Ⅴ.(5)上を向いて歩こう
明日香とマークは教会で式を挙げ、マークの家では友人たちを招いたガーデンパーティーが行われた。そこでは、マークの弟と、妹マーシャとも再会する。
奏汰には「頑張って!」と言い残し、明日香とマークは新婚旅行に出かけていった。ニューヨークに来る約半年前から共同生活をし、ニューヨークに来てからの数日間までマークの実家で二人と一緒であった。
数日前に奏汰はアパートへ引っ越し、途端に静かな暮らしとなる。日本では、明日香のペースに多少振り回されたが、いざ離れてしまうと心細い。
俺、ここで何してるんだろう?
このままで大丈夫かなぁ……
「おい、カナタ、もっと音楽に集中しろ! 俺のフレーズに応えてないぜ!」
「あ、はい。すみません」
「いいか、俺が、こう弾いてるんだから、なんか返せよ。それと、もうちょっと楽しく! 俺の演奏が、そんなにつまらないのか?」
「いいえ!」
「なら、ちゃんとついてこい!」
不安にかられていた始めの一週間は、バー『
入り口の横にサイドカー付きバイクの本物サイズのレプリカが飾られている、レトロな外装と内装のこのバーでは、奏汰の入れてもらったバンドが週四日は演奏するが、リーダーである鍵盤奏者ベニー・ホワイトが今は旅行中でしばらく戻らない。
代わりに、サブリーダーのギタリストがメインを努め、ノリにノッていた。
三〇代ほどのギタリストは、容赦なく思いをぶつけてくる。
言葉でも、演奏でも。
そうだった。
何のためにここにいるのかと、改めて考え直し、徐々にギタリストの感性に応えようと、それだけを考えるようにした。
シャツをルーズに着こなすギタリストとは対照的に、ドラマーは本番ではいつもスーツにネクタイというきちんとした格好だ。普段からあまり口を利かないが、曲調によっては、どこにそんなパワーを秘めていたのかと思うほどパワフルだった。
「すごいです! グルーヴ感が気持ち良くて、思い切りノれました!」
ステージの合間に、奏汰が興奮してドラマーに伝えるが、途端に人見知りに戻ってしまったのか、そそくさと隅のテーブルに行ってしまう。
そこでは、若く大人しそうな女性がいた。はにかみながら話しをしている。隣り合っていても、二人の間にはまだ距離があるようだった。
「彼女さん……ですか?」
「いや、よくわかんないけど、時々来るんだよ。ドラム叩いてる時はワイルドなんだが、あの彼女と話す時は、いつもあんな感じで」
ギタリストは、そっとしておいてやろう、と奏汰に言った。
バーでは、頭の禿げかけた、グレーのくせ毛と口髭を生やし、青い瞳は美しい巨漢のマスターが人使いが荒く、奏汰が日本のアルバイトでカクテルを作っていたと知ると、演奏の合間や忙しい時に手伝わせた。
そのうち、演奏がない日にも呼びつけ、忙しくもない時間にも手伝わせるようになり、自分はカウンターの中でバーボンを飲むか、ギターを鳴らすかしていた。
奏汰がきちんと分量通りにカクテルを作っていると、「メジャーカップなんか使わないとわかんないのか?」とからかった。マスターは、豪快に注ぐあまりカクテルがグラスからこぼれたり、まだシェイカーに余っていても一向に構わないのだった。
「俺が作る時は、ちゃんと作ります。その方が、お酒も無駄にならないでしょ?」
言い返せるようになると、マスターは奏汰に任せるようになった。
ここでは、自分の意見を言わないとだめだと悟った。
それは、言って良い、ということでもある。
覚えていないカクテルのレシピは、スマートフォンで調べ、メモしてカウンターの中に貼付けておくようにした。
注文されて、わからない時は、マスターに訊いても「適当に作っとけ」としか言わないので、客にどんなカクテルかを訊き、自分の少ない経験でも、なるべくイメージに近いものを作ったつもりだった。幸い、味にこだわる客は、滅多にこの店には来なかったので、だいたいでも文句を言われることはなかった。
