ホワイトデー・プレゼント
時々ではあったが、優が休みの日でも、ゆかりとは会えない日がある。
その日も、そうだった。
ライヴの帰りに、共演したミュージシャンたちと、横浜の山下公園前にある老舗ホテル「ニューグランド」のバーに行こうと話していた。
「俺、家に乳児いるんで、帰ります」と、翔だけは帰っていった。
道中、レトロなランプに目が留まるフランス風なバーの前を通りかかると、優が、カウンターの女性バーテンダーと親し気に話すのが見えた。
別に、「休日は全部、私のために使って欲しい」とまでは思わないけれど——
そう言えば、今日会えない理由も、彼からは聞いてない。
あの女性バーテンダーに会うため?
言ってくれなかったのは、秘密にしておきたかったから?
その考えが頭をよぎってから、ニューグランドのバーでは、ゆかりの飲むペースが速くなり、ミュージシャンたちも驚いていた。
香月ゆかりって、こんな酒豪だったのか? と。
「ゆかりさん、ちょっと飲むペース速いですよ」
隣にいた奏汰が、こっそり注意する。
「放っといて。今は飲みたい気分なの」
「いや、俺もバーに関わってる身ですから、黙認は出来ませんよ」
「だって……」
突然、ゆかりがハンカチで目を押さえた。
「奏汰ー、何ゆかりさん泣かせてるんだよ」
「悪いヤツだなー」
「違いますよ!」
途端に奏汰が悪者にされ、半分はからかわれ、半分は疑いをかけられる。
酒が入ったせいか、ゆかりの涙は、ますます止まらない。
「すいません、ゆかりさん、ちょっと疲れてるみたいなんで、家で休ませます」
「なにー!?」
「家に連れ込むつもりか!?」
「あのー、うちに奥さんいますけど」
奏汰が抱え込んでゆかりと連れ立つと、またしても冷やかす声に見送られる。
スマートフォンで電話をすると、蓮華が、今から行く、と返事をした。
「私と違って髪はショートだし、なんだか昔から知ってるみたいに、すごく親し気だったし……」
歩きながら移動する間ずっと奏汰のスマートフォン越しにゆかりの話を蓮華が聞いていると安心してか、ゆかりは涙と想いを溢れ出させた。
『うん、うん。大丈夫よ、ゆかりちゃん。すぐ行くから待っててね』
蓮華には、優がどこにいるのか、見当は付いているようだった。
蓮華と落ち合い、三人で、フランス風バーの窓越しに店内を覗き込む。
ゆかりが見た時にはいなかった、優と似たような背格好の男性と、店の女性バーテンダーの他にも女性を見つけた。
「待ち合わせだったの?」
意外そうなゆかりに、蓮華が微笑んだ。
「仲間内と研修会を時々やってるの。一緒に行こ!」
「えっ? でも、私が行ったら……」
「大丈夫! 邪魔なんかじゃないから」
「ま、待って! だったら、化粧直してくる」
そこから近いニューグランドに行き、化粧を直したゆかりは、泣いた後とはわからないほど、ライヴの時のように颯爽としていた。
窓から蓮華が手を振ると、女性バーテンダーが気付いた。
窓を見るよう言ったようで、蓮華、奏汰、ゆかりを見つけた優が微笑んで、中に招くような動作をした。
「……バツが悪そうな顔もしなかったわ」
「当たり前よ。大丈夫って、あたしの言った通りでしょう?」
笑顔で蓮華がぐいぐいと、ゆかりの腕を引っ張って行く。
Closedのプレートが扉にかけられていたが、優が中から開け、三人を招き入れた。
「ジャズ・ヴィオリストの香月ゆかりさんだよ」
「桜木の部屋にあったCDの人、本人!?」
真っ先に、男性が目を見張った。
「どうも、初めまして!
榊は名刺を取り出し、ゆかりに手渡した。
『Limelight』、銀座にあるバーのバーテンダー……?
