Ⅰ.(9)ワルツ・フォー・デビー

 シャワーを浴びて戻ったのは、友達と旅行した時ですら泊まったことのない、落ち着いた、ヨーロッパ調に整った部屋だった。


 蓮華には、自分の暮らすアパートの部屋のような生活感のあるところより、このような非日常的なホテルがふさわしく、自分も少し大人になった気がする。


 ガウンなど、はおったことのない彼の、いくらか緊張したおもてを、洗面所の巨大な鏡が映す。


 こんなことになって、……大丈夫か? 俺……!


 これから起こることが、なんだか儀式的な感じもして、落ち着かないまま、奏汰が浴室から出て来ると、ベッドに横たわる彼女の姿が目に入った。


「……寝てる!?」


 先にシャワーを浴びた蓮華は眠っていた。

 かすかな寝息を立てて、横向きに眠る彼女を、呆然と見下ろした。


「……だよな。考えてみれば、疲れてるはずだ」


 蓮華は、昨日、海外旅行から戻ったばかりだった。

 疲れて眠っていたとしても、これほど無防備な姿をさらけ出せるのは、彼女にとっても、自分は特別な存在であるからだ、という気がしてくる。


「……逆に、相手にしてないとか?」


 小さく笑いながら、眠っている蓮華に問いかけてみるが、返事はない。

 奏汰は、蓮華の胸元で少しずれたガウンをもとに戻すと、隣で眠るあどけない寝顔を、微笑ましく見つめていた。


 翌朝、チェック・アウト近くに、蓮華は飛び起きた。


「ごめんね! ベッドが気持ち良くて、つい……。本当にごめんね!」


 蓮華の必死に謝る様子に、奏汰は、くすっと笑いをこぼした。


「俺なら大丈夫ですよ。蓮華さんの寝顔は見られたんだし。いい女は、そう簡単には手に入らないって思ってるから」


「奏汰くん……」


 蓮華が申し訳なさそうに、奏汰を見上げる。


「気にしないでください」


 以来、奏汰は、蓮華をもう一度誘うのはなんだか照れ臭かったのと、もう少し大事に取っておいた方がいいのか、とも考えるようになった。


 日が経つにつれ、ますます声をかけ辛くなっていく。

 自分は、大人の女性とは不釣り合いなのではないか、彼女にふさわしくないのではないかと、一瞬でもそんな考えがよぎると、それが頭から離れなくなる。


 思っていた以上に、自分は繊細だったのかも知れない。

 それを情けなく思いながら、今後、蓮華にどう接していいかを考えていると、時間ばかりが過ぎていた。




 数日後、「仕事の後、部屋に来て」と、彼女からメッセージが入っていた。


 仕事で何かやらかした!?


 怒られるのを覚悟で、その日の仕事が滞りなく終わった後、緊張した足取りで、店の裏から階段を上がった。


 ためらった後、部屋の扉をノックする。


「どうぞ、入って」


 仕事着のままの蓮華は、アップにしていた髪を下ろしていた。

 別段、怒っているようではなかったが、奏汰は部屋の中には入らず、ドアのそばで立ち止まる。


 すっかり西欧風な店の雰囲気をそのまま想像していたが、ジャズピアノのBGMが流れる部屋は、意外にもアジアン雑貨のある異国情緒にあふれていた。


 エスニック風なデザインのサイドテーブルには、飲みかけの缶チューハイが置かれているのが目に留まる。奏汰がアレキサンダーを入れてプレゼントしたカクテルグラスが、今は気泡を列ねた淡いオレンジ色に煌めいている。


 チューハイを、わざわざグラスで?

 使ってくれてるんだ?

 

 少し感動した。


「ビールかチューハイか、缶で良ければどうぞ。それからね、今日は泊まっていっていいから」


 唐突な言葉に、奏汰の鼓動が大きく鳴った。


「お台場に行った日のことなら、俺は気にしてないから、気を遣わないで」


 そう応えるのが、精一杯だ。


 蓮華が、じっと、見上げる。


「気を遣ってるわけじゃないわ。わからないの?」


 蓮華が、奏汰を挟んで両手を壁に付いた。

 その勢いで、奏汰の背がドアにぶつかる。


 これって、……か、壁ドン!?


 だが、それについて考えている暇はない。


「あたしが、奏汰くんと一緒にいたいの」


 どくん、どくんと大きく鳴り続ける心臓の音は、ライヴ中にドラムの音が身体を駆け抜けていく時と似た響きになった。


「……俺だけが、そう思ってるのかと思ってた」


「そんなことないわ」


「……本当に?」


「んもう、言葉で言って信じられないんなら、確かめてみれば?」


 少し怒ったような顔になる蓮華はどこか可愛らしい。

 奏汰は、ふっと、肩の力が抜けた微笑になった。


 このひとには、気負わなくてもいいのかも知れない。

 そっと肩に手をかけ、ゆっくりと近付く――


 柔らかく、心地良い。


 観覧車の時と同じだった。


 その柑橘系の味からは、離れられそうにない。


 ピアノの音は『ワルツ・フォー・デビー』に切り替わっていた。

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