6.儚い雪は積もらない(とある観測者の独白)

 


 

 どうやら故郷のようだった。


 色あせたアスファルトも、

 中途半端に広がる冬の田園風景も、

 ところどころに放置されたままの廃屋も、

 すべてに見覚えがあった。


 青空の下、土も建物もすべてがやけに乾いていて、吹く風がそっと語りかける。


 ――おまえはいったいなにをしてきたのだ、と。


 …………。


 いったいどこで道を踏み外したのだろう。


 答えなど考えたくもないと思った。

 ――そう思うこと自体が、すでにその最悪さを認めているようなものだと知りながら。


 ……ここは間違いだらけだった青春の苦々しさを否が応にも突きつける。

 

 こんなところはやはり早く通り過ぎてしまいたいと思った。


 でも、ここが故郷であるとするのなら、俺の探している少女を見つけられる可能性が高いのもまた事実だった。


 ……たとえただひとりの少女を救ったところで、それがいったいなんになるのか。


 いつしかそんな迷いさえ抱くようになっていたが、それでも俺は探すことをやめられなかった。

 他に方法なんてあるはずもなかったのだ。個人にできることなどどうせタカが知れている。

 だから俺は、もしその少女を救うことができたなら、きっと世界のすべてのかなしみが救われるのだと、そう思い込むようにして、縋るように旅を続けていた。


 それがどれだけ支離滅裂な妄執かわかっていなかったわけではない。

 

 それでも俺は狂信せずにはいられなかった。


 この旅の目的が、いつしか致命的に変質していることに気づきながら。

 そうして、少女の姿がますます遠のいてゆくようにさえ感じながら。



 


 ――果てしない物語に酔うようにして、いつぶりかの煙草を呑んでいた。

 

