Ⅰ.(8)お台場デート
初ライヴを無事終えた後から、奏汰がベースを抱える時間は長くなった。
教わった基礎練習でウォーミングアップしてから曲に入ると、指の動きが違う。単調な音の羅列で、面白いものではなかったが、欠かせないと身に染みていた。
単調な練習中に、ふと彼女のことを考えていた。
ライヴが終わってもそこで演奏したバラードを弾いていると、ますます彼女のこと、特に、途切れた国際電話のことを思い出し、切なくなってくる。
それが、音にも現れてる?
あっさり、さわやかではない、『ねばる』って、もしかしたら、こういうこと?
大事な人を想うように、音を大事にしながら弦を弾く——そう弾きたい。
音の入り方、切り方も、無意識ではいられない。
ミュージシャンは常に恋をしていた方がいいとは、こういうことなのか?
恋愛してると楽しいから演奏も楽しくなる、それだけじゃなく、表現にもかかわることなのか。
少しだけ、大人たちの言っていたことが理解出来た気になった。
「ただいまー。みんな、ご苦労様!」
明るい女性の声――待ち焦がれていた主の声に、奏汰も従業員も振り返った。
蓮華は、仕事用のシックな服装だった。
従業員たちは、口々に「お帰りなさい!」と、嬉しそうに出迎えた。
「いいんですか? お疲れでしょう? 今日までお休みになっても良かったのに」
「ううん、いいの。どうせ明日定休日なんだから大丈夫よ」
気遣うバーテンダーの優に、蓮華は普段の笑顔で手を振ってみせる。
笑顔も、表情も、全身から現れる元気な様子も、旅行前と変わらない彼女に、奏汰はホッとした。
蓮華が誰かを探しているように店内を見回していると、初老の男性客たちから、「帰ってきたばかりなの? 元気だなぁ!」と、さっそく声がかかる。
「せっかくいらして下さったお客様に、一刻も早くお会いしたくて」
蓮華は、彼らの間に座ると、満面の笑みで応えた。
その一角が一気に華やぎ、バーボンが追加された。
にこやかに話に相槌を打ちながら、客のほろ酔い具合によって濃さを調節した琥珀色のオン・ザ・ロックを新しく作る。交互に飲むための
奥まったテーブルのグラスを片付けていて、挨拶をしそびれた奏汰も、早く蓮華と話したかったが、仕事中は諦めるしかなさそうだった。
閉店時には、蓮華を迎えるちょっとしたパーティーが従業員とだけで行われ、土産と、蓮華の土産話に花が咲いた。
本場のシンガポール・スリングは、赤と透明のグラデーションではなく、混ぜてあったと言うと、優もシンガポールには学生時代に行き、本場のシンガポール・スリングを飲んだと言う。
シンガポールに行く前に、蓮華も優も『ラッフルズホテル』の映画をレンタルで見て、小説も読んだと話すと、「研究熱心ですね」と従業員たちが感心していた。
パーティーがお開きになると、奏汰のカクテル作りの課題を、優と蓮華で審査する。
優の「お世辞を使う」アドバイスが功を奏したのか、ブランデー、チョコレート・フレーバーのクレーム・ド・カカオ、フレッシュクリームを使った、イギリス国王妃アレキサンドラに献上されたと言われる『アレキサンダー』を、カクテルグラスごとプレゼントすると、蓮華は一際嬉しそうな顔になった。
試飲後、「シェイクも充分されてるね」と優が言い、蓮華も頷いて「男子は、こういうの上手に作るわよね」と、二人の評価は合格で一致した。
これで、奏汰も、ヘルプとして、正式にカウンター内に入ることが許された。
まずは、ひとつ、緊張が解かれた。
優が帰りがけに、奏汰の出演したライヴの入ったレコーダーを、カウンターに置いていった。
「これ聴くの楽しみにしてたんだから!」
翌日ネットに上げた動画は、彼女も旅先で見たと言う。
レコーダーから店のスピーカーに流し、蓮華はカウンターで、指でリズムを刻みながら聴いていた。
奏汰は、恥ずかしさと、どんな駄目出しをされるか少し怖かったのを紛らわすため、カウンターから離れたテーブルを拭いていた。
「ベース、良くなってきたじゃない」
上機嫌な蓮華の声に、パッと顔を上げる。
「ジャズのノリが、ちゃんと出てるわよ」
「ホントですか!? よっしゃ!」
ガッツポーズを取る。
「今度は、もっとねばれるといいわね」
「ですね! 今聴くと、自分でもそう思います。不思議なんですけど、ライヴの後の方が上手くなってる気がするんです。まだ二日しか経ってないのに。『ねばり』も少しわかった気がして」
「感じが掴めたの? 良かったね! ライヴの後って、確かに上手くなってるのよね。終わって、どっと疲れるっていうより、もっと上手くなりたいって気持ちになるよね!」
「はい。ライヴが終わっても同じ曲練習してました。でも、『ねばり』がわかったのは、それだけじゃなくて……」
思い切ったように奏汰が、蓮華に向き直った。
「ライヴの後に電話で話した時、俺が言いかけたことって、聞こえました?」
蓮華は、まばたきをした。
「電話……ああ、途中で電池切れちゃったのよね。ごめん、ごめん! 何か話の途中だったの?」
切られたわけじゃなかったと知って、大きく安堵した。
「明日の定休日、何か予定って、あります?」
