Ⅱ.(6)ミュージシャンは不思議くん?
*
いつもより長く、ドライヤーを当てた。
いつもより長く、鏡を見ていた。
セミロングの髪の先がはねていないかチェックしてから、家を出る。
踊るような歩調で美砂が公園に着くと、黒いソフトケースに入ったベースを背負った、見慣れた姿もやってきた。
「おはよ。ちょうどだったね」
その低い声も、はにかんだ表情も、美砂の知る高校時代より大人びている。
並んで歩き出すと、美砂は、勇気を出して言ってみた。
「腕、……組んでもいいかな?」
奏汰は、「別にいいよ」と、腕を組みやすいよう浮かせた。
遠慮がちに手をかけると、美砂は嬉しそうな顔で見上げた。
奏汰の休みが平日なのに合わせ、美砂が休みを取っていた。
向かった先は、カラオケボックスだった。
カラオケといっても、歌うわけではなく、平日の朝から午前中一杯は部屋代が無料になるクーポンを使って、奏汰が練習をする予定だった。美砂は、それに付いてきたのだった。
アパートでは夜はアンプを通せず、昼間練習する時も、隣の住民を気遣い、ボリュームを絞らなければならなかったので、思い切り練習出来るのは、スタジオやカラオケボックスということになる。
「今思うと、学校なら場所代タダだし、音出していいし、良い環境だったよなぁ」
「そうだね。いつも吹奏楽部と軽音部の楽器の音が聞こえていて、いいなぁって思ってたよ」
懐かしい話をしながら、いきなり、奏汰はストレッチを始めた。
「ああ、気にしないで。ベース長時間弾いてると、肩とか腰とか凝っちゃうから」
手首を回し、肩を回す彼を、美砂は、尊敬するように見つめた。
「俺の練習なんか聴いててもつまんないだろうから、美砂ちゃん、何か歌っていいよ」
「ううん、いいの。私、奏汰くんの演奏、聴いていたい」
奏汰が少し照れた顔になり、さっそく、ベースとカラオケの機械をラインでつないだ。
ひたすら、トレーニングが始まった。
指のウォーミングアップだ。心地良い音楽的な調べとは反対に、機械的な音の羅列であり、あまり長くは聴いていられない類いのものだった。
行儀良くソファに座る美砂に、奏汰は言った。
「ずっと聴いてると疲れるでしょ? 自由にしてていいよ」
「ううん、大丈夫!」
そういう美砂であったが、だんだん手持ち無沙汰になってくる。
飲み物を取りに行ったり、コンビニで弁当を買い、持ち込んだりと働いてみるが、奏汰の方は、時間が経つにつれ、誰もそこにいないかのように没頭している。
指のトレーニングが終わると、バラバラとファイルから五線紙を取り出す。曲のタイトルと、小説線で仕切られた、コードネームや本人にしかわからないメモが書かれただけのものだ。
テーブルの上に置いたそれを見ながら、弦を弾き始める。
「カラオケの曲に合わせて、ベースを弾くんじゃないんだね?」
「ああ、俺が今やらなきゃいけない曲は、カラオケには入ってないんだ」
時々、スマートフォンで動画を検索し、同じ曲を聴く。ベースのフレーズを聴き取っているのか、同じ場面を何度も、短く再生したりしている。そして、また弾き出す。
ふと、奏汰が顔を上げた。
「聴いてもらってもいいかな? どっちがいいか」
奏汰は、短いフレーズを、違う弾き方で弾いてみせる。
頼られて嬉しい気もしたが、美砂には、違いがよくわからなかった。
「両方とも、カッコいいよ」
「う~ん、でも、どっちも、なんか違う気がするんだよなぁ。……あ、こういうのなら、どう?」
またしても、美砂には、よくわからなかった。
違いはなんとなくわかったが、本当に、どれも格好良く聴こえた気がするのだ。
こんな時、蓮華さんなら、ちゃんと応えてあげられるんだろうな……。
そう思うと、少しだけ悲しかった。
「……二番目の方が、……私は好きかな……」
小さい声で、言ってみると、奏汰の顔が曇った。
「そう……。俺は、今のヤツがいいかと思ったんだけど」
「ごっ、ごめんね!」
「いいよ、いいよ! 美砂ちゃんが気に入ってくれたのは、嬉しいからさ」
奏汰は、またしても、自分の世界に入っていく。
