Ⅱ.(8)月明かりの下で

 奏汰が、従業員用の扉から店内に現れた。

 ボタンを開けた襟と、腕まくりをした袖の裏に斜めのストライプが入った黒いシャツ、黒いパンツとショートブーツ姿だ。

 ワックスで少し散らした茶系の髪と、茶色寄りの大きめの瞳が、黒い衣服でも暗い印象を与えない。


 ステージで消音機能のあるウッドベースをアンプにつなぐ。ボーカル用マイクもセッティングする。

 コンサートの裏方を経験していた彼には、このようなことも任されていた。


 後からやってきたボーカリストとマイクのテストをし、ミキサーを調整する。

 それが終わると、ギタリストとともに、奏汰もベースのチューニングを始め、本番が始まった。


 バラードをメインに選曲した演奏が始まる。


 『Moonlight in Vermont――バーモントの月』。


 美しい和音を響かせる、スロー・テンポでムードのある曲調にもかかわらず、女性ボーカルの歌う歌詞は、アメリカ・バーモント州の風景を描く、意外にもラブソングではなかった。

 ボーカリストは、「皆さんなりの解釈で、恋愛の歌にしても良いと思いますよ」と、微笑んでコメントする。


 1ステージ目が終わり、須藤が手を振ると、彼と美砂に気付いた奏汰が向かうが、途中で、数人の女子グループに引っ張り込まれる。須藤と美砂に苦笑いしながら、すまなそうに手を挙げた。


「メンバーの中で、彼だけすごく若くて、ちょっと浮いちゃうかと思ったけど、バラードの曲が多かったのと、ウッドベースのせいもあるのか、落ち着いて余裕のある演奏に聴こえたよ」


「須藤さんも、そう思いました?」


 真面目にそう言った須藤に、美砂が嬉しそうな顔になるが、女子グループから抜けたと思うと、今度はバンドメンバーに引っ張り込まれている奏汰を、遠目から見ていた。


「前から思ってたんだけど、なんだか美砂ちゃん、彼に遠慮し過ぎてない? 彼にとっては音楽が一番だと割り切ってるにしても、ね」


 驚いて須藤を振り返る美砂からは、笑顔が消えた。

 思い詰めた表情で、迷いながら口を開いた。


「……割り込んだの、……私の方なんです」


「……!?」


「奏汰くんには、既に付き合ってる人がいて……」


 美砂は、テーブルのカクテルを見つめる。


「だから、彼にとって、私は、音楽の次の次なんです」


 美砂は、初めて他人に本心を語っていた。

 しばらく、美砂を見つめていた須藤は、考えてから口を開いた。


「出会った順番は関係ないって、俺は思うよ。だから、割り込んだとか、そう考えることはないと思う。彼と美砂ちゃん次第でいいんだ、ってね」


 美砂が顔を上げる。

 須藤は、普段よりも控えめな笑顔だった。


     *


 その日は、須藤だけが、『J moon』を訪れていた。


 彼のキープしていたボトルを、蓮華が取り出す。

 国産ウイスキー『竹鶴』だった。


「勧めてもらったこれ、美味いよね!」


 グラスに氷を入れ、そこへ、蓮華がウイスキーを注ぐ。


「日本人が、初めて作った本物のウイスキーだって言ってたよね? スーパーでもコンビニでも見かけるけど、飲んだことはなかったんだ。俺、ワイルド・ターキーとか、クセのあるウイスキーも好きだったけど、このウイスキーは全然クセがなくて、まろやかで飲みやすいよね!」


「そうなのよ! お気に召したなら何よりだわ。あたしはウイスキーの香りが苦手で、若い時は避けてたんだけど、これは香りが全然嫌じゃなくて、むしろ良いくらいで。ハイボールでもいいし、水割りかロックで飲むのもお勧めよ。ロックなら氷が少し溶けるまで待って」


