3.やさしいまじない、罪の詩
――また懲りずに少女の寝起きを見守っていた。
少女は今日も不安そうに呟く。
「……おはよう」
ぼくは泣きそうなままで答える。
「うん、おはよう」
それから少女は二度も謝る。
「……ごめんね」
「ううん、気にしなくていいんだよ」
「……ごめんね」
――いったいいつからだろう、少女のやさしさにありがとうを返せなくなったのは。
ぼくは不意にやりきれない思いに駆られ少女を抱きすくめる。
心のなかで「ごめんよ……」と謝りながら。
それはむなしい負の連鎖だ。
ぼくは後悔する。
どうせ少女もまたすぐに謝るんだろう。いっぱいひとりにさせてごめんねって。でも直截そう言うことはできないままに――。
……けれど少なくとも今のところはそうならないで済みそうだった。
今日ものっそりと現れるやわらかな影。
あの珍妙なしゃべるぬいぐるみだ。
そいつはゆっくりともったいぶった様子で近づき、まじまじとこちらを見つめてくる。
「むぅ……朝っぱらからさかるのはよしてくれんかのぅ」
……ひどいことを言う。
それと今は朝じゃない。こいつはいったいどれだけマイ時間で生きていやがるのだろう?
仕方がないから当然やりかえしてやることにする。
「ほぉ、おまえはやっぱり今日もうまそうだなぁ……」
じっとりと舐めまわすような視線をぶつけてやる。
少女もぬいぐるみを見てたのしそうに言う。
「うんうん、きっとたべたらおいしいよね~」
珍妙なぬいぐるみはまた「ひぃぃぃ」とすくみ上がる。
「あ~、UMA肉の丸焼きとかもいいよなあ。ロマンがあって」
「え、×××××のなかみってやっぱりまろんだったの!? あたしたべたい!」
……目がだいぶマジである。
「や、やめとくれ~! わてはただのぬいぐるみやど!? UMAでもマロンでもないねんで!?」
しゃべる珍妙なぬいぐるみがなにを言うか。
まあ確かにマロンではないだろうけど……。
「じゃあ×××××、いっしょにきっちんにいこう?」
……しかし少女がいつも以上に積極的だ。
「や、やめてくれぇぇ!」などと断末魔の叫びを上げるあわれなぬいぐるみを問答無用で抱きかかえ、ちいさなキッチンへと入っていく。
少女の恍惚とした声とぬいぐるみの悲鳴は続く――。
……あれ、これってぼくが止めに行かないと引き際がわからなくなるんじゃ……?
「――ちょ、ちょっと待った!」
急いで駆け寄り声を掛ける。
少女はそいつをまな板の上に押さえつけ、今まさに包丁でさばこうとしているところだった。
「……え? あれ? どうしてあたしこんなことを!?」
……うん、さすがに冗談だよね……?
でもまあ、そうじゃないほうがある意味ずっといいのかもしれないか――。
ついそんなことを思ってしまう。
…………。
それが決め手になった。
なんとかやさしい茶番の向こうへ押し留めていた不安や感傷が、一気に押し寄せてきてほんとに泣いてしまいそうになる。
「……どうしたの? ……えっと、おなかでもいたいのかな?」
少女がおろおろと心配そうな声を上げる。
きっとそんなにもかなしそうな顔をしてしまっているのだろう。
――またひとつ、大切なものに確かなヒビが入っていく。
「……ごめんね、ちょっと下しちゃったかも。お手洗いに行ってくるよ」
なるべくなんでもないように言って、ぼくはトイレへ逃げ込む。
後ろからは「むぅ……ますたーべーしょんかのぅ?」などというとぼけた声が聞こえる。
……和ませるにももっと言葉を選びやがれ。
なんて思いながらも、すこしだけ気が紛れるのを感じていた。
洗面台で顔を洗い、一息を吐く。
少し落ち着いたところで覚悟を決める。
さすがにこのままじゃ不味いから。
きっと今も少女は不安になっているはずだから。
だから今一度心を強く持って、せめて目の前の状況だけでも自力で乗り切ろう。
そう心に誓って、みんなのところへ戻る。
「……おなか、だいじょうぶ?」
やっぱり不安そうに聞いてくる少女。
「うん、もう落ち着いたよ。心配してくれてありがとう」
ぼくはなんでもないみたいに微笑みながら、少女の頭をなでなでする。
ひさしぶりにちゃんと優しい態度を取れた気がする。
形をなぞるだけなら、まだまだやってやれないことはないのだろう。
ぼくはその事実にすこしだけ安心する。
少女もまた照れたようにえくぼをつくって微笑む。
――平和な時間だ。
……なんて思っていると少女がふと怪訝そうな声を上げる。
「……あれ? ××くん、なんかへんなにおいするよ?」
「え、えっとなんだろうね? よくわかんないな?」
……ちゃんと手は洗ったはずなのに。
どうしよう?