「俺、ジャズとかあんまり詳しくないんですけど、昔からこいつの家に行くと、いつもあなたの曲がかかっていて。憧れのスターを今目の前にして、すっごく光栄です!」
榊が興奮し、満面の笑みで両手でゆかりの手を握りしめた。
「はいはい、そこまで」
優が、にこやかに榊の手を払うと、ゆかりの背に手を添えた。
「実は、今、僕たち付き合ってるんだ」
「ええっ!?」
榊を筆頭に、もうひとりの女性も驚き、バーテンダーの女性は「あら!」と言ってから、微笑ましそうに笑った。
「ちょ、ちょっと! そんなこと……!」
「大丈夫。バーでは、秘密は守られるんだよ」
焦るゆかりに、優が不安を和らげるような瞳になる。
「そうよ~。だから、今、ここで公開しちゃっても、誰にも漏れないから大丈夫!」
蓮華がそう言って笑うと、奏汰も頷き、笑顔でゆかりを見る。
「さっき喋ってたそこのイケメン榊くんは、自己紹介したからもういいとして」
「ええっ、蓮華ちゃん、ひどっ!」
榊が悲しい声を上げると、蓮華が「冗談よ」と笑ってから続けた。
「榊くんは、優ちゃんの『Limelight』時代の相棒なの。『J moon』を始める前までいた銀座のバーでね、二人でしょっちゅうカクテルの研究をしてたのよ。それで、こちらが、
ストレートの黒髪を後ろで一つにまとめた女性が、会釈をする。姿勢の良さから、砕けた印象の榊とはおそらく対照的な、きちんとした性格に見えた。
「私も
「なにその取って付けたような言い方?」
即座に突っ込んだ榊に、真由稀は素知らぬ顔をして笑ってみせた。
「それから、ここのチーフ・バーテンダーさんの
ゆかりが初めに見たショートヘアの女性バーテンダーだ。年は、ゆかりたちよりも少し上に見える。
結月の会釈は感じが良く、品良く、ゆかりには皆に対してと同じように好感が持てた。
「時々皆で集まって、勉強会とか研修会をしてるの。より美味しく作るにはとか、どこのバーのカクテルが美味しかったとか、こんな作り方してたとか報告し合ってるの」
「まあ、世間話も多いけどね」
蓮華の話に、優が付け加えた。
「結月さんには、『Limelight』に入ってから、オーナーの速水さんに榊と一緒に連れて来られて以来、度々お世話になっててね」
その後、榊が過去の優とのエピソードを暴露する。優がゆかりの曲や演奏が好きで、ずっとファンだったことも改めて知ると、ゆかりの笑顔も増えていった。
バー『プロムナード』を出てから、弾むような足取りで喋る蓮華と、それに応える黒いベースケースを背負った奏汰が賑やかに歩くのを、後ろから微笑ましそうに眺める優とゆかりが並んでいた。
「実はね、優くんがひとりでカウンターにいて、結月さんと楽しそうに話すのを見たの。何も聞いてなかったから、……ちょっと心配したわ」
少し、ゆかりの目が潤んだ。悲しいわけではなかった。
「ああ、ごめん、ちゃんと話せば良かったね」
心配そうに、優が見つめ返した。
「でも、皆の前で、はっきり、付き合ってるって言ってくれたから。普段は誰にも言えないし、ましてや公には出来ないけど。それに、榊さんから、優くんが、そんなに私の音楽を気に入ってくれてたって教えてもらえて、……嬉しかったわ」
「信頼出来る人たちだから、僕もきみとのことを打ち明けたんだよ。紹介出来て良かった」
そっと、だがしっかりと、ゆかりの手を握る。
微笑む優を見上げ、はにかみながら、ゆかりは下を向いた。
「ねぇねぇ、優ちゃんたち、手つないでる! かわいい~!」
ちらちらと後ろを振り返る蓮華が、にまにま笑いながら、こっそり奏汰に知らせた。
「ほら」と、奏汰が肘を浮かせると、嬉しそうに蓮華はしがみついた。
「ライヴ後だから、甘い物が食べたいんじゃない? チョコ買ってあるわよ」
「ううん、蓮華がいい」
「やっだ~、もう♡」
笑いながら、蓮華は、奏汰の腕にさらに密着して、引っ張った。
「ホントは、来週のホワイトデーに渡すつもりだったんだけど……」
優の部屋に着くと、ゆかりと二人で選んだネックレスの箱を、優が差し出した。
ステージ用ではなく、プライベート用の、シンプルだが遊び心のある色使いをしたものだ。
「来週まで待ってもいいわよ」
「ううん、今あげたくなった」
長い髪を持ち上げるゆかりの首元で、優がネックレスの金具を
「おぼつかない手つきってわけじゃないのは、ネックレスをしてあげ慣れてるから?」
意地悪くゆかりが言うと、優は笑った。
「お店の準備中、蓮ちゃんがバタバタしてる時は、よくネックレス着けてあげてたからね。それで慣れたんだよ。他の人に着けてあげたこともあるけど、買ってあげたりはしてないよ」
正直に言っているのだろうと、ゆかりには思えた。
「実は、もう一つプレゼントがあるんだ」
と、優が持ち出したのは、テーマパーク限定のぬいぐるみだった。ぬいぐるみは特に好きでもないが、薄紫色をした「うさぎの女の子のぬいぐるみ」これだけは、ゆかりはかわいいと思った。
二人でよく行くパークで見つけた時に、ゆかりが欲しくなったが、大きく、持ち帰るのが大変で諦めたのを、優がこっそり注文し、袋に入れたままクローゼットの上の方にずっと隠していたという。
「かわいいっ! これ欲しかったの覚えててくれてたの!?」
首元で繊細なネックレスを輝かせているゆかりが、ぬいぐるみを、ぎゅーっと抱きしめるのを、優はにこやかに見守っていた。
「優くん、ありがとうね!」
優は、にこにこと笑顔を絶やさなかった。
ゆかりは満面の笑みでぬいぐるみを撫でたり、見つめたり、強くぎゅーっと抱いたりしながら、ふわふわな心地良さに浸っていた。
「はいはい、もうこっちに座ってようね~」
優は、やんわりとぬいぐるみを抱っこし、やさしく椅子に座らせると、不思議そうにその動作を目で追っていたゆかりを、ぎゅーっと抱きしめた。
「……優くん……?」
「……さっきからずっと、こうしたかった。『プロムナード』で、榊がきみの手を握ってから」
ゆかりからは、優の顔は見えない。
「もしかして、……意外とヤキモチ妬きなの?」
「……なんか、ゆかりさんだけは……」
可笑しそうに笑ってから、ふっと安心した顔になったゆかりの手が、愛おしく、優の背に回った。
「……私と一緒ね」
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