Ⅱ.(10)素顔のままで

『話があるから』


 勇気を出して、そうメッセージを送った奏汰に、しばらくして蓮華から返事があった。


『明日、仕事の後、ベイサイド・ホテルのラウンジで。そこなら、落ち着いて話せるわ』


 翌日、ベース・レッスンの終わった奏汰は、ベイサイド・ホテルのラウンジに向かった。


 緊張しながら待つと、約二〇分後に、蓮華が現れた。


 カーキ色の皺加工されたワンピースと、粗く編まれた生成りの短いボレロをはおり、茶系のロングブーツを履いている。

 ふんわりとしたウェーブの毛先が、胸元で弾んでいた。


 私服姿の彼女を見るのは、久しぶりだった。そうしていると、二〇代前半あたりの普通の女性に見え、バーのママにはとても見えない。


 二つ横に並んだ、革張りのウイングバックチェアに腰かける。

 赤ワインのグラスが来ると、二人は「お疲れ」とだけ言い合い、黙ってワインを飲んだ。


 ベースのレッスンの様子を簡単に報告してから、奏汰は、考え考え、蓮華の様子を見ながら、本題を語り始めた。


 美砂のことを可愛く思ったのは事実であり、蓮華には甘えず、美砂との等身大の恋愛をするべきなのではないかとも考えた。

 そのいきさつは、自分は蓮華に頼られていない、と思っていたことが大きかった。

 優や須藤のような、自分よりも年上の、包容力もある男たちの方が、蓮華にもふさわしいのではないか、とも考えてしまった。


「だけど、音楽が第一の俺じゃ、美砂ちゃんが犠牲になってしまうことにも気が付いた。彼女に気付かされたんだ、彼女をただ可愛いいと思うだけじゃだめだって。俺は、自分が蓮華に頼られずに淋しい想いをしているのと同じことを、美砂ちゃんにもさせていたんだ、って」


 途切れ途切れになりながらも、なんとか語り続ける。


「美砂ちゃんがどう思ってたかも、ちゃんと見てなかった。結局、俺は、美砂ちゃんを傷付けただけだったのかなって思うと、今でも、ここんとこが、ぎゅーって、締め付けられるみたいで」


 奏汰が、シャツの胸の辺りを掴む。


「それでも、蓮華には会わなくちゃいけないって、……ちゃんと会って話をしようって思ったから」


 俯き加減の蓮華を見つめながら、続ける。


「美砂ちゃんと対等に付き合うものだと思ってはいても、考えていたのは、いつも蓮華のことだった。今は、……虫が良過ぎるだろうけど、……蓮華と一緒にいたいと思っている。ああ、あっちがだめだったからこっち、ってわけじゃなくて!」


 これまで、蓮華は、ずっと彼の話に耳を傾け、時々、相槌あいづちを打っていた。

 どう話していいか行き詰まった時には、蓮華の方から、彼の言いたいことを引き出せるよう、質問して、誘導していただけで、まだ彼女の意見を、奏汰は聞いていなかった。


 二人の間には、再び沈黙が訪れる。

 ほんの僅かな間であっても、それが、奏汰にとっては、裁判の判決を待つにも等しい。


「あなたは、まだ若いから、もったいなくて。何も、あたし一筋じゃなくてもいいと思って……。ごめんね、もともとは、あたしのせいで、奏汰くんにも、彼女にも、辛い想いさせてたんだね」


 ハッとして、奏汰は顔を上げた。


「違うんだ! 他の女の子と恋愛していいって言われたからって、真に受けた俺がバカだったんだから。美砂ちゃんも、俺のためを思ってくれた蓮華も、悪くないよ!」


「美砂ちゃんみたいな健気な子なら、奏汰くんはきっと本気になっていくだろうって。そう思ったら、居たたまれなくなっちゃって……。自分から、奏汰くんに恋愛しろって言っておきながら、本当は、やきもきしてたの。まさか、ここまで自分でも動揺するとは思わなかったわ」