ぬいぐるみのやつが、やたらとにやにやしたような声でいらないことを言ってくる。
「ぶっふふ、気持ちよかったかのぅ、××や?」
……こいつ。
ちなみにさっき、そういえばずっとしてなかったなあ、とか思ってついやってしまったのである……。
ま、まあ、少女にはなんの話をしてるかもわかんないだろうから大丈夫だろう。
そう思って少女のほうを見やると……、
「……きゃっ」
なんか顔を背けられるし、ほっぺたが赤いし、妙に脚をもじもじさせている……。
しかもなぜだかちょっとうれしそうだし?
「…………」
「…………」
なんとも言えない沈黙。
こんなときに限って頼みの綱の謎生物はぜんぜん助けてくれないし。
さっきからやたらとにやにやしたような雰囲気で(ちなみにあわれなぬいぐるみなので表情はいつもの間抜け面のままだ)こっちを見てくるばかりだし。
……ほんとどうしようこれ……?
「――よ、よし! 今夜はみんな大好き鍋パーティーにしよう!」
とりあえず無理やりうやむやにすることにした。
「う、うん! そうだね! それがいいよ!」
少女もとりあえず乗っかってきてくれる。
……その心境がいかなるもなのかはわからないけれど。
「よ、よし、じゃあ決まりだな! なんならたまには豪勢にしゃぶしゃぶなんか――」
「ううん、いつものがいい!」
少女が断固として主張する。
動揺のせいでいっしゅん失念してしまったけれど、少女はいつものが大好きなのだ。
「……そうだな。それがいいよな」
そしてぼくたちは和気あいあいと湯豆腐の支度を始めた。
「――きょうもおねぎがおいしいねぇ~」
少女はご機嫌に鍋をついばむ。
ぼくはそれを眺めながらビールを含む。
ぬいぐるみもまったりと少女の膝元で安らう。
そんないつも通りの時間。
「ううぅ……どうせわては欠陥品なんや……」
……なんだかうめき声のようなものが聞こえる気がするのはご愛嬌だ。
「ああ、今日もビールがうまいなぁ……」
ぼくたちは幸福な団欒を楽しむ。
思い思いの喜びを互いに分かち合う。
確かに、ここにはちゃんと三人がいる。
そんな大切で儚い時間を、今日も噛み締めるように過ごした。
今日の寝物語は少女の番だ。
「あのね――」
少女は夢のなかでの暮らしぶりを語る。
その大して代わり映えのしない毎日について、いつも飽きもしないでつまびらかに話してくれる。
まず昨日の分が終わり、そして今日の分が始まった。
「きょうのちょうしょくはね、とーすととさらだとべーこんえっぐ! それとね、いつもどおり×××××があま~いかふぇおれを、××くんがにが~いぶらっくこーひーを、あたしがはちみついりのみるくをのんだの!」
ぼくたちは三人で朝の食卓を囲む。
「それでね、きょうはいつもよりべーこんえっぐがじょうずにつくれてね、×××××がうでをあげたのぅってえらそうにいってくれて、××くんもすっごくおいしいっていってくれたんだよ!」
どうやら今朝は上手く行ったようだ。
……ちなみに昨日は黒焦げにしてしまったらしい。
「それでね! みんなでたのしくおしょくじしてたらね、×××××とのみものをのむたいみんぐがしんくろしたの!」
その言葉を受け、「ぶふり……」とぬいぐるみがほくそ笑む。
……まあ、こいつの言いそうなことぐらいは容易に想像がつく。
「でもね! そしたら×××××、すっごいかちほこったようなかおしてえっらそうにいうんだよ! ――ぶっふふ、あいかわらずお子ちゃまよのぅ。ほれ、おぬしもコーヒーを飲んでみたらどうじゃ? ――って!」
少女は憤懣やるかたないといった様子でぷんすかしてみせる。ちなみに地味にぬいぐるみの口真似が上手い。ちゃんと漢字とカタカナまで再現できている。
「だからね! あたしはいいかえしてあげたの! ――×××××のだってはんぶんはみるくだもん! それにそんなにおさとういっぱいいれておこちゃまなんだもんね! ――って!」