*
奏汰が日本を出発して一ヶ月半が経とうという頃、翔がニューヨークにやって来た。
空港で出迎えた奏汰は再会を素直に喜んでいたが、翔の方は喜ぶどころか、奏汰の出で立ちを、奇妙なものでも見るようにじろじろと見回した。
奏汰は、外したサングラスをTシャツの胸元に引っ掛けた。
「お前、普段から、そんなのしてんのかよ?」
「だって、アメリカ人は皆サングラスしてるよ、紫外線強いから。子供のうちに浴びた分が蓄積されて、大人になって影響出るから気をつけろって言われた」
「って、カッコ付けてたんじゃなくて、そんな理由!? コドモ扱いされてんのかよ!?」
ニューヨーク市内のアパートに、翔の荷物を置く。
身の回りの物と楽器関連くらいしかなく、まだ殺風景な部屋だが、窓からのぞく景色は映画で見たような街並みの、いかにも異国だ。
「かっけぇな! それにしても、引っ越し、思ったより早かったんだな」
翔がベッドに仰向けに寝転びながら、言った。
「ああ、マークさんの実家では犬と猫を飼ってて。犬はまだいいとして、部屋でベース弾いてたら、いつの間にか猫が入ってきて、ベースで爪を研ごうとしたのか、じゃれて引っ掻いてきたからビックリしてさ。あの猫、ドア開けられるんだぜ。おちおち練習してられなかったんだよ。引っ越すまでの間は、『Sidecar』で楽器預かってもらってた」
奏汰の腕と手の甲には、ベースを守ろうとして出来た引っ搔き傷が数カ所あり、ジーンズの上からでも足を引っ掻かれた跡があり、翔は同情した。
始めのうちは途方に暮れていた奏汰であったが、ギタリストに叱咤激励され、マスターに
翔がニューヨークに着いたとメールを送っても、相変わらず、ベニーからは返事がない。唯一、マスターにはたまに連絡が入り、翔を歓迎する内容と、今はオーストラリアにいて、あと二週間ほどで帰るとわかったところだった。
「戻ってくるのがレコーディング前日!?」
驚いて青ざめた翔に、マスターは別に同情的な様子もなく、おどけたように肩をすくめた。
「そうなるね!」
「一日で録るってのか!?」
翔も、始めの頃の奏汰と同じように、二の句が継げないでいた。
「俺がこっちに来た時もそうだったんだ。ベニーがいなくて、代わりにここでベース弾いてろって、わけがわからないうちにこうなってて」
奏汰が苦笑して打ち明けた。
バーもライヴも夕方からで昼間は時間があったので、映画や博物館などに行ってみた。
ボサノヴァのコンサートのチケットをスペイン人らしき男から買ったら、全然違うもので騙されたこともあった。
「ニューオリンズにも行ってきたよ。やっぱ、ジャズ発祥の地は見ておきたかったからさ。飛行機で三時間くらい。NYほど都会じゃなくて道路の幅も狭いから、通り沿いに並ぶ店をあちこち覗けて気楽に楽しめたよ。ミシシッピ川のクルーズではジャズも聴けたし、古き良きアメリカって感じで、のんびり出来た。ああ、ミシシッピ川って、すっげぇ広くてさ、あれが川なんてびっくりしたよ!」
翔は、奏汰のスマートフォンの画像や動画を見せられた。
「ミュージカルも見たよ。本場ブロードウェイってすげぇよな! 英語力なくても楽しめるし! 『アラジン』とか『オズの魔法使い』の魔女の話とか、ディズニー映画が元になった新しいのもあれば、『レ・ミゼラブル』、『オペラ座の怪人』とか定番も! そうそう、俺、ミュージカルに感動したからオーディションを受けようと思ったんだ」
「ちょっと待て。オーディション……って? オケでベース弾くんじゃなくて、歌って踊る方のか!?」
「うん。それで、受けるにはどうしたらいいか劇場にも聞いてみたんだけど、相手にされなくて。チケットのもぎりや清掃のバイトでもいいから、ここで働けないかって粘ったら、『お前はアーティストビザだから副業ダメだろ!』って。どうやら、ベニーのバンド以外の仕事は出来ないみたいで」