 コンビニの喫煙所で口だけの男が悲劇の救世主ヒーローを演じる――あまりにも馬鹿げた光景だ。

 そんな甘ったるい自嘲に溺れながら、やはり俺は変わらずにいた。


 そこにひとりの人物が現れる。


 そいつは店内から出てくるなり立ち止まり、こちらをまじまじと見つめる。

 スウェットジャージの上から革ジャンを羽織っただけのぞんざいな格好。

 見たところ20代前半くらいの女だ。

 こちらへ歩み寄りながら言う。

「やっぱ××ちゃんじゃん。ひさしぶり~」

 どうやら俺のことを知っているようだ。こちらも知っている体で答える。

「ああ、ひさしぶりだな」

「うん、でさ、あんた今ヒマ?」

 ……ぶしつけな女である。

 もちろんつき合ってやる義理などあるはずもない。

「いや、忙しい。ヒマつぶしの誘いなら他をあたってくれ」

「ふ~ん、そうなんだ? これからなんか予定あんの?」

「……特にはないが」

 こういうとき、ついバカ正直に答えてしまうのは俺の弱さだった。

 女は当然その隙を逃さない。

「じゃあいいじゃん。せっかくなんだしいっしょに呑もうよ」

「おまえ、昼間っから呑むつもりかよ」

「なんか問題ある? 休みの日ぐらい好きに過ごしたっていいじゃん」

「……まあ、それはべつにいい。でも俺を巻き込むな」

 煙草をもみ消し、立ち去ろうとする。

 しかし女がそれを許さない。

「ちょっと待ってよ!」

 腕をがっしりと掴まれる。

 振りほどけないことはなさそうだが、なるべく手荒な真似はしたくなかった。

 ……仕方なく立ち止まってやる。

「……なんだよ」

「だってなんかあんた……まあそれはいいや、えっと、あたしみたいなイイ女が誘ってるのにその態度はないんじゃない?」

 だらしのない格好でうろつく女がなにを言うか。

 だいたい「えっと」ってなんだ……。

「……おまえなあ、まったく説得力がないぞ」

「なにそれひどい! あたしが不細工だって言うつもり? これでも顔はそこそこだと思うんだけどなあ。それにほら、おっぱいだってけっこう大きいし!」

 女は革ジャンの正面をバッと開き、ぷるるんっと胸を突き出してみせる。


 …………。


 ……確かにサイズだった。

「……つーかおまえそれ……いやいい」

 言えばセクハラになってしまいそうだ。

「ん? なんかヘンだっけ?」

 女は自分の胸をじっと検める。

 ……どうやらようやく気づいたようだ。

「――ぎぇ、ブラつけてなかった……」

「……やっぱりか」

 布越しに見えるやわらかな曲線はあまりにも生々しいし、つぼみもぷっくりと突き出している。

 ……あと、今もまだふるふると仄かにたゆたっていて――

「って、あんたいつまで見てんのよ!」

「――んっ……」

「――ぐぅぇっ!?」

 女は激しく後ずさる。

 軽く叩かれたのだが、半端に避けたためか硬くなっていた先端に女の手のひらがぐにっと当たってしまったのだ……。

「……ほんと、すまないな…………」

「……もういいっ。罰として絶対つき合ってもらうから!」

 女は顔を逸らしながら、ヤケクソ気味に言う。

「……わかった。じゃあ俺もちょっと酒買ってくるから」

 こうなってはもう断れるはずもなかった……。

 

 ――でもそれはほんとうに純粋な申し訳なさから来る譲歩だったのだろうか。

 

 あるいは女のやわ肌が触れたのが決め手になったのかもしれない。立て続けの刺激に、理性はどうあれ男性が期待していたのかもしれない。だから断らなかっただけなのかもしれない。


 いつかの言葉を思い出す。



 ……どうせ俺も人間、か。


 それは俺のなりたかった人間ではない、あまりにも悪い意味での人間だった。



 


 その後、女と連れ立って歩く。


 すぐ近くの大きな公園を横切る。


 辺りを眺めまわしつつ女が言う。

「昔、よくここで遊んだよね~」

 懐かしむような、愛おしむような調子で。

「ん? 知らないなあ。いったいいつの話だか」

 

 俺はあえてとぼける風にしてとぼけてみせた。

 

 でも彼女はそんな演技さえ見透かしたように囁く。


「……きっと、そのうち思い出せるよ」



 ――それからすぐ、俺たちはアパートの一室へ辿り着いた。




    ❄



 「…………っ」

 ずきずきと痛む頭を抑えながら身を起こす。

 

 目の前には悲惨な光景が広がっていた。

 

 小さな座卓を埋め尽くす飲みかけの酒、

 スナック菓子の空き袋や食べかけの惣菜、

 中途半端に残った乾きものの類や、床の上に転がるいくつもの空き缶……。

 

 臭いし、汚いし、気持ち悪い……。

 

 宅飲みのあとの3Kが見事に揃っていた……。


 …………。


 言葉も失くし、ただ押し寄せる吐き気をやり過ごす。


 しばらくして、ようやく机の上の書置きに気がついた。


 ぼんやりとそれを取り、レシートの裏に乱雑に書かれた文字を解読する。


《おはよ~。仕事行ってきます。スペアとかないから出かけるときは一応ドアだけ閉めといてね~》


 ……ドアぐらい誰だって閉めるだろ。

 

 本人が普段からよっぽどいい加減なのか、それとも単に馬鹿にされているだけなのか。

 どちらにしろ、なんだかずるずると、やつのペースにはまり込んでいる気がした。

 

 …………。


 ……ともかく今はもうすこし眠ることにした。

 



 昼過ぎになると気分もマシになっていたので、顔を洗って散歩に出る。

 そして、ちいさな頃よく遊んだという公園を練り歩いた――。




    🍀


 …………。

 ………………。


 

【@遊歩道】

 

「――ねえ待ってよ!」


 ちいさな俺は泣きべそを掻きながら走っている。


 その先にはちいさな女の子の後ろ姿。


 俺は必死で走るのだがてんで追いつかない。

 