店員から、終了時間を告げる電話が来るまで、デートらしい会話もなく、時々飲み物を口にする以外、奏汰は、ずっと弦をいじっていた。
次に二人で出かけたのは、美砂の希望で、横浜みなとみらいにある遊園地だった。
その後、ショッピングモールに行けば、奏汰は、必ず楽器店に立ち寄り、楽器売り場のベースの前で動かなくなる。楽譜を探したり、音楽雑誌にも目を通すなどして、なかなかその場から離れられないでいる。
好きなところを見て来ていいと言われ、美砂が店内を見回して戻ると、奏汰はまだ同じ場所にいた。
中古ショップを通りかかろうものなら、そこでも同じように楽器コーナーにつかまり、なかなか離れられそうにない。
彼を応援したい気持ちはあるが、果たして、美砂が楽しいかというと、彼の行動すべてに共感出来そうにないとも、気が付き始めていた。
「彼氏、プロのミュージシャン目指してるの? カッコいいね!」
同僚の、めぐみが羨ましそうな声を出す。
めぐみの声の大きさに、美砂の箸を持つ手が慌てて、弁当のおかずをバラまきそうになった。
「めぐちゃん、声大きいよ」
「ああ、ごめん、ごめん。だって、そんなカッコいい彼氏なんて、いいなぁって思ったら、つい……」
美砂は、近くのデスクでコンビニ弁当を食べている上司を見ると、彼も気が付いて顔を上げたので、慌てて目を反らした。
「今の、須藤さんにも聞こえちゃったかなぁ? ごめんね!」
めぐみは首を引っ込めたが、懲りていない様子で、質問を投げかける。
「他にどんなとこ行ったの? へえ、ピアノバーなんて連れてってくれるんだ! バラードをバックに、耳元で甘い言葉とか囁かれたり……とか?」
ニヤニヤと、めぐみがからかった。
「全然そんなことないよ。演奏が始まると、彼、聴き入っちゃうから。話しかけたら悪いから、私は黙ってるの」
「ええっ、そうなの? テーマパークとかは行った?」
「うん。でも、アトラクション回ってたら、おなか空いたって言って、ホットドッグとかポテトとか注文して食べてるうちに、ベースのレッスンの時間になっちゃって」
めぐみは、無言になった。
「そ、そうだ! カラオケは?」
「彼と行く時は、ベースの練習でしか……」
「え? 歌わないの?」
「うん。まあ、私、歌うのあまり得意じゃないから、歌わなくても構わないんだけど。練習の邪魔しちゃいけないと思って、ずっと静かにしてて……」
「……」
デートはいつも割り勘だ。
奏汰が消音ベースを買いたくて、資金を貯めているからである。
「楽器に二〇万もかけるの!? そのナントカベースのために!?」
「消音ベース、ね。エレクトリック・アップライト・ベースって言うみたい。見た目で欲しいのは、三〇万円もするんだって」
開いた口の塞がらないめぐみが、遠慮がちに尋ねた。
「……そんなんで、美砂は楽しいの?」
美砂は、少し自信のなさそうに頷いた。
「外は金かかるし、今日は俺の家に来ない?」
奏汰がそう言うと、美砂が顔を上げ、驚いて立ち止まった。
「……奏汰くんの家に行くの、初めてね」
「そうだね」
もしかしたら、二人の仲も、少しは深まるのだろうか。
そう思いついた美砂の頬が赤らんでいき、緊張していく。
それに気が付いた奏汰の頬も、僅かに赤みが差していく。
その時、スマートフォンが鳴った。
「橘先生からだ!」
ベース師匠との電話の内容は、彼を見ていたら、美砂にも見当が付いた。
「これから、急遽、六本木のライヴに先生が出ることになったんだって! 一緒に見に行かない?」
お金ないって言ってたくせに。
普段は切り詰めていても、音楽関連のことには、お金を使う奏汰を、美砂が上目遣いで見る。ウキウキしている彼は、お金を借りてでもライヴに行きたそうだ。
「私、明日も仕事で朝早いから、遠慮しておくね」
「ごめん、急で。じゃあ、俺ひとりで行ってくるね!」
謝ると、奏汰は駅に向かって駆け出した。
その後ろ姿を見送りながら、美砂は、溜め息をついた。
音楽の隔てる溝は深い。
そんなことは、奏汰には思い付きもしないのだろう。
そう美砂には思えてならなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます