Ⅲ.(3)対面

 奏汰が、雅人とのシェアハウスに引っ越したのは、それから間もなくであった。

 ベッドは既にあり、冷蔵庫やキッチンは共同なので、楽器と身の回りのものだけ持ち込めば良かった。


 皆で集まるリビングが、音楽の話をしたり、練習をしたりする場である。

 楽器は、生のピアノは不可であったが、キーボードや電子ピアノ、近所に迷惑をかけない程度の音量であれば、アンプを通した音も出して良かった。


「キーボードの二人はこっちに住むかはまだはっきり決められないみたいなんだけどさ、とりあえず練習用のキーボードは持ってきてくれたんだ」


「翔は、ここに住んでないのか?」


「あいつは彼女と同棲してるから、ライヴ前とか必要な時にしか来ないと思う。だから、ここは皆にとってはオアシスなんだよ。部室よりもな!」


 そう言って雅人が笑うと、二人の後輩も、部室では見せない笑顔を見せた。


 さっそく、奏汰がベースと、曲のコードのメモを取り出す。


「あれ? お前、ベース変えた?」


 雅人が、奏汰の手にしているベースに注目する。


「5弦ベースなんだ。ジャズ弾くにはウッドベース(コントラバス)みたいな低音が欲しい時もあってさ、これは、4弦ベースよりさらに低い音が出せるんだ。慣れれば、4弦より左手の運指(指の移動)が楽だし、音域広がるから、より自由に弾けるんだ。4弦とは、値段もそんなに違わないし」