 女の子の姿はますますちいさくなる一方だ。


 ついに水のない噴水のそばで、俺はけつまずいてこけてしまう。

 座り込んだまま、みっともなくえんえんと泣き続ける。


 ……しばらくすると、女の子は戻ってきて頭を優しくなでてくれた。



 …………。

 ………………。


 

【@遊具場】


「ね、ねえ、もう降りようよ?」

 

 おどおどと声を掛ける。

 

 ちいさな俺はタワー型遊具の最上部にいた。

 すでにそこでさえ十分過ぎるほど高く感じる。

 だのに女の子は不安定な屋根の上にまでよじ登ろうとしていた。

 

 俺は誰かが押し広げた柵の間から頭を突き出し、びくびくしながら見守っている。


 果たして女の子が達成感に満ちた声を上げる。

「ほら! 登れたよ!」

「う、うん。でも危ないよ? 早く降りようよ?」

「なに言ってんの? ××ちゃんも早くこっちに来なさいよ! そんなオリのなかと違ってすっごく見晴らしがいいんだから! 風がね、すっごいすーーってするんだから!」

「……や、やだよ。こわいもん」

「ふ~ん、そんなこと言うんだ? じゃあもう一生遊んであげないよ?」

「ど、どうしてそんなこと言うのっ?」

「あ~あ、あたし、ひとりじゃさみしいなあ~。あのね、うさぎってさみしいと死んじゃうんだって。ねえ、こないだの約束、まだ忘れてないよね?」

「……わ、わかったよ! い、今行くから待っててね」

 男の子は勇気を振り絞った。



 …………。

 ………………。




【@遊具場】

 

「もう、××ちゃんずるいよ!」

 女の子は突然座り込んで、ぷんすかとむくれてみせる。

 

 俺たちはアスレチックネットの上で鬼ごっこをしていた。

 

 単純な追いかけっこではぜんぜん敵わないし、あまり高いところだとびくびくして足がすくんでしまうけれど、こういう場所では上手く立ち回ることができた。

 

 ちいさな俺は悔しがる女の子のそばへ寄って言う。

「ほら、ぼくにだって得意なことぐらいあるんだよ」

 女の子はぷいっと顔を背ける。

「なによ、そんな偉そうな口利くんだったらもう××ちゃんルールで遊んであげないもん。ううん、いっそ二度と遊んでもあげないんだから」

 俺は半泣きになって弁解する。

「……ご、ごめんよ。だって、あのままずっと勝てなかったら、きっと一生役に立てないんじゃないかって、思ってたから、だからうれしくて」

「……なにそれ、どういう意味よ?」

「えっとね、××ちゃんにはいつも助けられてばっかりだから、ぼくもいつか、××ちゃんの力になってあげたいなって、それで……」

「……バカみたい。こんなのあんたがちっちゃいから有利なだけでしょ」

「そ、そうだけど、もしかしたら力になれるかもしれないって、今はやっぱりそう思うよ」

「はじめてあたしに勝ったからって図に乗らないでよ! ××ちゃんのくせに! だいたいあたしは××ちゃんなんかに助けてもらうほど困ってないもん!」

「じゃ、じゃあ、いつかぼくが『なんか』じゃなくなったら? そしたらそうやって意地を張るの、やめてくれる?」

「な、なによ! ××ちゃんのくせに偉そうに! もうあんたなんか知らない! 死んじゃえ!」

 女の子はおもむろに立ち上がって走り出す。

 男の子はその後ろ姿に向かって、精いっぱい大きな声で誓った。

「ねえ! いつか××ちゃんを助けてあげるから! いつかぼくがきみを守ってあげるから!」



 …………。

 ………………。    

 


 流れ込んできた思い出の数々――。


 それは涙を流してしまうくらいにやさしい世界の、淡い記憶キオクの欠片だった。




    

    ❄

 


 部屋の掃除を済ませ、晩御飯の支度を進めているとちょうど女が帰ってくる。

 

