Ⅱ.(9)すれ違う想い

     *


 普段は明るく、声の大きいめぐみだったが、手にしていたサンドウィッチに口を付けずに、遠慮がちなトーンで切り出した。


「余計なお世話……だけどさ……、『彼氏にしてはいけない3B』っていうのを、ネットで見付けてね、美容師、バーテンダー、バンドマンなんだって。さらにね、『彼氏にしてはいけない4B』っていうのが、美容師、バーテンダー、バンドマン、ベーシストなんだって」 


 日増しに減っていく美砂の昼食に視線を落とし、めぐみが続けた。


「美砂の彼、美容師以外、思いっ切り当てはまってるよね?」


 関連記事を探す気にもなれない美砂は、溜め息を吐いた。


「……バンドマンの彼氏とうまく続けていくのは大変っていうのは、ちょっとわかる気がするよ。うまくなるためには、たくさん練習しなくちゃいけないし、義務っていうより、自分から進んで。だから、本当は、彼女に割いてる時間なんて、ないんだろうね」


 明るく言ったつもりの、美砂の目が潤んでいく。


「ホント、余計なお世話だけどさ、美砂のことが心配なんだよ。いつも我慢してるみたいで。最近、美砂が幸せそうに見えないよ」


「奏汰くんは、真面目なだけなんだよ」


「いくらその彼が真面目だったとしても、美砂が楽しくないと、違うんじゃないかな」


 めぐみの必死な目を、美砂は、強く見返すことが出来ないでいた。


     *


 『J moon』閉店後、私服に着替え終わった奏汰が、帰りの挨拶をと顔を出すと、蓮華と優が珍しく言い合いをしていた。

 どちらかというと、蓮華の口調の方が強く、優は冷静に返しているようだ。


 話の内容を少しでも聞き取ろうと、おそるおそるのぞくと、すぐに蓮華に見つかった。


「あら、奏汰くん、お疲れさま。もう帰っても大丈夫よ」


 いつもと変わらない笑顔のように見えた。


 普段と代わり映えのない二人を見ないようにして、「お疲れさま」と言って、早歩きで階段を上がった。


 琳都が家に帰り、奏汰が一人暮らしに戻ってからも、蓮華が彼のアパートに来ることはなかった。


 美砂に遠慮しているのかも知れない。

 本当に黙認、いや公認しているのか。

 自分のことは、ただ可愛いだけの存在なのか、という想いが、じわっとやってくる。


 もやもやした想いを抱えたまま、アパートで、ベースを抱えていた。

 アンプを通さないベースの弦を、はじいてはいても、気持ちは上の空だった。


 指だけは、正確に弦を捕らえていた。

 特に工夫のない、無難なフレーズ。


 そんなの、意味がない。

 気持ちが入っていなければ、弾き方も歯切れが悪いし、良いフレーズなんて出て来ない。


 身にならない練習を切り上げ、ゴロンと、ベッドに横向きになる。


 蓮華は、奏汰から見れば、自分と知り合う前から店を経営していて、自立した大人の女性だ。

 何より、優がいつも側にいる。何かあれば、自分よりも、年の近い優を頼ればいい。

 蓮華は、自分がいなくても、充分ひとりでやっていけるのだ。


 最近、須藤が、店に通い出したのも気になっている。

 彼も、蓮華に惹かれているのだろうか?

 蓮華とも、なんだか親密に見えなくもない。

 もし、優よりも、彼の方が親しくなっていたら……?


 だとすれば、少し――いや、大分、気に入らなかった。


 蓮華のことでは、いつもやきもきしてきた。

 どうしても、彼女と対等になることが出来ないと思うと、自分に相応しい、等身大の恋愛をするべきなのかも知れない。

 そう思うなら、答えは出ているはずだが、決定出来ないのは、いったいなぜなのか?


