めた。
「音楽家は常に新しいことに挑戦していくものでしょ? やってることは、今もこの先も変わらないよ」
結婚を決意すると、早かった。
そんなことがあってから、新婚旅行が実現した今、隣で眠る蓮華を抱き寄せ、奏汰はアメリカからの帰国後のことを、ずっと思い起こしていた。
結婚から、自分たちは始まったのではないかと思う。
毎日が新鮮で、ウキウキする。まだ日が浅いせいもあるとは思いながらも、思った以上に楽しい日々だ。
俺と一緒に歩いていくって決めてくれて、ありがとう。
起こさないよう細心の注意を払って小さく囁き、髪に口づける。
「……ん~……、奏汰くん……?」
「ごめん、起こしちゃった?」
「明日は、マーライオン見て、夜はシンガポール・スリング飲もうね」
寝ボケながらそう言った蓮華に、笑わずにいられない。
「仰せの通りに。奥さん」
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