 二人で座卓を囲み、いっしょに鍋を仕掛ける。

 女は缶チューハイを開け、俺は缶ビールを開ける。

 他愛ない会話を交わしながら鍋をつついていく。

 そんなありふれた光景もまた、とても懐かしいものに思えた。


 いっしょに食後の一服をしていると彼女が言う。

「なにあんた、ぽわんとしちゃって。エロい妄想でもしてんじゃないの? やめてよね、もうっ」

 ……失礼なやつである。

 いつの間にブラを外したのか、確かに今日も生々しい双丘美をさらけ出してはいるが……。

「――こら! なにまじまじ眺めてんのよ! ヘンタイ!」

 ……叱られてしまった。

 まあ、当然か。

「ご、ごめん。言われるとつい目がいっちゃって。ていうかブラぐらいつけとこうよ。刺激が強すぎる」

「はあ? あんた今痴漢した男が『おまえが誘惑するからだ』って開き直るのと同レベルなこと言ってんのに気づいてる? 大体あたしはあんたと違って働いてきて疲れてんの。ブラぐらい外してゆったりしたいってレディーの気持ちぐらいわかんなさいよ」

 ……ぐう正論だった。それにしても見苦しい言い訳をしたものである。

 俺は誠心誠意謝ることにした。

「……ごめん。もう二度ときみをそんな風に見ないよ」

 しかし彼女はなぜか憤慨する。

「ちょ、ちょっとなによそれ! あたしべつにそこまで言ってないじゃん! もう、××ちゃんのバカ!」

 言うだけ言って、そっぽを向いてしまう。

「……えっと? じゃあどうすればいいんだ?」

 彼女は顔を背けたままぽそぽそと言う。

 心なしか頬の赤みの増している気がした。

「……あ、あたしが許可したときだけそのいやらしい目で見なさいよ。あ、あんただけはそれで勘弁したげるんだからっ……」

「……わ、わかった」

「……ほんとにわかってくれてるんだったらいいけどね。……ちょっとトイレ――」

 

 …………。


 俺もそこまで鈍感な男ではない。

 だから妙な空気を入れ換えてもらえるのならありがたかった。


 しかし戻ってきた女は、なにか大切な話でも始めるみたいに言う。

「そうそう、昨日はバカ話で盛り上がっちゃったからね。実は××ちゃんにずっと言っておきたかったことがあって」

 直球が飛んで来そうだった。

 俺は恐る恐る訊ねる。

「……なんだ? 言っておきたかったことって」

「ちょ、ちょっと、そんな身構えないでよ。なにもあ、愛の告白とかしようってわけじゃないんだから」

「……そ、そうなのか」

 どうやら懸念は外れていたようだ。

 いちいち紅潮して早口で言うのがやっぱりなんだかなあ、だったが……。

 そんな俺の醒めた思考を知ってか知らずか、女は意地悪そうに笑んでみせる。

「なに、××ちゃん、がっかりしちゃってんの?」

「……んなわけないだろ」

「……ま、今はそういうことにしといたげる。それよりほら、××ちゃんちっちゃな頃言ってたじゃん。『ぼくがきみを守ってあげる』って。あんたはもうとっくに忘れちゃってるだろうけど……」

「……いや。あのチビは確かにそんなこと言ってたみたいだな」

「なにそれ他人事みたいにっ――でも、もう思い出してくれたんだ?」

「……まあな」

「それなら話が早くて助かるよ――」


 女は俺への感謝を語ってくれた。

 曰く、ほんとうは幼い頃からいろいろと辛かったのだがいっしょに遊んでくれるだけでうれしかったのだとか。

 曰く、思春期にいろいろとこじらせそうになっていた頃も俺の存在がありがたかったのだとか。

 曰く、俺はなんにもできてないと思っている風だったけど他ならぬ俺がそばに居てくれたおかげで無事に長かった危機を乗り越えられたのだとか。


 そんな淡くやさしい世界の話を、しんみりと語って聞かせてくれた。


 女はなおも話し続ける。

「――ほら……あたしの妹がいたじゃん」

 その言葉にすこし驚く。

 確かに女によく似た、もっと華奢で幼い体つきの少女を知っている気がするのだ。

「あの子にはね、誰も居なかったんだよ。あたしも自分のことで精一杯であんまり優しくしてやれなかったし。でもあの子もあの子なりにいろいろあったらしくてね。それであの子はずっとひとりで苦しんでたんだよ」

 それはかなしい記憶だ。

 変わらずに想う。

 今すぐにでも、そこへ行ってやりたいと。

 でもそれは到底できない相談だった。

 正しく少女は、ずっとひとりだったのだ。

「あの子は、ひとりで耐え続けた。そうするしかなかったから。……たぶん、それでよけいにあの子って形は世の中に合わなくなっちゃったのかなあ。あの子にとって辛いものはどんどん増えてったよ。進めば進むだけ道は狭くなったよ。手に入らないものを欲しがって、それはどれだけ望んでもいつまでたってもやっぱり手に入らなかったんだよ」

 もう二度と取り返しのつかないことみたいに言う。

 明言はなくとも、すでに少女の死んでいるらしいことは俺もとっくに察していた。

 女は遠い目をしながら続ける。

「……あたしはね、思うんだよ。世の中には不幸のアリ地獄みたいなのがあって、一度そこに落っこちちゃったら、もうめったなことじゃそこから抜け出せないんじゃないかなあって」

 ひどく悲観的な考えだ。

 だが俺にはどうしようもないくらい共感できてしまった。

 なにも言えないまま、ただ耳を傾ける。

「そりゃあたしだって、今でも辛い気持ちとか過去のトラウマみたいなのとかまったくないわけじゃないよ。でもあたしは仕事がだるいだなんだって言いながら毎日酒呑んで、バカなことでのん気に笑って、それなりに楽しくやってるんだよ。落っこちなくて済んでるんだよ。だって、あたしにはずっとあんたが居てくれたから。どんなときも見捨てないでそばに居てくれたから。それってあの頃のあたしにはすっごく大きなことだったんだよ……だから、ほんとうにありがとう。××ちゃんはね、もう十分がんばってくれてたんだよ」

「……そうか」

 俺はただ曖昧に頷くことしかできなかった。

 女は残っていた缶チューハイをぐびりと飲み干してから立ち上がる。

「それとね、××ちゃん」

 通りがけに肩をそっと叩かれる。

 そして、妙に優しい声で言う。

「そのお礼ってわけでもないんだけど、いつまでだってここで休んでってくれていいんだからね」

 そのままシャワールームへ入っていった。


 

 その後入れ替わり、俺もシャワーを浴びて戻ると、女はテレビをつけたままカーペットの上で眠っていた。


 ……腹でも痒かったのだろうか。

 どういうわけかへそがむき出しになっている。

 しかしそんな痴態も物ともせず、女は「くー、すぴー」と実に楽しそうな寝息を立てている。

 見てるこっちまで不覚にもうれしくなってしまうような、そんなどこまでも幸せそうな寝姿。

「……やれやれ」

 俺はだらしなくまくれ上がったパジャマを戻してやって、それから姫様抱っこで彼女をベッドまで運んだ。

 そうしながら、明日の晩ご飯はなにを作ろうかなあ、なんてくだらないことを考えていた。



    ❄


 あれからまた休日がやってきた。


 俺はひとりぼんやりと漫画を読んで時間をつぶしていた。

 やがて彼女はもぞもぞと動き出し、重たげに半身を起こす。

 目と口を半開きにしたまま、ひたすら生ける屍のように放心する。


 それから目に口に、腰に、肩に、背中に、全身にゆっくりと生気が宿っていく。


 ――なんだ、けっきょく寝起きは悪いんじゃないか。


 俺はなぜかそんなことを思いながら、目の前のささやかな変化譚を見守っていた。


 