ごまかすように笑った奏汰を見る翔の目は、見開かれた後で、みるみる呆れていった。
「お前バカか? 完全に方向見失ってるだろ!」
「それくらい感動したんだってば! とにかく、ここは、すごくいい環境だって言いたかったんだよ。だから、レコーディングまで時間を潰すのも悪くないよ」
奏汰を見ていて、翔の頭には心配が
だが、ミュージカルやコンサート、ライヴは路上も含めて演奏レベルは高く、いつまででも聴いていたくなるほどだという。宣伝カーや突然のゲリラ・パフォーマンスが行われ、商品が配られたり、大物アーティストがサプライズで演奏することもあるというのには、人々を楽しませるエンターテインメントの国だからこそだと実感してしまう。
その夜、『Sidecar』でのライヴ1stステージは、翔は近くの壁に寄りかかり、見物していた。
奏汰がライヴに参加したばかりの頃、中国人ではなく日本人だったとわかると、客の中から「SUKIYAKI SONG!」とリクエストが上がった。
何のことかわからなかった奏汰も、今ではリクエストに応えられ、邦題『上を向いて歩こう』をベースのソロから始め、メロディーから聴かせるソロへと転じると、「Oh!」「Yeah!」と歓声が上がるようになる。
以来、店の客にも、カナタ=スキヤキ・ソングと思われていた。
原曲の4Beatから、奏汰の思い付きでジャズワルツにアレンジする。少しの打ち合わせとリハーサルで、ドラムもギターもすぐにしっとりとした、だが哀愁よりも、どこか可愛らしさのある世界観を造った。観客の中から、溜め息がこぼれる。
世代的に曲を知らなかった翔は、とても日本人の作った曲とは思えなかった。
作曲した中村
だからこそ、アメリカや世界で親しまれたのだろう。
日本でも、様々なアーティストがカバーしていた。
翔は、立っていることも忘れているかのように見入っていた。
奏汰のソロが日本にいた時よりも気張ることなく自由に動き回り、アメリカ人ミュージシャン達に劣らず、むしろ一体化して、馴染み、主張もしていた。
奏汰のやりたいことが理解出来る翔には、それが現れたところでは笑っていた。
しっとりで終わるのかと思いきや、ギタリストが合図し、華やかでテンポの良いジャズワルツに変わった。場の雰囲気を察知し、それが求められていると判断したのだ。ギタリストの勘通り、観客の中から拍手が起こった。
ステージが終わる頃、「お前、すっかりジャズメンだな!」と笑うと、「もう一人のジャパニーズ・ジャズメン、ショウ!」と、奏汰が翔の腕を掴んで挙げた。
「次のステージでは、ショウも演奏するから、お楽しみに!」
奏汰の呼びかけに応える観客の歓声に、翔は照れたように笑ってみせた。
リードギターと、コードを刻む翔のギター——二人のギタリストとドラム、ベースの編成で、2ndステージが行われた。
リハーサル済みとは言え、初めて合わせるメンバーに、気後れせずに入ることが出来たのは、翔にとって最も有り難かった。
なぜか、日本人とのライヴほど緊張しないのは、異国だからか。
席を立っていたり、手拍子を取ったり、踊ったりと楽しんでいる陽気な客たちと、共演ミュージシャンのアメリカ人ならではのグルーヴ感のせいか、気分が盛り上がり、楽しさが倍増する。
何を演奏しても観客は喜び、奏汰とのデュオも、試しに一曲披露しても反応が良い。
肩肘張らずでいい。
そう教えられた気になった。
少しだけのぞいてみるつもりが、そのまま居着いてしまうことも多い、ジャズの国。
奏でずにはいられない、自分の音を、音楽を探し、極めずにはいられない。
この街では、そんな想いが飛び交っている。
毎回違う曲で意外な展開をはかる奏汰と翔のデュオは「面白い」と、メンバーからも、一部の観客からも、リクエストされるようになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます