4.巡る廻る、アイ、

 巨大な膜が天高く聳え立っていた。


 透き通っていて、それでいて、まるでかなしみを湛えるみたいに黒い靄を纏った不可思議な膜。

 

 すべてを拒絶するとてもさみしい壁――俺は安直にもそんな所感を抱いた。

 

 だがその膜は壁としての機能を持たないようだった。

 人々は何食わぬ顔で当然のようにその膜をすり抜けていく。

 

 ……もちろん、俺もまたその先へ進んだ。

 どこか侵略行為めいた後ろめたさを覚えながらも。

 同時に、ここが旅の終着点になるかもしれないなどと思いながら。



 ――俺はスーパーのタイムセールに立ち合っていた。


 是が非でも安い食材を手に入れようと戦場へ突撃する。

 だが俺はすぐにはじき出され、よたよたとみっともなくよろめく……。

 そこに走りこんできた誰かの肩が激しくぶつかり、完全にすっころんだ。

 一方俺に止めを刺した張本人は、その華奢な身体で合戦の只中へと突っ込んでいく。

 ……正しく鬼気迫る勢いだ。

 瞬く間に戦利品を得て出てきた少女は、俺と目が合うなりざあとらしく言ってのける。

「――あ、あの! もしかして私が!?」

 …………。

 まあ、すぐに立ち上がらなかった俺があれこれ言っても嫌味にしかならない。

 少女はたとえ今さらでも「ほんとうにごめんなさい!」と必死に謝りながら助け起こそうとしてくれているのだから。

 ……なんだか妙に嘘っぽい気もするが。

 ともかく今はその手を取って起き上がる。

「……ありがとう。まあ多少のラフプレイは仕方ないだろ。他の連中も似たようなもんだしな」

「ありがとうございます! そう言っていただけると助かります! ――あ、あと……」

 なにかを思い出したようにしゃがみ込む。

「あの、これはもしかして……」

 先ほどの衝撃でチェーンが切れたのだろう。それはただひとりの少女模型の入った大切な玉だった。

 少女はそれを拾い上げたまま見入ってしまう。

 ……よっぽど引いているんだろうか。

「ああ、それは俺のだ。拾ってくれてありがとう」

 すこし恥ずかしい思いをしながらそっと少女の手から取り去る。

「い、いえ! すみません! 修理代は全額出させていただきますので!」

「いやいいよ。そこまでしてくれなくても。大事なものだから人に預けるのは抵抗もあるしな」

 ――なにより常に肌身離さず持ち続けていたいという強い欲求があった。

「まあ接着剤でも使って適当にくっつけるさ」

「いえ、そんなに大事なものならなおさらちゃんとしないといけないんじゃないでしょうか? 遠慮してもらわなくても大丈夫ですから!」

「……いやほら、こんなデザインだしあんまり人に見せて誤解されるのも嫌なんだよ」

 なにしろ白装束を纏った少女の模型――それも無駄に丈が低く、どういうわけか肩もはだけているので妙に露出度が高い――が内蔵されているのだから。

「……確かにすこし趣味を疑われる恐れもあるとは思いますが――あ、それをもう一度見せてもらえますか?」

「ん? まああんたにはもうさっき見られてるしな。ほら――」

「すみません。えっと……」

「で、それがどうしたんだ?」

「……よかったです。これなら簡単にトップを取り外せますよ。チェーンだけを修理に持って行きましょう!」

「え、外せるのか?」

 驚きの事実であった。

「はい、そういう仕様になってますので。あと、もし修理できる場所をご存知ないようでしたら私が案内させていただきますから!」

「……そうか。じゃあお願いするよ」

 やはりショックだった。

 というのも、俺は自分のずっと大切にしてきたもののことさえ、今ひと目見ただけの人間よりわかっていなかったということなのだから……。

 

 それぞれ買い物を済ませてから合流し、目的の店へ向かう。


 道中、少女が言う。

「そのアクセサリ、とても不思議な感じがしますね。なんだかこの辺りに伝わる伝説を思い出しました。あの、伝説のことはご存知ですか?」

「……いや、知らないが。もしかして……あの巨大な街壁みたいなのとなにか関係があるのか?」

「え! あれが見えるんですか!?」

「まあな。それがどうかしたのか?」

「えっとですね――あ、着きました。ここです。続きはまたあとで話しましょう」

 ……少女の目がどこかちぐはぐな光を発し始めていた。


 それから「もうすこしお詫びをさせてください!」という少女のたっての希望により喫茶店に入った。

 少女は町に伝わる怪異譚の数々や、現代の伝説となった超能力少女の物語などについてかいつまんで話してくれる。

 その話はどれもが悲劇的で、すべてはある巫女の呪いに端を発しているようだった。

「――で、あの壁はなんなんだ?」

「おそらく、呪的障壁として巫女が築いたものだと思います」

「……なるほど。しかしさっきはえらく驚いてたな。見えるやつがそんなに珍しいのか?」

「珍しいなんてものじゃありません、私も実際に会ったのはあなたがはじめてなんですよ!」

「……そ、そうか。一応訊くが、まさか俺たちにだけ見えてる幻覚ってことはないよな?」

「いえ、それはありえません! 郷土誌などでも触れられていますし、昔にわかにオカルト観光地化が進められたときにも度々言及されていたそうですから」

「……つまり、昔はもっと見えるやつがいたってことか?」

「そうなんですよ! なのに今はもう誰にも見えていないみたいで……」 

「……いったいどうしてなんだろうな」

「……あの、これは単なる感傷かもしれませんが、なにか時代の波とか世間の流れとかそういうものに埋もれてしまって、どんどん忘れ去られていっているような、そんな気がします。……私の周りにいる人たちも、みんなぜんぜん興味を持っていませんしね」

 それは不意に胸を衝つ言葉だった。

 俺はあの忘れられない物語のことを思い浮かべた。 

「……しかし、地元の人間なのに興味を持たないもんなのか?」

「そういうものですよ。私は元々ここの人間ではありませんが……他の子たちにとっては辛気臭い伝説なんて不愉快なばかりで見向きもしたくないのかもしれません。今はもっといろいろ楽しいこととかすてきなこととかありますし、それにみんな自分の身の回りのことで精いっぱいですから」

 流れ出た言葉からは、わずかに毒が滲んでいた。

「……なるほどな。でも、どうして俺たちには見えるんだろうな?」

「それはきっと、私たちが忘れようとしていないからですよ! ちゃんと目に留めようとしているからですよ! 世間の波に呑まれる伝説の叫びに耳を傾けようとしているからですよ!」

「……いや、すくなくとも俺にはまったく予備知識もなにもなかったんだが……?」

「でも、たった今しっかり興味は持ってくれています! もしかしたら運命があなたに伝説を学ぶよう働きかけているのかもしれません!」

 なんだか際どいことを爛々とぎらめく目で言う少女である。

 ……しかし興味を持っているというのは事実だ。それこそ運命とやらを感じてしまうくらいに。

「……まあ俺もちょっと調べてみるかな。もしよかったらそういう資料とかが置いてるところを教えてもらってもいいか?」

「もちろんです! そうですね明日は学校が休みなのでいっしょに伝説ゆかりの地めぐりをしましょう!」

 承諾すると少女は握手を求めてきた。俺の手を両手で強く握ってぶんぶんと上下に振るう。しかしその目は俺のほうを向きながらも、まるで違うどこかを見ているようだった。



「ここが伝説の巫女が生まれ育った場所です」

 俺たちは長い段を上った先にある神社を訪れていた。

「……ずいぶんと小さいんだな。話によるとけっこう大きな一門だったんじゃないのか?」

「はい。実は巫女の手によって彼らは、というかこの町は一度壊滅しているんです。これは何代かあとに新しく建てられたものですよ」

「……なあ、その巫女ってそんなにすごかったのか? 単身で町をひとつ潰すって」

「いえいえ、とてもそんなものではありませんよ。力を出し切っていれば、いえあの障壁がなければ、少なくともこの島国の半分くらいは壊滅していたんじゃないでしょうか」

「……マジか」

「ええ。そもそも伝説の巫女は――」

 少女は暗くかなしい物語を滔々と語り始める。

 それは概ねこんな内容だった――。


 伝説の巫女は生まれて間もなく巨大な力の片鱗を見せる。

 幼少の砌より厳しい訓練と仕付けを押し付けられ、理不尽に思える厳しさを意味もわからずただ受け入れ、ひたすらに心を殺して従う。

 やがて一人前の巫女として成長し、皆の期待に応えるようになる。

 しかしその大きすぎる力ゆえ、次第に人々から恐れられる。

 一方少女は、ある日、ひとりの変わった男と出会う。

 男は自分をただひとりの少女として見てくれた。そうしてただ優しく接してくれた。

 こんなことは未だかつてなかった。この男は他の人間とは違う。他の誰よりも優しくて純粋だ。この男なら、自分に愛を与えてくれるかもしれない。

 少女は男に対し大きすぎる理想を抱く。

 一方男は少女のあけすけな好意に舞い上がり、己の感情に幻想を抱く。

 ふたりは逢瀬を重ねる。

 少女の抱く慟哭にも似た期待も、男の放つ愛の言葉の風呂敷も、ただただ強くなり、また徒に広がっていく。

 そんななか、ある密偵がふたりの逢瀬を嗅ぎつける。男を利用し巫女に毒を盛らせようとする。

 男は自分の都合を優先し言われた通りにする。すまんと謝りながら。

 少女は血を吐くように失望する。

 けっきょく男も人間だったのだ。

 やはり自分を愛してくれる者などこの世界にはいないのだ。なら自分はいったいなんのために今まで理不尽を耐え忍んできたのか――。

 少女は死の際に世界を憎んだ。自分になにもくれなかった世界を憎んだ。

 黒い呪いの靄が溢れ出し、瞬く間に辺りへ甚大な被害を及ぼし間もなく力尽きた。

 そして呪いはその残滓だけが残った。

 

 目の前の少女はそんな話を、まるで祈るような調子で切々と語るのだった。


 俺たちは他のゆかりの地もめぐり、最後に昨日とおなじ喫茶店に行き着いた。

 今日一日世話になったお礼に、今度は俺がおごってやった。

 それぞれブラックコーヒーとホットココアを飲みつつ、ゆるい時間を過ごした。

 

 別れ際に少女が言う。

「あの、今日はありがとうございました!」

「いや、それはこっちの台詞だよ。だいぶ勉強させてもらったからな。ありがとう」

「いえ、私のほうこそこんな風に伝説の話に付き合ってくれる人なんて今まで他にいませんでしたから! ……あの、私なんかがこんなことを言うのもなんなのですが……」

 少女はもじもじと手をすり合わせながら言い淀んでしまう。

「……まあ言うだけならタダだからな。とりあえず言ってみたらどうだ?」

「ありがとうございます! あ、あの……私と、その、お友達になってください……」

 それは一見なんともかわいらしいお願いだった。

「……わかった。よろしくな」

 けっきょく俺はそう言ってやった。

「ありがとうございます! こちらこそよろしくお願いします!」

 そしてまた激しい握手を交わした。

 俺は少女の目に映るものが――俺への慟哭にも似た期待が脹らんでいくのを、嫌になるくらい冷静な心地で感じ取っていた。



 次の日、前日案内された場所を再び巡りなおした。

 資料を繰り、ゆかりの地をこの目で見て、この町を貫くひと連なりの叫びを想う。


 それから人々の行き交う場で自分の歌を歌う。

 やがて夕刻も過ぎ、待ち合わせていた少女が現れる。

 

 すっかり暗くなった空の下、少女は黙って聴いていた。俺もそのまま歌い続けた。

 いつしか少女はさめざめと涙を流していた。

 ギターを片付け、泣き止まない少女にそっと話しかける。

「……おつかれさま。なにか思うところでもあったか?」

 少女は嗚咽を交えながら訥々と語る。

 俺は静かに相槌だけ打ちながら聴いていた。

「……その、私、伝説のこととか……いろいろ頭に浮かんできて……」

「……あの、誰も……わかろうと、してくれないんです。あの子たちは……みんな、痛かった、んです。辛かった、んです」

 あの子たちとは伝説の巫女をはじめとするひと連なりのヒロインたちを指すのだろう。

「確かに……いっぱい、ひどいことを……しました。人を、傷つけました。それでも……あの子たちは、闘っていた、んです。どうにか……自分を抑えようと、がんばっ、て、いたんです」

「でも、けっきょく……できなかった、からっ……最後は、みんな、自分でっ……自分をっ……殺しっ、たんです……」

「……観光の、ネタにっ……なったことも、ありました。でも……役にっ、立たなくなったらっ……簡単に、忘れ去って……」

「あの、私っ……許せ、ないんですっ……あの子たちの、痛み……とか、優しさ……とかっ、勝手にぜんぶっ、なかったことにされてっ」

「学校の、子たちは、不愉快がってっ、言うんですっ。興味も……ないくせにっ、言うんですっ……あの子たちの、ことをっ……ただのっ、クソ女って……!」

「私は……それが、悔しくてっ、悔しくてっ、ずっとずっと悔しくてっ……!」

「あの……あなたの叫びが……私の、悔しさにっ、すこしっ、似ている気が……してっっ――」

 少女は嗚咽に溺れてしまう。

 その姿が妙に懐かしく思えたから。

 俺は気づけばそっと頭を撫でていた。

「……あんたも、優しいんだな」などと、そんないつか誰かに掛けたような言葉を囁きながら。

 

 少女は落ち着いた後「そういえば、あなたはどこで寝泊りしているのですか?」などと突然訊ねてきた。……なにやら鼻をひくひくとひくつかせながら。

「……えっと、野宿、ですが?」

 俺は若干情けない思いをしながら答えた。すると少女はまた突拍子もないことを言う。

「あの、私の家に来てください!」

 俺はなにかと理由をつけて断るが、少女は「お礼をしたい」だとか「あなた臭いじゃないですか!」とか「大丈夫ですから!」などととにかく受け付けてくれない。それにどういうつもりかやたらと距離が近い……。

 すっかり人も減ったとはいえ、往来で年端も行かない少女にくっついてこられるのは気が気でなかった。

 けっきょく、俺は少女の住むマンションへ泊まらせてもらうことになった。


 部屋へ着くなり、少女がまたとんでもないことを言う。

「さあ、父も母もいませんからゆっくりしていってください!」

 さわやかな笑顔でしれっと言ってのける……。

「……おい。聞いてないぞ」

 俺はそっと踵を返そうとする。

 しかし腕をがっちりとホールドされる。

 少女はあいかわらずさわやかな笑顔のまま言う。

「なにを言ってるんですか。さっき『ご両親も迷惑するだろ』って言ってたときにちゃんと『大丈夫ですから!』って言ったじゃないですか! さ、まずはその臭い身体をなんとかしてください!」

「ちょ、ちょっと!?」

 少女は俺をずるずると引っ張り、更衣室へぐいぐいと押し込む。

「さ、着替えはその鞄にちゃんと入ってますよね? あ、脱いだ服は洗濯機の中へ入れておいてください。お風呂ももう入れてますからゆっくりしてきてください。私は今からお料理しますから! ふふ、実はけっこう自信があったりするんですよ。もうずっと自分ひとりでやってきましたからね。あ、でも殿方に食べてもらうのは初めてなんですよ! うふふ、女子高生のハ・ジ・メ・テですよ! それじゃあ楽しみにしていてくださいね~」

 そうまくし立ててから、るんるんと去っていった。

 ……なんというか圧倒されるばかりである。

 気を取り直し服を脱ぎ始める。

 ともかく一線さえ越えなければいいのだ。それがどこなのかはべつとして、まだ引き返せないその線は越えていないだろう……たぶん。

 とか思っていると扉ががばっと開いた。


 …………。


「きゃっ!」

 少女はおざなりに目元を隠してまじまじとこちらを見つめる。

 ……ちなみに俺は全裸であった。

「……いや、おかしいだろ」

 俺は呆然と呟く。

 しかし少女は何食わぬ顔で言ってのける。

「ふふ、すみません。お約束はやっておかないとと思いまして!」

 ……ふつう逆だろ……というのまで含めてのお約束か。

 まあそっちで反って良かったか、とか思っていると少女がまた物騒なことを言う。

「ふふ……殿方の裸を見てしまったのなんて初めてです。これはもうお嫁に行かせてもらうしかありませんね……」

 …………。

「……まあ戯言は置いとくとして、なにか用でもあったのか?」

「いえ? 他には特にありませんけど? あと私は本気です。それじゃあ戻って愛情の込もったおいしい手料理を作りますから! 今度こそゆっくりしてきてくださいね~」

 そう言って嵐のように去っていった。


 食卓の上にはまるでタガが外れたみたいに大量の料理が並べてあった。

「さあさあ、た~んと召し上がってください!」

「……これ、ぜんぶ今作ったのか?」

「ええ! 買い置きの分をぜんぶ使ってしまいましたが今日は特別です! 母からは節約するように言われていますが、人をもてなすときは誠意を尽くすようにとも教えられているので大丈夫です!」

「いや、それはそれで問題だが……それよりこんなにいっぱいどうやって作ったんだ?」

 いくらゆっくり風呂に浸かったといってもあれから3、40分しか経っていない。

 少女もそれに気づいたのかすこし怪訝そうな顔をする。

「……え、私どうやって――ふふ、びっくりしましたか。これが愛の力ですよ!」

「いや、今なんか言っただろ。ごまかすな……」

「大丈夫ですよ! 怪しいものはなにも入ってませんから! 早く召し上がらないとせっかくの女子高生のハジメテが台無しですよ!」

 ……その言い方はやめてほしい。というか、ほんとうになにもヘンなものは入ってないんだろうな? などといっそあらぬ疑いを掛けてしまいたくなる。

 しかし少女はどこ吹く風である。

「さ、早く召し上がりましょう。冗談抜きに冷めると味が落ちてしまいますよ!」

 もはやどこからどこまでが冗談なのかわかったものではないのだが……。

「まあとにかく食うか。ありがとな、こんなにいっぱい作ってくれて」

「ふふ、ぜんぶ私だと思ってたくさん召し上がってくださいね!」

 

……ともかく俺たちは食べ始める。


 少女が箸でつまんだハンバーグや里芋を俺の口に運ぼうとするが、なんとか穏便につき返す。少女はすこしがっかりしていたようだがすぐに気を持ち直してくれた。

 ……もしかすると、俺がいかにも美味そうに箸を進めていたからかもしれない。

 実際、少女の作った料理はどれもおいしかった。そこに「愛」などという胡乱な調味料の入り込む必要もないほどには、ふつうによくできた味だった。

 

 ……ほんとうに、ずっと自分で料理を作ってきたんだろうな。

 

 ふとそんなことを想ってしまったからだろう。

 なにかに箸をやる度に「ね、その卵、色がきれいでしょう?」などと「ほめてほめて」オーラ全開で語りかけてくる幼気な少女の頭を、俺はそっと撫でてしまいたくなった。

「…………」

 しかし寸でのところで我慢する。

「あれ、どうしたんですか? あ、おしょうゆ取って欲しいんですか?」

「ああ。ありがとう」


 ……華やかな晩餐はまだなお続く。


 少女の料理自慢はなんとも言えずいじらしく、そこに露骨な愛情アピールが差し込む余地はなかった。

 それが余計に胸を衝って。

 むやみやたらと懐かしい気持ちを起こさせた。

 ……俺はこれ以上迂闊なことをしてしまわないよう、ただただ必死だった。

 

 やがてそんな時間にも終わりが来て、話題は件の伝説のほうへと移っていった。


「――なるほどな。ああ、それと呪いが人格にも影響を及ぼすって話だが……」

「はい、おそらく事実ですよ。多くの研究でそのことについて触れられていますし、超能力少女の日記では特に克明にその体験が描写されています。これはネットの不確かな情報ですが、彼女は力を失った後、すっかり別人のようになったとも言われていますし……」

「……ああ、町を出て暮らすようになってから呪いが消えたんだったな」

「ええ。……でもあの子は死ぬ前にこんな言葉を遺しています。『自分が何者なのか、余計にわからなくなった。ますます、生き方が、わからなくなった。あたしは今のほうが、ほんとうに空っぽだ』って」

 一字一句違うことなく覚えているのだろう。少女は淀みなく、切々と吟じてみせた。

「……そうか。というか悪いな。こんな暗い話までさせちまって」

「いえ、あの子たちの声に耳を傾けてもらえるなら私もうれしいですから。……ふふ、それに、あなたの役に立てるなら本望ですので!」

 乾いた叫びだ。

 俺はまた当てられてしまう。

「……まあ、そういうことならまたいろいろ教えてくれ」

 少女は一際目を煌かせ、俺の手にひしっと両手を添える。

「もちろんです! それにしてもこんなに興味を持ってもらえるなんて、やっぱり運命が――」

 ……そんな感じで、晩餐は皿が空になるまで続いた。

 

 その後、少女に寝床を用意してもらう。

 少女は「じゃあ、シャワーを浴びてきますね……」などと、やたら意味ありげに言っていたが幸い部屋に鍵がついていたので即刻使わせてもらった。

 

 そのまますぐ眠りに就く――。

 

 目を覚ますとなにやらやわらかい感触がした。

 ふにぃっ……と右腕に押しつけられる甘やかな夢心地……。

 

 ぼんやりした目ですぐそばを見ると少女の顔があった。

「おはようございます! もう朝ごはんはできていますよ!」

 すでに制服姿に着替え終えていた。

 なぜか俺の隣に寝そべっている……。

「……おはよう。つーか、起こすならふつうに起こしてくれ」

 少女は一切悪びれることなく言ってのける。

「なに言ってるんですか。ふつうじゃ悪を出し抜けないんですよ! 父も犯人の裏をかけ、とよく言っていました!」

「……あのな、俺がいったいなにをした」

 ――罪なんていくらでも重ねてきたんだろうけど。

 今だってどうせその最中だ。


 ……ともかく、俺はパタパタと駆けていく少女の後を追った。


「――あれ? つーか鍵は閉めてたよな?」

 トーストをかじりながらふと心の声を漏らす。

「……ふふ、愛の力ですよ!」

 妖艶に笑みながら、少女は人差し指の先でくるくると鍵を回してみせる。

「……いや違うだろ。まあ、そりゃ鍵はそっちが持ってるよな」

「あ、でも家の鍵は置いていきます。私はもう行かなくちゃいけませんので。もしあなたも出かけるのでしたらまたあそこで落ち合いましょう。いえぜひそうしましょう。ふたりでお買い物をしてふたりでお家へ帰りましょう! ふふ、かわいい女子高生とデ・エ・トですよ! あ、でもホテルに連れてっちゃダメですよ。性交はせめて婚約をしてからと言いつけられていますので。それでは行ってきます!」

 少女はまた爛々とぎらめく目でまくし立ててから、慌しく駆けて行った。


 ……それにしても。


 やはり少女の振る舞いは、なにからなにまですべてが演技くさかった。

 あの日に出合ったときから、ずっとそうだ。


 ……べつに少女のことを批判したいわけじゃない。


 きっとそれは仕方のないことで、だからある意味どうでもいいことで。

 ただ少女は「くれる」か「くれない」かでしか相手を見れなくて、

 自分にどうしてくれるかとか、自分をどう思ってくれるかでしか世界を見れなくて、

 自分がどう見られたいかってことが常に頭のなかにあるから、うっとうしいくらいに心のまんなかにあるから、

 だから、無自覚に、観客を意識したみたいな振る舞いになってしまうのかもしれない――きっとそれは、そこに誰もいないときでさえおなじで……。

 

 ……それこそかなしい慟哭めいて思えた。


 

 ――また、わかった風なことを。

 

 悪い癖だった。

 気を取り直し、今後のことを考える。

 

 ………………。

 ……………………。

 

 やはり今日で調査を終わりにしようと決めた。

 

 いったい状況がどこまで進行してしているのかはわからない。

 でもこの町を出ない限り、少女の想いは空回るばかりだろう。

 ……なぜなら俺にはそれに応えるつもりがないからだ。


 …………。

  

 俺はともかく最後の調査に向かった。



 資料館で一冊の本を購入する。

 超能力少女の遺した、不定期の日記だ。

 人気のない公園に陣取りそれを紐解いていく。

 そこに記されているのは不幸な半生と、それが膿んだ激しい孤独と焦燥だった。

 ……黙々と読み進めていく。

 やがてその先に、呪いが人格に与える影響に関する言及を見つけた。

 確かにそれは克明に、生々しく描写されていた。

 思ったとおりだった。その様相は、あの忘れられぬ物語で、ただひとりの少女が陥っている状況に驚くほど酷似していた。

 要約すれば「どこからが呪いでどこまでが自分なのかわからなくなる。まじりあってとけあって、自分のぜんぶが醜く思える。自分はばらばらになって消えてしまったみたいだ。あるいははじめからそんなものは存在しなかったみたいだ。ただただ自分がからっぽの化物に思えて仕方がない」というような内容だった。

 ただつけ加えて言うなら、超能力少女のそれには、時代を跨いだ複数人の記憶の混入まで見られたらしい。

 

 けっきょくわかったのは、たったそれだけだった。

 俺はもうこの件から目を逸らすことにした。

 仮に伝説の継承者を見つけたとしても、それがほんとうにずっと探し続けてきた少女なのかはわからないのだ――。


 ……致命的な矛盾を棚に上げたまま、俺は少女を迎えに行った。

 

 あえてなんでもない風に喫茶店へ誘う。

 部屋まで行ってしまえば今度こそ際限がなくなるからだ。

 少女も無邪気に承諾してくれた。

 

 ブラックコーヒーとホットココアがテーブルに出され、互いにちびりと口に含む。

 少女の仕掛ける他愛もない話を半ば無理やりぶった切って、俺は本題を持ち出した。


「――ってことでさ、そろそろこの町を出ようと思うんだ」

 ここまでの流れでもう察しはついていただろうが、やはり少女は大きなショックを受けたようだ。一瞬にしてひどく冷めたような顔になる。


 …………。

 

 しばらく重苦しい沈黙が続いた。

 やがて、少女はなにもかもを諦めたみたいに薄く笑った。


 ――そのとき、いっしゅん黒い靄のようなものが滲んだ気がした。

 

 少女はやけに明るい声で言う。

「う~ん、旅ですかあ。旅っていいですよね。私の両親ももうずっと旅ばかりしていますよ。と言っても仕事ですけどね。二人してなにか大きな事件を追っているそうです。あの、あなたもずっと旅をしているんですよね? いったいどんな理由で旅を続けているんでしょうか? せめて置き土産にそれくらいは教えてくれますよね。父も母もそのくらいは教えてくれましたよ。まさか理由も言わずに捨てていくなんてことはしないですよね」

 血を吐くような叫びだ。

 俺は淡々と答えだけを告げる。

「ずっと、あるひとりの少女を探しているんだ」

「そうなんですか私なんかじゃやっぱりダメなんですね。その子はやっぱり私よりかわいいですか? 私よりも若くてきれいですか? 私なんかよりずっと優しくて気立てが良いですか? エッチなことだっていっぱいさせてくれるんですか? 生でさせてくれるんですか? おっぱいだって大きいですか? とにかく私よりずっと魅力的で都合のいい女なんですよね」

「……いやそれが、その少女の顔も素性もわからないんだ。体型は……見たとこあんたとおなじようなもん、みたいだけどな…………悪いな。ちゃんと答えてやれなくて」

「…………」

 少女はしばし沈黙する。

 

 ……気づけば、目に光を取り戻していた。


 それから俺の不毛を労うように言う。

「そうですか……それはまた途方もない話ですね……」

「……ああ。そうだな」

 まだ熱いコーヒーをぐいっと煽る。

 空になったカップを戻すやいなや、少女が場違いなほどあっけらかんとした声で言った。

「――あ、そうだ。もし良かったらもう一度あのアクセサリを見せてくださいよ。すごくきれいなものだったので最後に見ておきたいんです」

 ……断る理由も特にない。

 黙って差し出す。

 まじまじと眺めてから、少女は言う。

「……やっぱり、この子、私にすごく似ていますよね。なんだか自分がこのなかにいるみたいで、不思議な気持ちになります――あの、こんなの私に言われるまでもないでしょうけど、これからもずっと大切にしてあげてくださいね」

 そっと返してくる。

 …………。

 ……試みにそのなかを凝視してみるが、やはり結果はいつもと変わらない。

「なあ、ほんとうにこの人形の顔が見えてるのか?」

 少女は怪訝そうに小首を傾げる。

「……あの、どうしたんですか? 確かに小さくて見えにくいとは思いますが、非常に精巧に作られてますので、決して顔を識別できないということはないはずですが……」

「……そうか。いや、いい。それで、その人形はどんな顔をしてるんだ?」

 少女は自分の顔を指差してみせる。

「あの、ですからちょうどこんな感じの顔です。ほんとうにびっくりするくらいよく似ていますよ。不思議な偶然もあるものですよね」

 ……今いち釈然としないところもあった。

 だが俺にとっては、誰かを疑うよりも簡単に信じてしまうほうがむしろ楽に思えた。

 だからただ曖昧な相槌を打つ。

「まあ、そうなんだろうな」

 少女はたった今思い出したみたいに言う。

「あの、それで具体的にはいつ出て行かれるんでしょうか?」

「……そういえば、まだ決めてなかったな」

 

 俺たちは今日もふたりでマンションへ帰った。



 それから、タガがまたひとつ外れたようだった。

 

 少女は目に見えて甘えるようになった。

 言外に滲ませるばかりだった悩みを、そのまま吐露するようになった。

 

 自分に厳しさばかり押しつけて放置する、残酷で身勝手な親のこと。

 転校ばかりで友だちさえ作れず、なんの支えもないまま過ごした、さみしかった子ども時代のこと。

 地元の人間ばかりが肩を寄せ合う学校での、針のむしろのような今のこと。

 

 そんなあれこれを、まるで幼い子どもみたいになって語るのだった。 


 俺はいつしか、少女に対し一線を引くのをやめていた。

 

 少女の言葉に心から同調するみたいに頷きながら、ままごとみたいに頭を撫で続けた。

 

 そんな日々が一週間くらい続いたのち、それは起きた。

 少女は俺の膝の上で、いつも通りに甘えていた。


「――あのね、今日ね、あのボス猿に目をつけられたの。わたしがあいつのマネしてるみたいなこと言ってたの。先にあのシャーペン使ってたの、わたしのほうなのに。それで遠回しに、わたしと仲良くするな、みたいな、こと、言ってて」

「……それでね、あのね、きょうは学校でおともだちして、くれてた子がね、なんかね、やっぱりちょっと、ヘンだったの。いつもと違って、冷たかった、の……っ」

 少女は激しく泣き出してしまった。

 嗚咽を交えながら続ける。

「あの、ね。わたし、ね。けっきょく、よそもの、だからねっ。あいつらの、なかまじゃ、ないから、ね……っ」

「きっとねっ、もう、きられ、ちゃうの……っ」

「わたしっ、おやにもっ……すてられてっ! がっこうの、子にまでっ、すてられてっ……!」

「わたしにはねっ、だれもっ、いないんだ、よぅっ! いっしょうっ、誰もっ、あいして、くれ、ないんだよぅ……っ!」

 

 …………。

 ………………。


 けっきょく、あのときもう選んでしまっていたのだから――。

 

 俺はそっと囁いていた。


「……俺がいるよ」

「……いないよぅっ、だってっ……! またいつかっ、いっちゃうんっ、でしょっ!?」

「行かない。これからずっとここにいるよ」

「……ほんとに!? ほんとに、ずっといっしょに、いてくれる!?」

「ああ。ずっといっしょにいるよ」


 俺はそう自分の運命を規定した。


「……ありがとう。あの、それって告白って思っていいのかな?」

 少女は途端に落ち着きを取り戻して言う。

「……ああ。そうだ」

 つまりはそういうことなのだろう。

 俺は未だ少女のことを「好き」と言えないまま、「ただひとりの少女」を目の前の少女へと仮託した。

 そして形而下の問題が突きつけられる。

「あ、でもわたしとつき合おうと思ったら、どこでもいいから、せめて就職ぐらいしてくれなきゃダメだよ。お父さんもお母さんも、そこは厳しいから」

「……わかった。じゃあそうするよ」

 少女は満面の笑みを浮かべて言う。

「ありがとう! これからよろしくね!」

「ああ。こっちこそよろしくな」


 俺たちは新しい生活に向かって歩み始めた。



 …………。

 ………………。


 しかしその日の晩。寝床のなかでふと思ってしまった。

 

 ……ほんとうに、これでよかったのだろうか?


 もちろんこうなった以上は、もう他の可能性を探すつもりはない。

 答えの正否に一切関係なく、俺はこの道をずっと生きていかなければならないのだ。

 それでも、やっぱりまたいつか思うのだろうか?

 この少女は、違ったのだろうか? と。

 もしかすると、俺は一生、その迷いを抱えて生きていくのかもしれない。

 

 ……俺はそれをほんのすこし、いや、ひどく恐ろしいと思った。


 ――こんな思考は最低だ。


 どうせそんなのもすぐ忘れるくせに、俺は自分を否定することで残酷な迷いをうやむやにした。

 そして、そのままゆっくりと意識を手放していった。



    †


 次の朝、少女はひどく憔悴していた。

 

 それでも、頑なに学校へ行こうとするのをやめない。

 俺は少女の腕をつかんで言う。

「……無理すんなって。せめて一日ぐらいゆっくり休めよ」

「…………」

 少女は心を閉ざしたままなにも言わない。

 硬質に沈んだ瞳は、この世界のなにをも映していないように見えた。

 ……さっきからずっとこんな調子だった。

 少女はぼとりと冷たい声を落とす。

「……放して」

「……そんなに無理してどうするんだよ。熱も出てるし、息だって荒いだろ」

「……放せ!」

 全身のバネを使ってむちゃくちゃに腕を振るう。

 その激しさに、俺は情けなくも手を払われてしまった。

「――っ!」

 少女は前につんのめって倒れてしまう。

 そのまま、なにか呪詛めいたうわごとを繰りながら眠ってしまった。


 少女が目を覚ましたのは次の日の晩だった。


「…………」

 少女はなにも言わなかった。

 ただ、ベッドの上で半身を起こして冷たく壁を凝視していた。

「……おはよう。今からおかゆを作るよ。お腹、空いてるだろ?」

「…………」

 少女はなにも答えなかった。

「……じゃあ、ちょっと行ってくるよ。これでもけっこう自信はあるんだ。ま、あんまり期待しないで待っててくれよ」

 俺はなんでもないみたいに笑って、キッチンへ向かった。

 料理を作りながら考える。

 どうして、少女は突然急変したのか……。

 まさか、俺のあの迷いを察したのか?

 だが、それは心を閉ざす理由にはなっても一晩でやせ衰える理由にはならない。そもそも、俺が目を覚ましたときにはもうあんな風になっていたのだ……。

 そこでひとつの可能性が思い浮かぶ。

 あの日、一瞬見た黒い靄のようなもの。

 やはりあれは呪いが関係していたのかもしれない……。

 

 だが仮にそうだとしても、現状やることは変わらない。


 ともかく、俺は少女の看病に専念することにした。


 サツマイモ入りのおかゆとすりおろしたリンゴ、それからポカリスエットを持って少女のそばへ戻っていく。

「お待たせ。まあ、なんていうか今いちひねりのない献立だけどな。勘弁してくれ」

「…………」

 返事は返ってこない。

 俺は少女の枕元に座り、言う。

「……よし、せっかくだから『あ~ん』してやろうか。言っとくが、こんなの今だけだぞ?」

 それはずっと少女が望んでいたことだった。

 

 ……いつもなにかと理由をつけて断ると、少女はいちいちむくれて見せていたっけ。

 

 そんな日々のことが、なんだかとても昔のことに思えて、俺は目の前の少女をはじめて心から恋しいと思えた気がした。

 

 少女の口へ向け、おかゆをすくったスプーンを差し出す。

「…………」

 いっしゅん視線を向けるものの、やっぱりそっぽを向いてしまった。

「……まあ、気にしないでいいからな。とりあえず置いてくから好きなときに食べてくれ。あと、なにかあったらいつでも呼んでくれよな」

 頭をぽんと撫でてから、潔く部屋を出て行った。


 寝る前に様子を見に行くと、食器は空になっていた。

 

 少女はまた眠っているようだった。

 起こさないように気をつけつつ、自己満足のためそっと頭を撫でる。あるいは、夢のなかにまで伝わればいいなんて間抜けなことを思いながら。

「……よしよし、偉いな。よく食ったぞ。さ、今はゆっくりおやすみ」

 そう言い残して、部屋を出た。


 次の朝、少女はぽつりと言ってくれた。

「……服」

 眠っている間に汗を拭いたりはしていたが、着替えまではさせてやることができなかったから。それできっと不快なのだろう。

 俺は快く着替えを用意してやる。

「どうする? もし恥ずかしくないなら着せ替えてやろうか?」

「…………」

 しばらくだんまりを決め込んだあと、そっぽを向きながら言ってくれた。

「…………やって」

 自分でまったく身体を動かそうとしない少女に、なんとかしてきれいな服を着せてやった。


 それから次第に少女の態度は軟化していく。


 俺は服を着せ替え、身体を拭き、ご飯を食べさせ、氷嚢を取り替える。

 はじめは無表情にそれを受け入れていた少女も、すこしずつ笑顔を見せるようになった。

 俺がなにからなにまでしてくれるこの状況を、ただ無邪気に楽しむようになった。

 ――まるでほんとうにちいさな子ども時代にでも戻ったみたいに。


 だがそんな日々はそう長く続かなかった。

 少女は欠席が続く今の状況に不安を覚え始めたのだ。

 現実はいつだって残酷で、世間の流れは容赦を知らない。俺たちにゆっくり心を育てなおす時間など与えてくれない。

 だから少女は焦りを募らせていく。

「……どうしよう? ダブったりしちゃったら、お父さんとお母さんになんて言われるかわかんないよ」

 俺はそんな少女の頭をぽんと撫でながら言う。

「な~に言ってんだ。まだひと月も休んじゃいないだろ? とにかく今はゆっくり休むのが仕事だぞ」

「でも、もうぜんぜん良くならないよ? わたし、知ってるもん。このまま良くならないって……」

 先のことはともかく、回復が滞っているのは事実だった。

 病院は……どうせ意味がないだろう。俺はすでにこれが呪いによるものだと直観的に確信していた。

 ……未来にも、あまり明るい兆しがあるとは思えない。

 かと言って、いつまでもこんな生活を続けることなど、できやしない。

 俺たちはすでに袋小路まで辿り着いていた。

 それでも俺だけはそれを認めるわけにいかなかった。

「……まあ、今は気にしても仕方ないさ。お、そろそろ大好きなアニメが始まるぞ? よし、今日もいっしょに観るか」

 けっきょく、そんな子どもだましで、その場をやり過ごすしかなかった。


 そしてその日はやってくる。


 少女はまた学校へ行こうとする。

 身体はちっとも良くなっていないのに。

 俺は少女を止めようとする。

 少女は俺を振りほどこうと暴れる。

 まるであの日のリプレイを眺めているみたいだった。

 ただわずかに違うのは、少女がほんのすこしでも対話の意志を見せてくれているという点だった。

 少女は叫ぶ。

「――だって! どうせいつかは行かなきゃいけないんでしょ! でないとダブっちゃうもん! だから今行くんだよ!? どうしてとめるの!? もう放っといてよ!」

「なに言ってんだよ。どうせ今行ってもそのうちまたぶっ倒れるだけだぞ」

「そんなのわかってるよ! もう放っといてよ!」

 ……支離滅裂だ。それこそ行く意味がないだろう。

 でもそれを告げたところで、きっとなにも変わらない。

 俺はすこしでもマシそうな言葉を探す。

「……不安なのはよくわかる。焦っちまうのも仕方がないよな。でもダブるのが怖いのはお父さんとお母さんのことがあるからだろ? だったらそのときは俺もいっしょに謝ってやるから。な? それで許してもらえるかもしんないだろ?」

 あるいはもっと早くに言えていれば、すこしは意味のある言葉になりえたのかもしれない。

 だが今さらになって届くはずもなかった。

 少女は悲痛に叫ぶ。

「無理だよ! どうせまた捨てられるもん!!」

「……もし万が一そうなったとしてもだ、俺がいるって言っただろ? 今みたいに付きっきりの看病はできなくなるけどさ、俺が働いて生活もなんとかするから。な、大船に乗ったつもりでいていいんだぞ」

 そんなのでやっていける保証なんてない。

 現実はそんなに簡単なものじゃない

 ……そもそもすべてがもう、遅すぎた。

 少女はまた心を閉ざしてしまう。

 ひたすら拒絶の言葉ばかりを叫び続ける。

「放せ! 放せ! 放せ! 放せ――」

 身体はボロボロのはずなのに。

 まるで手負いの獣みたいに、ものすごい勢いで暴れ始める。

 ……このままじゃ、それこそ死ぬまで続けそうだ。

 そう思った俺は、少女を手離してしまった。


 少女はふらふらと、歩き出す。

 そしてまるで泣き叫んでるみたいに、

 くらく、冷たい声で吐き棄てる。


「嘘つき。ぜんぜん就職しようとしなかったよ。ほんとは自分がかわいいだけのくせに」


 …………。


 ……けっきょくぜんぶ見抜かれていたのかもしれない。


 

 自分のすべてがくだらなく思えた。


 俺は衝動のままに、  を手に取った。


 そしてひたすらに斬りつける。


 まるで自分を汚せば許されるみたいに。

 自分がぜんぶ悪くて自分のぜんぶがさいあくだってことにすればなにも考えないでよくなるみたいに。


 どうせまたそんなのも忘れて、どうせすぐおなじことを繰り返すくせに――。



 濁流のごとく押し寄せる黒い靄に、俺は呑み込まれていった。



    †


 次の日、少女はなかなか起きてこなかった。

 

 様子を見に行くと、少女はベッドに寝そべったまま頑なに心を閉ざしていた。

 身体のほうも、ひどくやつれていた。


 いろいろと不可解だったが、俺はなるべく気負いを見せないようにしながら、ともかくまめに看病し続けることにした。

 他にできることなんて思いつくはずもなかったから。


 すると少女もだんだん俺の世話を素直に受け入れるようになり、また笑顔を見せてくれるようになった。

 そしてただひたすらちいさな子どもみたいに甘えてくる。

 俺はそんな少女をかわいく思いながら、まるでお父さんにでもなったようなつもりで目の前の少女との安穏な日々を楽しんだ。

 ほんとうに、少女から思い切り心を預けてもらえることは、そんな風に優しいと思ってもらえることは、やっぱり俺にとってどうしようもなくうれしかった。

 

 ある日、少女が言う。

 俺に頭を撫でられながら、とろんとした声で。

「えへ~。やっぱりこうしてるとあんしんするよ~」

「そうかそうか。じゃあもっとしてようか」

「うん。ありがとう」

 少女はそのまましばらく目を細めていたが、やがて急に申し訳なさそうな顔になる。

「……あのね、いままでね、いっぱいひどいこと、してごめんね。わたしはね、すごく、ざんこくなんだよ……」

 俺は少女の髪をくしゃっとしてやった。

「なにも気にすることなんてないだろ? 子どもが大人に甘えられなくてどうするんだ? 拒絶もその延長みたいなもんだ。べつに大したことじゃない」

「…………ありがとう……っ! あのねっ! わたしっ、がんばるからっ! がんばるからっ…………!」

 少女は突然わんわんと泣き出してしまった。

 俺はただ少女の頭を撫で続けた。

 そうして、それは少女が眠りに落ちてしまうまで続いた。


 俺はそっと立ち上がり、少女へ「すこし買い出しに行ってくる。すぐ戻るから安心して待っててくれよ」と置手紙を書いた。

 