 ふとあることを思いつく。


 そういえば今まで朝食を作ってやったことはなかった。

 彼女は毎日遅刻しそうになりながら、いつもバナナだけかじって慌しく出かけていた。

 ……俺は居候のくせに、彼女より早く起きようとさえしなかったから。


 だからせめて今日からは、ちゃんとした朝食を作ってやろうと思った。


 …………。


 キッチンへ行ってみて気づく。

 パンがないのだ。

 もちろん米も炊いていない。

 ……カップラーメンならあるようだったが、朝からそれはないだろう。


 まだすこし気だるそうな彼女にそっと声を掛け、食材を買いに出かける。


 思い出深い公園を横切り、最寄のコンビニで必要なものを揃える。

 レジ袋を手に持ち、朝のちっぽけな団欒を思い浮かべつつまた公園を横切る。

 

 ――俺はほんとうに幸せな心地でいた。 



 朝の冷たい空気は清らかで、

 淡く透きとおった空は吸い込まれそうな色合いで、

 そのなかを泳ぐ雲は薄絹のように繊細で、

 冬の風に吹かれながら、心はただただ暖かだった。


 だからだろう。


 ふと、世界が言いようもないほどうつくしく思えた。

 それこそ「世界はなんてすばらしいんだ!」などと、血迷った歌でも歌い出してしまいそうなくらいに――。



 …………。 

 


 俺はひどく狼狽した。

 

 反射的に胸の玉へ手を伸ばすが、結果ますます動揺は大きくなる。

 

 ……ないのだ。

 

 いつも肌身離さずつけているはずのそれが、あるべき場所に存在しないのだ。

 