 奏汰の中では、何も解決しないまま、数日が過ぎていった。




「この頃、奏汰くん、悩んでるみたい」


 二人で歩いていると、ふいに美砂が言った。


 奏汰は、言葉に詰まった。

 心の中で起きている動揺を、美砂に悟られないよう、奥にしまい込むのに手間取った。


「私、どうすれば……?」


 否定が間に合わなかった奏汰は、精一杯、包み込むように微笑んでみせ、美砂の頭に、ポンと手を置いた。


「美砂ちゃんは、そのままでいいんだよ」

「そのままの私って、奏汰くんにはどう映ってるの?」

「え? 可愛くて、純粋で、いい子で……」

「奏汰くんは全然わかってないよ」


 今までにない強い口調に驚いた奏汰は、口を噤んだ。


「私、そんなに純粋ないい子じゃない。ピーチ・フィズが似合う子なんかじゃない。実はすごく計算高くて、私のこと好きじゃなくてもいいなんて言ったのも、私の方に振り向かせるための計算かも知れないんだよ?」


 泣き出しそうな顔で、美砂がじっと見上げた。


「奏汰くんが私を好きになろうとしてくれてるのは、わかる。蓮華さんには頼らないようにしているのも、わかってる。私は、いつかは私のことだけを見て欲しいって思ってる。でも、私がもっと一緒にいたいと思うことは、奏汰くんの邪魔になっちゃうの。応援してるつもりだったけど、このまま続けてたら、……音楽やめてって言ってしまいそう。彼女なら——蓮華さんならもっと、奏汰くんのために出来るのに……」


 耐え切れなくなった涙の粒が、こぼれ落ちた。


「奏汰くんには、いつも彼女の影を感じてしまってた。奏汰くんのこと格好良いと思っても、好きだと思っても、それは、彼女の力だったのが大きいんだよね。彼女がいい人だから嫌うことも出来なくて、奏汰くんのやさしさにもずっと甘えてきて……ごめんなさい」


「そんな! 美砂ちゃんが謝ることなんかないよ。全部、俺がはっきりしないのが悪かったんだから!」


 奏汰の手が、嗚咽する美砂の肩に触れようとして、止まった。


     *


「結局、私は、いろんなものに負けてしまったんです」


 その夜、美砂は、須藤にメッセージを送っていた。

 すぐに、須藤から電話がかかってきた。


「ミュージシャンを目指す人の彼女には、なりきれなかったみたいです。私はただ普通の付き合いがしたかったんだと思います。どっちかが無理してたり、両方が無理してたりするなら、……それは、もう、付き合ってる意味なんて、ないですよね」 


 感情のこもっていない声になっていた。

 そうしないと、泣いてしまいそうだったから。


「奏汰くんのそばにいてあげられるのは、私じゃなかった。奏汰くんに憧れてた……それだけで良かったのに……多くを望んだりしたから……。私、全然いい子なんかじゃなかった。奏汰くんにもひどいこと言って、どんどんイヤな子になっていって……」


『そうじゃないと思うよ』


 電話の向こうでは、須藤の真剣な声がする。


『望むのは当たり前だよ。嫌な思いをしたかも知れないけど、彼とのことを後悔したり、否定したりしないで。苦しかったかも知れない、彼のことは見てるだけでやめておけば良かったと思うかもしれない。だけど、見てるだけだった時よりも、確実に、美砂ちゃんはバージョンアップしてるはずだから!』


「どうバージョンアップしてるって言うんですか? 私、全然だめなのに」


『だめじゃないよ。人はそうやって成長していくんだと思う。上から言ってるように聞こえたらごめん。辛い、苦い想いを経験してこそ、人の痛みがわかるようになっていって、それが年を取るってことだと思うから。だから、いくつになっても純粋なだけの人間なんておかしいって、俺は思う。純粋なだけの時よりも、その分魅力が増えていって……あの、聞こえてる?』


 美砂は口に手を当て、見えない相手に向かって、何度もうなずいていた。

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