 雅人の見慣れた4弦ベースも、スタンドに置かれていた。


「簡単に、『慣れれば』なんて言ってるけど、相当練習しないと慣れないだろ? ネックだって4弦より太いんだし」


「まあね。初めの頃は、つい4弦のクセが出ちゃってたけど」


 軽く笑う奏汰に、雅人が少し尊敬の目を向け、キーボードの二人は、わけがわからないながらも、なんだかすごいことらしいと顔を見合わせた。

 雅人の練習用ドラムセットも、トレーニングパッドの音量を調節し、奏汰のチューニングが終わると、練習が始まる。


「AメロとBメロでは、ベースを、こういう風に変えてみたらどうかって、思いついたんだけど」


 奏汰が、ベースのパターンを弾いてみせる。


「そうだな、そんな風にパターン変えた方が、変化があっていいな! だったら、ドラムも……」


 奏汰に合わせて、雅人が、ドラムのパターンを変える。


「この方が、サビが引き立つな!」


 雅人が皆に笑いかけ、キーボードの二人も頷いていた。




 楽しい練習の日々が続き、次の『J moon』定休日の時、日中練習を終えた奏汰が、夕方になってから、蓮華と待ち合わせる。


「ごめん、明日さっそくライヴで。二時間だけもらってきた」


 ホテルのラウンジで、奏汰は、蓮華にすまなそうに言った。


「せっかくなんだから、今は頑張って。お店の定休日は、またあるんだから」


 蓮華は、にっこり笑った。


 奏汰はシェアハウスでの練習のことを話し、蓮華はワインを傾けながら、奏汰の話を聞き、微笑んでいる。


 席を探していた男女が、二人の前を通った。

 黒い服を着た、長身のすらりとした男と、長いウェーブの女が通りかかった時、男と奏汰の目が合った。


「あ……」


 二人は、互いの顔と、連れの女性を見合った。


「翔じゃないか!」


 声をかけたのは、奏汰の方からだった。


「ちょっと弾き方変えたところあるんだ。明日のライヴ前に合わせておかないか? この後、練習あるからシェアハウスに来いよ」


「お前、見てわからないか? 俺は今デート中なんだよ。練習なんか、明日の昼間でも間に合うぜ」


「ああ、そう……。俺は、早く、翔とも合わせてみたかったんだけどなぁ!」


 残念そうに言う奏汰を、うっとおしそうに翔は見返した。


「席いっぱいみたいだから、良かったら隣どうぞ。私たち、もうすぐ出るから」


 蓮華が微笑んだ。

 二人は、奏汰と蓮華の隣の椅子に腰かけた。


「あなたが、あのギターの? 奏汰くんと同い年に見えないわね。大人っぽいのね」


 蓮華が感心すると、翔はツンケンした態度ではありながらも、まんざらでもなさそうに微笑んだ。

 翔の隣の女に、奏汰も話を振った。


「菜緒さんは、音楽は何かされるんですか?」


「私、普段は外資系の会社に勤めていますが、たまにボーカルをやっているんです」


「あら、そうなの? あたしも少しだけ歌ってたの!」


「そうでしたか」


 話が弾んでいたところで、翔の電話が鳴った。

 席を立って、ラウンジから出たところで電話に答える。


「……きっと、また女ね」


 菜緒は、溜め息混じりに呟いた。


「えっ?」


 奏汰が、菜緒を見る。


「あっ、やだ、私ったら……! 何か言ってました?」


 取り繕う菜緒に、蓮華が控えめに切り出した。


「初めて会ったのに、こんなこと言うのは失礼だけど、……なんだか、菜緒さん、彼に遠慮してない?」


「そ、そんなこと……」


 慌てて打ち消す菜緒であったが、蓮華の話しやすい雰囲気に、打ち明けた。


「彼があまりにも眩し過ぎて。私じゃ、釣り合い取れないんじゃないかって……。そう思うと、彼のすることには、口を挟む気にはなれなくて……」


「でも、翔の同棲相手って、あなたですよね? だったら、あいつの本命はあなたなんだから、遠慮することないと思いますけど?」


「一緒に住んでるからといって、私が本命とは限りません」


 菜緒は、悲しそうな顔になった。


「私が許さなければ、彼は、とっとと他の女のところに行くに違いないわ」


「だからって、言いなりになってはダメだと思うの。余計に彼は付け上がるわ」


 その蓮華の言葉に、菜緒は顔を上げた。

 その前に、蓮華がにっこりと笑って続ける。


「あたしは、奏汰くんと十歳離れてるんだけど、菜緒さんも、翔くんより、いくつか年上なんじゃない? 年上だからって物わかりのいい女を演じなくてもいいって、あたしもやっと最近、思えるようになってね……」


「そいつは、俺の一回り上だよ」


 電話を終えた翔が、蓮華の話を遮った。


「えっ、あたしより年上だったの?」


「へえ、すっごく若く見えますね!」


 同時に驚く蓮華と奏汰は、小さくなる菜緒を改めて見つめ直した。


「いいなぁ、『はかない美人』って感じで。翔って、乱暴者っぽいイメージだけど、こういう守ってあげたいタイプが好きだったんだ? 意外だけど似合ってるよ」


 奏汰が感心した。


「守ってあげたいだと?」


 翔が横目で菜緒を見る。菜緒は、少し嬉しそうに頬を染めていた。


「お前も、こういうねーちゃんと付き合ってたとは、意外だな」


 翔が、蓮華を顎で指した。


「あら、どういうねーちゃんだって言うのかしら?」


 面白そうに蓮華が尋ねる。


「別に。おせっかい焼きの、年上の『』って意味だよ」


「そうなのー」


 蓮華はころころ笑っている。

 奏汰は、翔が、『お姉サマ』を強調したことに引っかかった。


「バイト先のママじゃ金もあるし、いろいろ尽くしてくれて融通も利くし、便利だよなぁ?」


「だから付き合ってる、ってわけじゃない」


 奏汰が真面目な顔で、じっと翔を見ながら答えた。


「へー、どうだか。ホントは、ヒモなんだろ?」


 にやっと挑発的に笑う翔に、奏汰はムカッと来た。


 パシャッ


 その時、翔の頭のてっぺんから、赤い液体がしたたり落ちた。


 ぎょっとした奏汰と同時に、菜緒が小さく「きゃっ!」と言った。


 立ち上がった蓮華が、持っていたワイングラスを逆さにしている。

 何が起きたか理解出来なかった翔が、じろっと、怒りの形相で蓮華を睨んだ。


「なっ、何をするんです!」


 菜緒が、翔の髪と服にこぼれる赤ワインを、慌ててハンカチで拭く。


 驚いていた奏汰も蓮華を見上げると、蓮華の目はつり上がっていた。


「熱湯じゃなかったことに、感謝するのねっ!」


 蓮華は、バン! と音を立ててテーブルを叩くと同時に、数枚の札を置いた。


「お騒がせ料と、クリーニング代よ。ああ、シミが落ちなかった時は、どうぞ、新しい服でも買ってちょうだい! いかにもお金ある人みたいな、こんなお詫びの仕方でごめんなさいねっ!」


 蓮華は、ぷんぷん怒りながら、奏汰の腕を引っ張り上げた。

 奏汰は振り返りながら、蓮華に連れられていった。


 ホテルをずかずか出て行く蓮華の後を、奏汰が付いて行く。


「許せない、あいつ! 奏汰くんのことバカにして!」


「俺のことならいいよ。誰だって、そう思うだろうから」


 蓮華は怒った顔のまま、奏汰に向き直った。


「少しは怒ったら? 人が過ぎるわよ!」


 奏汰が笑い出した。


「蓮華が仕返ししてくれたから、もういいよ。俺のことなんかより、蓮華が侮辱されたことの方が頭に来た」


 少し冷静になった蓮華は、はっとした。


「あたしのしたことで、奏汰くんが仕返しされちゃうんじゃ……。しかも、明日、あの子とライヴだって言ってたわよね?」


「大丈夫だよ、俺のことは心配しなくても。あいつだって、ライヴでは、ちゃんとやってくれると思う。本番前にも練習で会うし」


 蓮華は下を向いた。


「ごめん、あたしのせいで、奏汰くんが嫌な目に……」


 奏汰は笑って、蓮華を覗き込んだ。


「俺は嬉しかったよ。蓮華が、俺のこと、すごく大事に思ってくれてるんだってわかって」


「奏汰くん……」


 脇を通る車をよけるように、奏汰が蓮華の手を握って、引き寄せた。

 握られた手を見るうち、笑顔になる蓮華を、安心したように見つめ、そのまま手を離さず、帰り道を歩いた。

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