Ⅰ.(7)初ライヴ

 店のSNSには、ライヴ出演者の名前も出ている。奏汰の名前も載っていた。


「今日ライヴに出るんだってね。大丈夫なの? ちゃんと弾けるの?」


 勝ち気な声の主は、『J moon』が「学生の日」を設けた日に知り合った百合子だった。

 都内の音楽大学に通う。綺麗な顔立ちに長い黒髪をバレッタで止め、上品なロングスカートを穿く、見るからにお嬢様だった。


 後ろのテーブルには、奏汰と同じバンドを組むドラムの雅人、ボーカルのトウヤ、ギターのハルトと、その取り巻き女子たちの端に、奏汰と雅人の同級生である、短大卒でOLになった美砂もいた。

 彼らが応援に駆けつけてくれたことは、むしろ嬉しい。


 演奏までの間は、従業員としてカウンター内で仕事をする奏汰だったが、ベテランと初のジャズライヴは独特の緊張感がある。

 正直、こんな時に、いつも何かと楯突いて来る百合子の相手などしていられない、と思っていた。


 そんなこととは思いもよらない百合子が、奏汰の願いとは裏腹にカウンター席に座った。


「私が、音大のピアノ科だってことは覚えてる? 優さんが通ってたのと同じ音大で……」


「ああ、前に、そんなこと自慢してたね」


 奏汰は横目で見ながら素っ気なく答えたが、百合子の方は、浮かれたようにカウンターの中の優を目で追っていて、そんなことは気にならないようだ。


「ジャズってよくわからない。アドリブなんて、ちゃんと譜面書いてるの?」


「即興演奏なんだから譜面なんてないよ」


「そんなことが出来るものなの?」


「だからすごいんでしょ? 俺はまだ出来ないけど」


 不思議そうな顔の百合子は、店内を見渡した。


 前方の壁際には、マイクが二本セッティングされたグランドピアノ、ドラムセット、ギターとベースのアンプが置いてある。


「ママは、今日もいないの?」


「まだ海外出張中で」


 単なる旅行だが、表向きの理由だ。


「よう奏汰! あれ? 今日ママいないの? せっかくの初ライヴなのに淋しいな! ママもひどいよなぁ!」


 オヤジバンドの一人、サックスの男だった。

 本番前の不安な気持ちに追い打ちをかけられた奏汰は、動揺しただけでなく、一気に淋しい気持ちにおそわれた。


 なんで、こんな時に、いてくれないんだろう……


 やはり、彼女には聴いていて欲しかった。

 少しは成長したであろう自分を、見てもらいたかった。


「大丈夫だよ。録音も録画も撮るから、蓮華さんが帰って来たら一緒に見よう」


 さすがに可哀想に思ったのか、優が、奏汰の肩にポンと手を乗せた。


「しょうがないから、私が代わりに聴いててあげるわよ」


 笑っている百合子に、奏汰はピリピリしていて、完全に営業スマイルが出来なかった。




 ライヴ直前、店の電話が鳴った。


『まだギリギリ出番前なんですって? 良かったわ、間に合って!』


 優から子機を受け取ると、それは蓮華の声だった。


「え……ママ、なんで?」


『可愛いバイトくんの初舞台なんだから、当たり前でしょ? 奏汰くんの初ライヴ、すっごく楽しみにしてたんだから!』


 奏汰の心臓が、大きく鳴った。


『どう? 緊張してる?』


「はい。手が汗ばんでます」


 受話器越しに蓮華が笑う。奏汰は、受話器を持っていない右手で、グー、パーを繰り返した。


「今までやってきた学生ばっかりのライヴとは客層違って大人ばかりだし、耳肥えてそう。俺のソロもあるんです。本当の即興じゃないから、まだマシですけど」


『ちょっとくらい音ミスったっていいのよ。ライヴは楽しめればいいんだから。間違えても、ポーカーフェイスで「これでいいんだ」って顔して弾けば意外とごまかせるもんよ。あたしなんかいつもそうしてたわよ。ハッタリで行くのよ、ハッタリで!』


