Ⅲ.(10)衝撃のボサノヴァ

 初めて訪れたライヴハウスで、奏汰と翔は、小綺麗な室内を見回していた。

 まだ新しい。

 天井が高い。

 マイクもケーブルも新しい。 

 ジャズ関連の本や漫画が並ぶ。


 出演者に関する情報は奏汰たちにはなかったが、スランプである今こそ、自分たちのチャレンジしたことのないジャンルであり、以前から気にはなっていたボサノヴァのライヴに行ってみたかった。


 ボーカルとアコースティックギターの二人、或は、ドラムも加わった三人で繰り広げられるステージだった。


 ベースがない!?

 奏汰も翔も、ベースに当たる低音とコードを同時にかき鳴らすギターに釘付けとなった。


 アドリブはどんなことになるのか注目すると、ギタリストひとりで、ところどころにコードを交えながら、アドリブをやってのけた。


 1ステージ目が終わり、奏汰も翔も、互いの顔を盗み見るように見合った。相手も同じ想いだと、表情を見ればわかりあえた。


 シェアハウスに駆け込むなり、

「琳都! ボサノヴァ弾ける!?」

 興奮した奏汰の声に、リビングで携帯ゲームをしていた雅人と琳都が、何事かと振り返った。奏汰の後ろで翔も期待のこもった目で琳都を見る。


 電子ピアノで弾き始めた琳都は、少しだけ弾くと、やめた。


「やっぱり難しい。僕にとってはオルガンの方が弾きやすいかな。明日の夜『J moon』のオルガンで弾くよ。ピアノでボサノヴァが聴きたかったら、確か、優さんが弾けたと思うよ」


「なにっ!?」

「えっ!? そうなの!?」


 翔と奏汰が同時に反応する。


 翌日、日中は、学校をサボった翔が、奏汰と楽譜売り場に行き、ボサノヴァギターの楽譜を買う。仕事中もそわそわしながら、奏汰は閉店になるのを待った。

 

 雅人と翔も駆けつけ、閉店後、琳都がジャズオルガンでボサノヴァを弾き始めた。


 右手でメロディーを、左手がジャズのコード(和音)を刻み、左足がベースを弾く。

 琳都の左手と足が、奏汰と翔がライヴで見たギタリストの役をすると同時に、ドラムの役割でもあると思った。


「ボサノヴァは変なとこにアクセントが付く。ここと、ここ。それから、裏拍とかシンコペーションが多い」


 琳都が弾きながら解説すると、奏汰と翔が大きく頷く。


「そうそう! 昨日のライヴでもそうだった! ジャズとは別の難しさだよな!」


 奏汰がベースを構え、ボサノヴァのベースラインを弾いてみる。


「アクセントの付け方は、そんな感じ」


 琳都が言う。

 ギターを構えた翔が、椅子に座り、足を組んでアコースティックギターを固定させる。


フォークギターフォークならコードかき鳴らすだけでいいけどな、昨日のライヴの他にも聴いてみたけど、アコースティックギターでちゃんと弾いてた。ボサノヴァはギターソロでも演奏してるけど、メロもベースもバッキングも、全部右手一つでやるんだぜ? リズムも難しいし、正直、やろうと思ったら相当めんどいぜ? その代わり、ベースは、いらないけどな」


