Ⅱ.(5)同級生

 美砂と奏汰が時々行っていたピアノバーでは、その日、百合子は来なかった。


『私、これから、コンクールに向けて、ピアノの練習に専念するから。奏汰、邪魔しないでよ! 美砂ちゃん、ごめんね! また今度ね!』


 百合子に無理矢理作らされたSNSの三人グループには、そんな彼女からのメッセージが入っていた。


「優さんのことで落ち込んでるかと思ったら、切り替え早っ!」

 

 文面を見た奏汰が目を丸くする。


「でも、まあ、目標が出来て、進もうとしているのなら、とりあえず元気なのかな?」


「もしかして、忘れようとしてるのかも……?」


 美砂は、奏汰よりも同情的な目で、画面を見つめている。


「百合子さんがいないと、静かだね」


 奏汰が苦笑してみせると、美砂も遠慮がちに笑った。


 美砂は、職場の話や、仕事で嫌な思いをした話などを打ち明け、奏汰は、それを聞いていた。

 同級生であっても、これまでは、仲介役にドラムの雅人がいてこそだったため、美砂と奏汰自身は、じっくりと話したことはなかった。


 彼には、音楽以外の話を聞くことも、美砂の普通の女の子らしさも新鮮であり、美砂は、ピアノバーに案内し、彼女好みのカクテルを見繕う彼を、頼もしそうに見ていた。


 ピアノの弾き語りが始まると、奏汰が黙って鍵盤を弾く指を、目で追う。

 左手のフレーズが気になるのか、ベース弾きはあんな風には弾かないと、眉間に皺を寄せてぶつぶつ言っている。

 その間、ボタンを外したシャツの合間から覗くドッグタグにも、美砂は目を留めていた。音楽への未来に向かう言葉が、英語で彫られている。


「なんか、変わったね」


 見蕩みとれながら呟いてみるが、ピアノに耳を傾けている奏汰には、聞こえていない。美砂が袖を引っ張ると、やっと気が付いた。


「奏汰くん、なんか変わったね。大人っぽくなったっていうか」


「そう? 周りが大人ばっかりだからかなぁ。いつもからかわれてるよ」


 オレンジジュースとシャンパンのカクテル、ミモザが、黄色い花吹雪のように、美砂の心を開き、ピアニストの歌声が、開き放つ。


「言ってもいいかな。私、高校の時、奏汰くんのこと……好きだったんだよ」


 奏汰は笑った。


「またまたー! 高三の時なんか、同じクラスでも、ほとんど喋ったことなかったよねぇ?」


「でも、本当なんだもん……」


 美砂の頬はほんのり赤く染まり、視線を落とした。

 すっかり冗談のように受け取っていた奏汰は笑うのを止め、改めて美砂を見つめた。


 弾き語りは、ボサノバの名曲『Wave』に変わる。


 波に例えた愛の訪れを歌う女性ボーカルの美しく澄んだ声、明るくもあり、暗くもある和音の移り変わりが、間接照明も手伝い、日常ではない不思議な空間を創り上げていた。


 隣り合っているのは、同級生ではない。

 二一歳の大人同士だった。


「蓮華さんは、奏汰くんが他の女の子と恋愛してもいいって、言ってたんだよね?」


 そっと、美砂が尋ねた。


「……それ、……本気にしても……いいのかな……?」


 奏汰に何か言われる前にと美砂が続けた。


「私、奏汰くんなら……いいの。奏汰くんが、私のこと好きじゃなくても、構わないの。だから……!」


 美砂の表情には、ある覚悟が現れていた。


     *


「どうしたの? ボーッとして」


「えっ!?」


 アパートに遊びに来た蓮華が、面白そうに、奏汰を見上げている。

 慌てる奏汰と反対に、蓮華は笑った。


「あ、そっか! 奏汰くんにも女が出来たんだね!」


 驚きのあまり、反射的に後退った奏汰を見て、蓮華が、にっこり笑った。


「どんな子なの? 今度お店に連れておいでよ」


「は!? 怒らないの?」


「なんで? 他に付き合っていいって言ったの、あたしなんだし」


 けろっと、そう応えた蓮華を、まじまじと見つめる。

 

「あの、……ホントに大丈夫?」


「なにが?」


 奏汰がどこからどう見ても、蓮華の表情は自然であった。


 数日後、アルバイトが休みの日、奏汰が、美砂を伴って『J moon』に現れるが、蓮華の態度は変わらず、むしろ歓迎するようであった。


 おずおずと、奏汰とテーブルに座る美砂であったが、蓮華の穏やかな表情から、既に感じていた親しみやすさと包容力に安心したように、高校の時から奏汰に憧れていたことを打ち明け、蓮華はあたたかい眼差しで、それを聞いていた。


 奏汰は、そんな蓮華をじっと見ていた。


 このひとは、俺には妬かないのかなぁ。

 優さんの時は妬いてたくせに。


 物わかりの良い年上の女性は、時には淋しさを与えてしまうのかも知れなかった。


「私、これからも、奏汰くんに会っていいのかな?」


 帰り道で、美砂が遠慮がちに切り出した。


 高校最後のクラスで知り合って以来、今まで三年間、自分を思い続けてくれた。蓮華と付き合っていると知っても。


「俺は会いたい。蓮華といると時々不安になるけど、美砂ちゃんといると、癒される。だから……」


 応えるべきは、この子なのだろう。


 等身大の恋愛をするべきなのかも知れない。


 そんなことが頭を過る。

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