 俯く蓮華の瞳を、黙って、奏汰の目が追った。


「優ちゃんには、全部見抜かれててね、怒られちゃった。ちゃんと、奏汰くんと話し合えって」


「優さんが……?」


 少し前に、蓮華と優が話していた時だろうと、咄嗟に思い出した。

 長年付き合いのある蓮華を見ていればわかるってことか。


 奏汰は、ふっと、負けを認めたような顔になった。


「……優さんは大人だよな。正直言って、優さんには引け目を感じちゃって、相談する気にもなれなかったんだけど、やっぱり、俺とは器が違うんだな」


 蓮華は決心がついたような表情で、奏汰を見上げた。


「あたしも正直に言うとね、……この間、須藤くんにキスしちゃったの。信じてもらえないかも知れないけれど、話すうちに元気をもらえたから、お礼したくなって」


 蓮華が動揺していたと知った後では、少し余裕が生まれたのか、不思議にも寛容に受け止めることが出来た。

 心配そうな顔の蓮華に反して、奏汰は、穏やかな顔つきだった。


「話してくれてありがとう。黙ってた方がアヤシイし、話してくれたってことは、俺を対等に見てくれてるってことだもんね」


 蓮華は意外そうな顔で、奏汰を見つめていた。


「いつも、蓮華のことではやきもきしてた。だけど、蓮華も、少しは俺のことで……やきもきしてくれてた……ってこと?」


 蓮華は少し返答に迷っていたようだったが、そのうち小さく頷いた。


「余裕のある大人の女なんかじゃ、まったくないわね」


 困ったような蓮華を見つめるうちに、奏汰の中に抑え切れない想いが湧き出し、思わず椅子から乗り出して蓮華を抱き寄せた。


「今日は一緒にいたい。今すぐにでも……!」


 耳元で囁く奏汰の声に、蓮華の瞳が揺れた。


「つまり、その……許してくれたら……なんだけど」


 すまなそうに言う彼に、蓮華は微笑し、うつむき加減に、うなずいた。


「あたしこそ……許してもらえるなら」




 穏やかに移り変わった時の中で、奏汰の胸に下がったドッグタグの文字を、愛おしく、ゆったりと、蓮華の指がなぞっていく。


 茶色い短い髪がかかる耳から、首筋を通り、鎖骨、頬へと、唇がやさしく押し当てられていった。


 薄化粧の頬を撫でるように進み、ルージュの取れた唇を包みこむ。


 相手を思い遣る口づけは、ゆっくり繰り返された。


「美砂ちゃんにフラレた後、これでも真面目に考えたんだ、恋と愛の違いを」


 言ってしまってから、急に恥ずかしさにおそわれた奏汰が、すぐに黙った。


「それは、興味深いわね」


 彼女が、笑い飛ばし、からかうような性格ではなかったため、奏汰は安心して話を続けられる。


「恋愛的な欲求は蓮華で、癒し的なものを美砂ちゃんに求めていたんだと思ってたけど、そういうことじゃなかったのかも。美砂ちゃんには、恋だったんだと思う。蓮華にも、最初のうちは恋で――」


 黙って微笑む蓮華を、照れ臭そうに見つめ直した。


「蓮華のことをいろいろ知っていくうちに、気が付いたら、もっと好きになってた。いつも気になってて、いつの間にか考えてて、……蓮華が側にいないことが不自然になってた」


 なんとも言えない表情で、彼女を見る。


「何気ないことかも知れないけど、こういうのが愛なのかな? 俺には、そう思えたんだ」


「奏汰くん……」


 彼を見つめていた蓮華が、視線を反らした。


「……困ったわ」


 奏汰が不安そうな目で、覗き込んだ。


「俺が、蓮華を……愛してたら、困るの?」


 ハッとした蓮華は、慌てて「ごめんね、違うの!」と、言った。


「どう反応していいかわからなくて、困ってるだけ。そんな風に、『愛』だなんて言われたこと、あんまりなかったから、なんか……感動しちゃって……」


「蓮華でも、そんなことあるんだ? 意外と不器用なんだね」


「なによ」


 拗ねた顔になった蓮華を、奏汰が抱きしめた。


「蓮華のこと、わかってたつもりになってただけで、全然わかってなかった。男並みに不器用で、意外とヤキモチ妬いてて……」


 何か反論したそうな蓮華だったが、奏汰の腕の中でおとなしくする。


「今度こそ、はっきりわかった。俺は蓮華がいい。例え、蓮華の心の中に、他の誰かがいたとしても……今でも、今後でも」


「……そんなこと、言ってくれるの?」


 奏汰の髪をかきあげる蓮華の仕草は、愛しさに満ちていた。


「あたしは、奏汰くんのものなの」


 潤んでいる蓮華の瞳を、愛おしそうに、そして、せつなそうに見つめてから、奏汰は、柔らかく抱きしめた。

 蓮華の頬を伝っていったものは、控えめに光っていた。

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