まあ、そうだよな。
しかしぬいぐるみのやつは、未だになにやら余裕げだ。
「でもね! そしたら――わかっておらんのぅ。おぬしはだからお子ちゃまなのじゃ。人生は苦いからのぅ、コーヒーくらいは甘くていいのじゃ。これこそがまさに苦味を知りつくしたおとなのための飲み物なのじゃ――とか、へんてこなぬいぐるみのくせにじんせいわかったふうなこというの!」
……少女のかわいいお口からわりと辛らつな一言が出た。
ぬいぐるみのやつもなんだかショックを受けているように見える。
それで溜飲が下がったというわけでもないのだろうけど。
少女は一転してほんとうにうれしそうな声で言う。
「あ、でもね! そしたら×××××が××くんもおこちゃまだからあたしといっしょ! おにあいだよ! みたいなことをいってくれたの!」
なんだか脳内変換の香ばしい匂いがしないでもないけれど……。
でもこればかりは、少女が心からのびのびと言ってくれている感じがして、ぼくもまたうれしい。
――いっそいつもこんな話題ばかりならきっと安心して聴いていられるのに。
心からそう思う。
けれど少女のすこし暴走気味な喜びもすぐに落ち着いてしまい、またヒリヒリとした時間が流れる。
少女は拙く語る。
三人ののびのびとした暮らしを。
三人でいっしょに過ごす、とても楽しく、心安らかな夢のなかの日々を。
そんな夢みたいな夢を一所懸命な様子で話してくれる。
精いっぱい、これはほんとうだよ、ほんとうにあったことなんだよって言うみたいに。
少女やぬいぐるみがいない間もぼくたちはいっしょなんだよって、なんとかそういうことにしたいみたいに。
――そのやさしさが、やっぱりぼくにはとても痛い。
やがて少女が語り終える。
ぼくは少女の的外れなやさしさに応えようと、ちいさな頭をそっと撫でる。
「……おつかれさま」
それはありがとうではなく、意気地のないごめんねの言葉だった。
――確かに今のぼくたちはお似合いなのかもしれない。
互いに、相手に気遣いをさせたり傷つけたりしているという虚実を、なかったことにしたいと思ってしまう。
だから謝ることはできても、お礼を言うことは難しい。
「ありがとう」と言えば、他ならぬ後ろめたい相手に対して、自分の非や罪を認めてしまうことになるから。
それは互いの抱える根源的な不安をますます強くさせてしまうから。
だからぼくたちはいつも傷ついたみたいな顔をして謝ってしまう。
ぼくたちにとって「ごめんね」は、きっと不安を薄めるためのかなしい呪いめいたものでしかないのだ。
もちろん、幼気な少女にそんなことを言うのは酷でしかない。
けっきょくぼくが至らないだけなのだ。
ぼくが少女に的外れな罪悪感を覚えさせてしまうから。
それでいつも気を遣わせてしまうから。
なのにそのことが痛くて受け止めきれないから。
「ありがとう」って言って安心させてあげることができないから。
そうやって不安をちゃんと消化させてあげられないから。
少女は今日も疲れたまんま、微笑むことなく停止する――。
…………。
真っ
ぼくは性懲りもなく、胸に下がったチャームへすがる。
そうしないと本気でどうにかなってしまいそうで。
だから読めもしない少女の名を眺める。
……押し寄せる郷愁はもはや狂おしいほどだ。
それはどろどろと淀んだ
……ひどい話だ。
それでもぼくは湧き上がる想いのまま本を開く。
読めば読むほどに、
かなしみのなかで死んでいく少女たちを見るほどに、
ただただぼくの心はおかしくなっていくばかりだというのに。
……ほんとうに、なにもかもがちぐはぐで支離滅裂だ。
そもそもこんなことにはきっと悪い意味しかないというのに。
そう思いながらも、けっきょくぼくはページを繰る自分の弱さを止めることができなかった。
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