 少女のそばを離れ、外の世界へ飛び出る。

 ここしばらくは少女に付きっきりだったし、備蓄のものがいろいろと尽きはじめていたから。

 俺はもうずっとその機会を伺っていた。

 もちろん買出しは必要だ。だからそれは仕方がない。

 でも俺は、少女からのしばしの休息も望んでいたのかもしれない。


 俺は約束を果たさなかった。

 なんでもないことだと思っていた。

 なんにも、わかろうとしていなかった。


 ……どうせしばらく寝てるだろうしな。まあ、ちょっとくらい時間をつぶしてもいいか。

 そう思って、たまたま目に飛び込んできた漫画雑誌をのうのうと立ち読みした。


 気づけば阿呆アホウみたいに熱中していて。

 買い物が終わり帰り着く頃には、すっかり日も暮れていた。


「ただいま。ごめん、ちょっとだけ遅くなっちまったな」

 

 俺はそんな風に簡単に謝るつもりだった。

 だが、そんな軽薄など許されるはずもなかった。


 玄関のドアを開けた瞬間、黒い靄がバックドラフトのように世界へ噴出する。

 

 俺はそれを見た瞬間に悟った。


 ――ああ、やっぱり俺は人でなしだ。



    †


 少女はすっかりやつれきっていた。

 

 俺はわけもわからないまま、ただ間抜けに立ち尽くす。


 すぐに気を取り直し、少女を看病しようとする。

 まず少女の頭を撫でながら、できるだけ気さくに声を掛けようとする。

 だが少女はそんな俺の手を意図をそっと振り払い、ぜんぶ諦めたみたいに薄く笑った。


「……もう、いいんです」


 それはきっと、どんな冷たい拒絶よりもずっと深い拒絶だ。

 なにがあったのかはわからない。だが俺たちの昨日が、遥か遠くにってしまったことだけは確かだった。

 俺はバカみたいに無力な言葉を重ねる。

 ――もうすべてが無意味だと、心のどこかで悟りながら。


「なにがもういいんだ? これからじゃないか。これからずっといっしょにやっていこうって言ってたんじゃないのか?」

「……けっきょく、私の問題ですから。私はもう、がんばれません」

「べつにがんばらなくてもいいじゃないか。もう十分がんばってきたんだろ?」

 なんにも知らないくせに、俺はわかった風に言う。

 そんな言葉が少女に届くはずもなく。

「……きれいごとですね。けっきょく私はただ……みんなを不幸にしてきただけですから」

 

 少女の身体から黒い靄があふれて、骨と皮ばかりの全身をぞわぞわと包んでいく。


 真っ黒になっていく少女が、別人のように無機質な声で言う。

 それはまるで、呪いの靄そのものが音声を発しているようだった。 


「ずっといっしょなんて、子どもの戯言ざれごとでしたね。ぜんぶ幻想です。あなたもけっきょく人間です。ほら、また逃げるんでしょう? いいですよ、べつに。だからもう早く私を殺してください。すみません。知ってます。できないんですよね? あなたはそういう人ですから。だって怖いだけなんでしょう? 優しくない人になるのも。自由な自分を失うのも。けっきょく自分がとことんかわいいんですよね。知ってます。あなたもただの人間です。私が一番嫌いなこの世で最低の動物です」

 

 そして、どろどろと溶けていく両手で、俺の手をぎゅっと強く握って言った。

 血を吐くように、やっぱり見果てぬ愛に縋りつくように。


「……お願い、私のいないところでなんか、幸せにならないで――」


 少女は跡形もなく消えていった。



 ……。

 ………………。


 今回は、ほんとうに最悪だった。


 ずっと忘れていた、どうしようもない過去をまざまざと突きつけられたような――。


 これまで俺は、こんな事態になるのを上手く回避していた。

 なんにもする気なんかないくせに、都合よく自分の「優しさ」を歌って。誇張して。


 それでいて、自分をそれとなく、あるいは目に見えて頼ってくる少女たちに対して一線を置いて、ただその夥しい死だけを見守ってきた。

 ――ほんとうに、まるでそれがかなしい必然だったみたいに、少女たちは俺と出会って間もないうちに死んでいったのだ。


 でも、今回は特別だった。

 そこに言い訳の余地さえない。

 仕方がないのだと、世界のせいにして、ごまかすことさえ許されない。

 なぜなら、俺は確かに一度、あの少女を選んだのだ。

 

 そして俺はどうしようもなく、救わなかった。

 ……少女になにが起きていたのか、その呪われた力がどんなものだったのかぐらい、俺にも察しがついている。

 

 要するに、それがただひとつの答えだ。


  ――いつだって俺はわかった風なことばかり言いながら、その実、誰のことも見てなんかいなかった。




 俺は少女の部屋から逃げるように飛び出す。

 最低だ。

 わざわざ人の行き交う場所まで行って、衝動のままに歌う。そしてただ、自分を呪う。

 人々が、汚いゴミでも見るみたいな目を向けてくる。

 いい気味だ。

 俺はもう、ぜんぶなにもかもどうでもよくなっていた。

 くだらない歌なんかもう歌うのをやめてしまおうと思った――。


 狂ったみたいにギターを地面へ叩きつける。

 滅多クソに踏みつけて、ぐちゃぐちゃにバラしてやった。


 ……そして。


 ……やけに醒めた頭で思う。


 ――あの少女は違ったんだな。


 ただひとりの少女模型はあいもかわらず光を放ち続けていた。


 俺は性懲りもなくそれに触れる。

 甘やかな感傷が心に拡がる虚無を埋めてくれる。


 俺は想う。

 あの少女だけは、きっと救ってやる、と。



 でも、それが誰なのかわからないから。

 名前も顔も知っちゃいないから。



 また俺は、すべての少女のかなしみを背負ったみたいな顔をするんだろう。


 ……………………。



 けっきょく俺は、なんにも変わらなかった。

 またひとつ、心の歪みばかりを根深くさせて。 

 螺旋階段を地底へ向かって降りていくように、おなじところをぐるぐると回りながら、ただどうしようもなく誰かに認めてもらいたいとだけ叫んでいた。 

 

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