「ひどっ!」


 奏汰が苦笑する。


「確かに、ギターの活躍で、ベースがいなくても出来ちゃうよな。普通にベース弾くだけじゃつまんないし、なんとか出来ないかなぁ」


「ドラム、難しそうだよ!」


 ボサノヴァの音楽データを試し聴きした雅人が嘆いているところに、私服に着替えてコンビニに行っていた優が戻った。


「優さん、ちょっとボサノヴァ弾いてみて下さい!」


「え?」


 さっそく奏汰が優をピアノまで引っ張っていく。


「これ、ギターの楽譜なんですけど」


 翔の楽譜をピアノの譜面台に置く。

 ギター用のタブ譜の上には、音符で書かれたメロディーとコードがある。

 ピアノのパートは書かれていないが、優は楽譜をめくり、メロディーとコードを見て弾き始めた。


 気怠けだるい、南国の風が吹く。

 甘ったるい酒、知らない果物……

 沈む夕日のように、どこか物悲しい。


 奏汰と翔がライヴで聴いた洒落た音楽とは、違っていた。


 柔らかいタッチで奏でられるメロディー、深く重なった音の響きに吸い寄せられる。

 頭の中に、勝手に情景が浮かぶ。


 優の演奏を凝視する奏汰と翔は、「ピアノにはかなわない」そんな気になってしまった。

 楽器の基本がピアノであると、つくづく身に染みる。


 演奏が終わると、二人はすっかり静かになっていた。

 今弾いたボサノヴァを、二人は頭の中で分析し、インプット中だろうと察した優は、ついでを装って語った。


「もともとのボサノヴァはこういう感じ。ジャズに近いかな。ジャズとサンバが組み合わさっていて、テンポが速いとサンバになる。そのうち、セルジオ・メンデスがボサノヴァをポップにしてアップテンポにしたらカッコ良くて広まったんだよ。サッカーで有名になった『マシュ・ケ・ナダ』は未だに人気があるよね」


 軽快で、リズミカル。

 ライヴで聴いたものに近く、躍動的だ。


 ふと、奏汰は、一曲目とは違う動きをする優の左手に注目した。

 コードは右手と左手で分散し、さらに左手は時々コード内の音を自由に動き回る。


「その左手、どう弾いてるんですか?」


「え? 適当だったからなぁ、今どう弾いたっけ?」


 優が少しテンポを落とし、何度か弾いて聴かせるのを、奏汰がじっと聴き取る。

 しばらく聴いていた翔は、自分の練習を始めた。

 雅人は、軽快なリズムに乗せるたボサノヴァの特徴であるリムショット(スネアドラムの縁を叩く)の、いたずらっ子のようなイレギュラーなアクセントに手を焼いていた。




「この俺が、最も難しいと、避けて来たジャンル、『ボサノヴァ』!」


 そう言う翔に、奏汰が笑って頷いた。


 今、これを練習することに意味があるのかは関係ない。

 やらずにいられない衝動が、二人を突き動かしていた。


 スケールの練習が後わり、ウォーミングアップも兼ねたボサノヴァの刻みパターンを試す。慣れてくると、検索した音楽データのギターとベースのデュオの中でも、なるべく取りかかりやすそうなものの聴き採りを始めた。


 再現しようとすればするほど、難しさを実感する一方だ。

 翔は大学を休み、ひたすら曲を聴き、耳コピーと練習に明け暮れていた。

 奏汰は音響講師の仕事で音楽学校にいる間は空き時間に聴き取り、帰宅後練習に取りかかった。


 独特なコード進行が心地良い響きに浸りながら、二人は弦をはじく。

 アコースティックギターが、ベースも兼ねてコードを刻む。

 それに乗っかったベースがメロディーを奏で、これまでと逆の役回りを試みた。


 アドリブに入ると、翔の技術でバックも聴き映えがし、奏汰は好きなように動けた。アドリブが翔にチェンジしても、奏汰が和音の響きを損なわないようベースラインを工夫すると、もの足りなく感じることはなかった。


「出来た……」


「ああ」


 放心した奏汰と翔が呟いた。


「いい感じじゃないか! 俺たち天才かも!」


 有頂天になった奏汰に向かい、翔が、ふんと鼻で笑った。


「バーカ! 俺が合わせてやったからだろ?」


「えっ? 俺も合わせたけど?」


 けろっと応えた奏汰を面白くなさそうに睨む翔だったが、「もう一回!」と、ギターを抱える。


 回を重ねるごとに二人のセッションは馴染み、調子に乗って、自由過ぎるアドリブまで展開した。


 真似から始まったものは、いつの間にか、ノージャンルの曲へと移り変わる。

 ジャンルにこだわらず、自由に。


 互いに多くの役割があり、難易度は高いはずであったが、まるで、それを楽しむように、二人の表情が笑顔になる。


 いつの間にか数時間が経過していたことに、二人は驚いた。

 まだまだ本物の粋には達していないとはわかっていたが、楽しさのあまり、数曲、録音してみることにした。

 レコーダーのRECボタンを押したまま、二人は自由に弾き続けた。

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