 …………。


 急いで部屋に帰ると、女がそれをしげしげと眺めていた。

 息を切らし戻ってきた俺に、どこか深刻そうな声で訊ねる。

「××ちゃん、これ――」

「あ、いや、べつにヘンな趣味とかそういうんじゃないから」

 俺は慌ててその言葉を遮った。

 女の雰囲気にはなにかを悟ってしまったような同情があったから。

「……それより、ちょっと聞いてくれるか?」

 もう潮時だ。

 ちょうど一週間。ずるずると居ついてしまってから気づけばそんなに経っていた。

 今日、ここを出よう。そう決心する。

 だが、いざそれを言おうとすると声がなかなか出てこない。

 見かねた女が助け舟をよこしてくれた。

「……どうしたの、××ちゃん?」

 それはひどく優しい声だった。

 だから踏ん切りをつけてしまうことができた。

「今までありがとう。明日、ここを出てくよ」

 けっきょく、「今日」と言うことはできなかったが……。

「……そっか。あんまり無茶しないでね」

 女はそう言って、俺の頭をそっと撫でる。

 そしてとてもかなしそうに笑って言う。

「じゃ、××ちゃん。今日は思いっきり遊ぼっか」


 ………………。


 これ以上彼女をかなしませたくないと思ったから、

 俺もまた、きっとかなしそうな顔のままで笑った。


 それからふたりで朝飯を食べて、空元気を振り絞るみたいにして遊びまわった。


 街まで出て、怪しげな雑貨屋を冷やかしたり、

 買いもしない古着を試着して遊んだり、

 ゲーセンで中学生みたいに騒いだり、

 カラオケで馬鹿みたいに歌ったり、

 またゲーセンに戻ってプリクラを撮ったりした。


 帰ってからも最後の祭りみたいに呑んで笑う。


 でも、気づけばまた沈鬱な空気が押し寄せていた。

 彼女はふと冗談っぽく囁く。

「……あの石さ、見てるとなんかかなしくなるよね。もう、すてちゃいなさいよ」

 …………。

 俺はただ首を横に振った。

「……そっか。まだすてられないんだね」

「……うん」

 それは不思議なやりとりだった。

 本質を見抜かれていることさえ、なぜか妙に心地よく思えた。

 茫漠とたゆたっていると、不意に彼女が早口で囁く。

「……そ、そうだ。あ、あんたまたあたしのこといやらしい目で見なさいよ。こ、今晩だけは許したげるんだから」


 …………。


 様々な想いが交錯して、ただ呆然と彼女を見返す。

 煮え切らない俺に向かって彼女は精いっぱい胸を突き出す。

「ほ、ほら、よく見なさいよ。か、形にも自信あるんだからっ」

 そのくせ、頬を赤らめ、顔を背けて、やたらと脚をもじもじさせて――。


 そんな彼女をいやらしい目で見ることなんてできなくて。


 それよりも彼女のことが、やっぱりとても愛おしく思えて。

 

 彼女の唇を奪おうとする自分を、もう止めることができなかった。



 …………。



 俺たちは体を重ねあった。

 初めは壊れものに触れるよう、そっと互いの全身を撫であって。

 やがて次第に興奮し、それぞれにのままの性欲や情欲を発露させてゆく。

 とても浅ましく、ひどく気持ち悪いことをしている気がした。

 でもふたりいっしょだから、ひとつずつ掛け金を外していくことができた。

 

 俺たちは混じり合った。

 

 それはとてもうれしいことだった。

 罪悪感ももちろんあった。

 だけれど、やっぱりどうしようもないくらいに気持ちがよくて。

 セックスがただただかなしいものだという観念すら忘れ去って。

 心と体が刹那的に満たされるなか、どうしようもなく願ってしまった。

 

 ――俺の探してきた少女が、彼女だったならよかったのに、と。

 

 …………。


 その瞬間、心は急速に冷めていた。

 

 人間になることを拒絶して、終わりなき悲劇に閉じ篭もった。

 

 そうして、惰性のまま冷たいピストン運動を繰り返す俺は、誰かのかなしみを食べることでしか心を埋められない醜い怪物そのものだった。




    †



 女が目を覚ます前に部屋を出る。


 外には雪が降っていた。

 ふわふわとやさしげに舞い、不意に地面へ落下してはあっさりと消えていく。


 儚い雪は積もらない。


 どれだけ降っても積もらない。

 

 ただ、あっという間に溶けてゆく。

 


 ほんとうは初めからわかっていた。


 俺にはあんな過去キオクなんてなかった。

 

 旅を始める前の記憶はひどく曖昧だ。

 それでもそのくらいのことはわかる。

 俺はあんな健気なガキじゃなかった。

 とても子ども心に誰かを守りたいなんて思うようなガキじゃなかった。

 ほんとうはひどく冷たく無機質なガキだったはずだ。

 いつだって能面みたいなツラをしていたはずだ。

 他人の痛みなんて考えもしない気持ち悪い子どもだったはずだ。

 

 いみじくも誰かが何度も言っていたように、俺は紛れもない人でなしだったのだ。


 その本質は、今もきっと変わらない。


 変わろうとしないまま、それでも俺は「ニンゲンになりたい」という矛盾した叫びを上げ続けていた。




                            

 



        ● ●


 

 ……こ~くんはほんとうに愚かだ。

 

 望んでもいないのに、まったく無意味なことをしている。

 頼んでもいないのに、ずっと不毛な道化を演じてる。


 やっとゆっくりしてもらえると思ったのに。

 ずっとそこにいてくれれば良かったのに。


 ――たとえ偽モノだとしても、普通なあたしを愛してくれるのはすごくうれしかったのに。


 でも救い難いくらいに愚かだから。

 どうしようもなく馬鹿だから。

 こ~くんは自分のために自分を汚し続ける。


 あたしはそれを黙って見続ける。


 壊れていくこ~くんをひたすら傍観する。 

 

 度し難い欲望のために、ただただ見てみぬフリをする。


 ――わかってる。


 こんなあたしこそ、ほんとうに最低に最悪で残酷だったね。


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