「ママらしいですね」


 くすっと、奏汰が笑う。


『このまま電話で聴いてるから、頑張って!』


 店の子機では音がきれいに伝わるとは思えなかったが、蓮華が聴いてくれていると思うと、相当に勇気付けられた。

 電話を優に預けると、スタンドに置いたベースを取り出し、準備にかかった。


 ギタリストが、マイクでアナウンスをする。

 店の制服姿の奏汰が、枠組みに弦を張っただけのような消音ウッドベースを持って登場した。バンドのベーシストから借りた物で、本物のウッドベースに近い音色だ。


 コール・ポーターのバラード『Ev'ry Time We Say Goodbye』が始まる。


 ウッドベースを、初めて人前で披露する奏汰は、緊張した面持ちだが、始まってしまえば曲に入り込んでいった。


 いつも練習している曲だが、今日は思い入れが違う。

 ジャズのバラードは、今の自分の心境に、ぴったりだと思った。


 メンバーも、練習時よりも気合いが入っているのか、出だしからサックスの旋律が、うっとりとさせる。


 ピアノも、いい感じだ。

 あれ? いつもと違うこと弾いてる。

 ギターは、あえて普段より控えめになった。


 メンバーの演奏にも聴き惚れ、自分も、普段よりも一層気持ちの入った演奏になっていると思った。


 アドリブでは、サックスが観客を虜にする。

 その後のピアノのアドリブも、サウンドの響きを充分堪能させる。


 テーマに戻ると、ピアノはシンプルになった。

 そして、サックスが、長過ぎないエンディングで閉めた。


 演奏が終わると、ホッとする前に、身体中で感動していた。

 本番の緊張感が、自分の内に秘めた、自分でさえ知らなかった部分を引き出したのだと思えてくる。

 このバンドで演奏させてもらったことに、感謝の気持ちが湧いた。こんなことは、初めてだった。


 ギタリストが次の曲の紹介を終えると、エレキベースに持ち替えた奏汰のベース・ソロから、ミディアムテンポでイントロが始まる。


 ドラムが加わる。


 メンバー一同、リラックスした演奏で加わっていく。

 アコースティックなジャズの世界に電子楽器を持ち込み、時代と共に変化しながらジャズ・シーンの最先端を走ってきたハービー・ハンコックの8ビート『Cantalope Island』だ。


 テーマが終わり、ギターのアドリブが渋いコードをかき鳴らす。アコースティック・ギターであってもエレキを想像させる。


 順番ではサックスであったが、ピアノがどうしても次にやりたいと、メンバーに合図を送った。

 練習の時と違い、始めから技巧を使ってアグレッシブに始める。


 奏汰もメンバーも、顔を見合わせて笑う。

 それを受けたサックスが、さらにノッた演奏をする。


 サックスが2コーラスも多くアドリブを増やしたので、奏汰の出番は引き延ばされたが、練習中にも、そのようなことはあり、わかりやすく終わりの合図を出されていたので、困らずに済んだ。


 バンドのベーシストが前もって作ったソロのフレーズを、奏汰が演奏する。

 聴かせどころと技巧が練り込まれた、最高のフレーズだ。


 各ソロの後には、拍手をもらえる。奏汰も拍手をもらい、嬉しくて照れたような顔になった。


 演奏が終わった。

 カウンターの奥に戻って、優に「お疲れ様! カッコ良かったよ!」と言われて初めてホッと出来た。


 ステージスペースから少し離れたところに、セットしていたレコーダーは、そのままライヴの演奏を録り続けている。

 その近くに、奏汰のものではないスマートフォンが置いてあるのを見つけた。


 優がそれを奏汰に渡し、奥で話してきていいと言う。

 電話の向こうは、蓮華だった。

 店の電話子機では音が悪いから、優が自分のスマートフォンにかけ直すよう言ったのだという。


『おかげで、少しは音がクリアに聴こえたわ』


「さすが優さん、気が利く!」


『ウッドベースもだいたい聴こえたし、エレキもよく聴こえたわよ。すっごく良かった! この間よりも、ジャズのノリがちゃんと出てたわよ!』


「ホントですか?」


『「Cantalope Island」では、ピアノもハジケてたし、サックスもノリノリだったわね!』


 おかしそうに、蓮華が笑っている。


「止まらなくなっちゃったみたいで、サックスなんか、2コーラスもアドリブ増えてて」


『そういうこともあるのよ。メンバーも、それだけ気持ち良く演奏出来たんじゃない? 良かったわね! 奏汰くんも楽しかったでしょ?』


「はい!」


 ひとしきり話してから、奏汰の表情が引き締まった。

 決意の現れた表情でもあった。


「それで、あの、ママ……、その、帰って来たら……なんですけど、……二人で話せませんか?」


 そこまで言った時、通話が途絶えた。


 奏汰は、スマートフォンを見つめたまま固まった。


 切られたのか、向こうの電池切れかはわからない。

 奏汰の話が聞こえたのかもわからない。


 茫然としながらフラフラとカウンターに戻った。


「そういえば、百合ちゃんからの伝言でね」


 そう言い出した優に、奏汰が興味のなさそうな顔で振り返った。


「『音が大き過ぎる』って。奏汰くんのソロの前に帰っていったよ」


 顔を見合わせた二人は、苦笑いになった。

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