 蓮華が微笑んだ。


「この間、奏汰くんの休みの日を聞くから、てっきり、美砂ちゃんと二人で来るのかと思ったわ」


 須藤が、カウンター越しに蓮華を見つめる。


「ママと、ゆっくり話したかったから」


「あら、それは光栄ね。話ってなあに? 奏汰くんのこと探りに来たの?」


 にっこりと、蓮華は、須藤の端正な顔に微笑みかけた。


「やっぱり、バレてた?」


「あたしは、そういうの鋭いんだから隠しても無駄よ。美砂ちゃんのこと、好きなんでしょ?」


 観念したように、須藤が頭をかいた。


「まいったな。いつから、わかってた?」


「初めてお店に来てくれた時にピンと来たわ。ライバル偵察に来るなんて、大胆よねぇ!」


「だったら、単刀直入に聞くけど、ママなら、奏汰くんの本命の人のこと、知ってるよね? 美砂ちゃんとは別にもうひとりいるらしいんだけど?」


「それを聞いて、どうするの?」


 宥めるような蓮華の声に、須藤は言葉に詰まった。


「……だよね。俺が入り込む問題じゃないし……。じゃあ、いいか、知らなくて」


「今日は、それを、わざわざ確かめに来たわけじゃないでしょう?」


 大人の女の微笑みを前にして、観念した須藤は、少しだけ考えてから切り出した。


「これでも、大学の時はこんなに奥手じゃなかったんだけどね。美砂ちゃんには強引に押すと引かれそうで、……正直、どう接したらいいかわからなくて、単なる上司としてしか振る舞ってこなかったんだけど……」


 自信に満ちあふれた普段の彼は姿を消し、謙虚な瞳で蓮華を見上げる。


「その間に奏汰くんに持っていかれ……っていうのもおかしいか。美砂ちゃんは高校の時から彼に憧れてたんだもんな。もともと俺なんかの入る隙間なんて、なかったんだよな。それでも、ずっと彼女のことは放っておけなかった……」


 蓮華は、自信を失いかけている須藤を見守るように見つめた。


「……そうね、ちょっと難しいかもね。夢を追うタイプの子に憧れる女の子を振り向かせるのは」


「そうなんだよねぇ。彼には、音楽とかカクテルとか、武器がいろいろあってカッコいいのに、俺には何もないもんなー。せいぜい仕事がちょっと出来るくらいで……ああ、ちょっとだけだよ。自分で言うのもなんだけど、俺ってイケメンな方じゃない? なのに、社内では、どっちかっていうと三枚目扱いだし、美砂ちゃんもそう思ってるし……、あ~あ」


 溜め息をつく彼に、蓮華が強気な笑顔になった。


「大丈夫! あなたって、とってもいいひとだから! 今、音楽中心の生活になっちゃってる奏汰くんにはなくて、あなたにあるものって何だと思う? あなたの大人としての思いやりと包容力、それと、そのハートの熱さよ」


 その蓮華の言葉に、須藤も、肩の力の抜けた笑顔を見せた。


「そうかな? ……やっぱ、それしかないか!」




 会計を終えた須藤を、蓮華が扉の外で見送る。

 地下から地上への階段の上には、満月が覗いていた。


「ここって、絶景ポイントだったんだね」


 階段を数段上がったところで、須藤が振り返り際だった。


「頑張ってね!」


 蓮華が須藤の顔を両手で包み、軽く唇を合わせた。

 戸惑う須藤に、おとなしめに微笑む。


「今日は、来てくれてありがとう。須藤くんと話して少し気が楽になったから、個人的にお礼しただけ。気にしないで。そして、忘れて」


 そう言って手を振り、階段を下りようとすると、須藤が壁に手をついて引き留めた。

 真面目な表情になった彼を、蓮華の瞳がとらえた。


「じゃあ、お返し。俺の方こそ、ママには、かなり勇気付けてもらったから」


 静かに言い終わると同時に、唇が重なる。

 見開かれていた蓮華の瞳も、徐々に閉じられていった。


 月明かりに照らされた階段に沈む、二つの影は、しばらく動かなかった。


「……長いわよ」


 ハッと目を開けた須藤は、照れて笑った。


「ごめん、ごめん! 久しぶりだったから、つい」


 笑った後で、探るような目になった。


「もしかして、……誰かを思い浮かべてた?」


「いいえ、別に」


 にこっと蓮華が答えると、何事もなかったように、須藤は笑顔に戻った。


「また来るよ」


 蓮華も笑った。


「お待ちしてるわ」


 店に戻った蓮華に、カウンター内で、すっと並んだ優が小声で言った。


「口紅、取れてるよ」


「そう? 塗り直してくる」


 自然な受け答えで裏手へと消える蓮華を、優の、何かを察したような視線が追いかけていた。

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