「ううん。旅行後ゆっくり休もうと思ってたから」
「あ、すいません……」
そうだよな。旅行から帰ってきて疲れてるだろうし。
相手の都合を考えなかったことが、すぐに後悔された。
「いいわよ。なあに? 言ってみて」
彼女が、いやいや訊いているようには見えない。
言ってもいいのかも知れない。
思い切って、口を開く――
「明日、良かったら、一緒に出かけませんか?」
雲の少ない青空の下、海を見渡しながら公園を歩き、ショッピングモールでお茶にする。
ふんわりとしたロングの毛先が、胸元で大きくカールされ、揺れている。髪を下ろしているだけでも、蓮華の印象は仕事の時と違う。
膝で裾が波打つワンピース、太めのヒールのサンダルに、装飾品は少ない。ナチュラルなメイクでより一層若く、せいぜい奏汰の二、三歳上にしか見えない。
今組んでいるバンドや友人の話、ライヴで演奏オヤジバンドでの練習風景など話すと、彼女は興味津々の反応をする。
くるくるとよく喋る瞳と、度々こぼれる自然な笑顔は、素の姿だろう。
夕方、長蛇の列だった観覧車に乗った。
青い海の上を飾るきらびやかなネオンは徐々に下方へ小さくなり、遠くに残るオレンジ色の空を見ながら、紫色の空に近付いていく。
待った甲斐があったと思わせてくれるほどの、幻想的な景色だった。
「綺麗!」と言いながら、スマートフォンで蓮華が写真を撮る。
奏汰も、数枚撮ってから、向かいに座る蓮華に、なるべくさらっとを心がけて切り出した。
「蓮華さんは、誰か付き合ってる人とか、いるんですか?」
デート中は『ママ』とは呼ばず、ずっと『蓮華さん』と呼んでいる。
自然に訊けたと思った。
景色を楽しそうに見下ろしていた蓮華が、視線を奏汰へ向けた。
「いないって答えたら、どうするの?」
しまった! 単純過ぎたか!
頬がかあっと熱くなるが、にっこり微笑む彼女を見つめるうち、諦めたように笑っていた。
「蓮華さんには敵わないな。全部わかっちゃうんですね」
「観念した?」
蓮華が笑う。
「俺が、なんで今日誘ったのかも、お見通しなんだ?」
「さあ、それは、聞いてみないとわからないわ。あなたの口から」
「いや、もう絶対わかってるでしょ?」
小首をかしげて微笑む彼女を、ちょっとだけ憎たらしく思う。
「じゃあ、改めて訊くけど、どうして誘ってくれたの? 雇い主で、きみよりずっと年上の、あたしを」
「……ずっと?」
「そう。奏汰くんの十コ上」
「そんなに!?」
信じられない思いで、蓮華を見つめ直す。
やはり、そこまで年上には見えない。
「あたしは、どうしたら気に入られるか知っていて振る舞っているのかも? からかってるのかも知れない。きみは、そんな気にさせられてるだけかも知れないんだよ」
茫然としている彼に構わず、静かな笑顔は続けた。
「だから、慎重にね、考えてから、言おうとしていたことを、言うか言わないか、決めた方がいいわ。今なら、何も聞かなかったことにするから」
見透かされている。
この人には、なんとなくとか、雰囲気だとかは通用しない?
覚悟を決めないと、カウンターを食らうハメに!?
おかげで、何かが吹っ切れた気もする。
少しの沈黙から、奏汰が顔を上げた。
「年がわかったからって、引こうとは思いません。プロミュージシャン目指してるバイトの俺なんか、取るに足りない相手だとは思いますが、……俺は、蓮華さんが好きです」
蓮華が目を見張る。
「若い子は、大抵、あたしの年言ったら引くわよ?」
「年なんか関係ないです。あなたがいいんです」
決め台詞のつもりだった。
だが、相手は頬をポッと染めるわけでもなく、面白そうな目をして「ふうん」と小さく笑った。
「引くに引けなくなったんでしょー?」
「そっ、そんなこと、ありませんって!」
ムキになってから、奏汰は少し冷静さを取り戻した。
なんだか、自分ばかりが焦らされているのも癪に思えて来た。
「蓮華さんこそ、俺が引かないのは、誤算だったんじゃないですか?」
「そうねぇ、気の迷いだと思ったんだけど」
「そんなんじゃないってば」
立ち上がり、一歩で蓮華の隣に移ると、乗っているゴンドラが大きく揺れた。
「ちょっと! 危ないじゃな……!」
言いかけた蓮華の肩を、守るように抱きしめた。
行き過ぎた行動だとはわかっている。
彼女の予想外なことをしてやりたかったのだった。
だが、自分も、予想外の感覚に陥っている。
思いの外、心地良い。
離れられない。
「旅行中、ずっと会いたかった」
素直な感情が、口から滑り出す。
蓮華の腕が、やさしく背に回された。
「あたしもよ」
そんな囁きを聞いてしまったら、余計に抱きしめずにいられなくなる。
激しく鳴る鼓動に気付かれても、もう構わなかった。
「いいんですか? 俺が、蓮華さんを好きでも」
「ダメなら、そもそも今日ここに来てないわ」
「そんなこと言われたら、真に受けます」
それに応えるように、蓮華の腕が、奏汰の首に絡められた。
瞳が閉じられると同時に、艶のある、デザートのように甘く柔らかそうな唇に、引き寄せられていった。
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