2.夏の海、きみの死体
海は青いなあ……。
堤防の上、夏の空の下、俺の脳裏に浮かぶのはそんな間の抜けた感慨ばかりだった。
ほんとうに、今はなにも考える気がしない。
ちょっとだけでいい。
すべてを忘れていたい。
取り返しのつかない失態のことなんて、今はこれっぽっちも思い出したくない。
……なけなしの金が入った財布を失くしてしまったことなんて。
俺はざーざーと鳴る潮騒にただ身を委ねた。
ぽかーんと放心する頭で、ただ海の鼓動に包まれて――。
やがて、世界との間に淡いくっきりとした膜が掛かり、俺は自己の内へと沈んで行く。
……ああ、眠ろうとしているんだな。
どうしてか、はっきりとそう自覚しながら。
妙に鮮明な意識のなか、漠とした映像や音声が次々に立ち現れては消えて行く。
――それらはみなどこかかなしげで、けれど不思議と心地よく……。
逆再生するように渦を巻き、やがてひとつの情景へと収斂する――。
「ねえ、おか~さん。あのお~っきな壁のむこうには、いったいなにがあるの?」
構築された夢のなか、俺は幼い少年になって母と思しき女性へ問いかけている。
目の前にあるのは、まるで世界そのものを拒絶するかのような巨大な壁。
――それは忘れもしない……とてもさみしい情景。
母と思しき女性はかなしそうな笑顔を浮かべる。
「……あそこにはね、ちいさな森があるの。その奥のどうくつで、少女がたったひとりで暮らしているのよ。もう、ず~っとず~っと昔からね……」
けれどその意味するものが幼い少年にはよくわからない。他者の痛みを、その少年はまだ知らない。
「……どうしたの、おか~さん? どうして、そんなにかなしそうなの?」
そんな少年に対し、母と思しき女性は丁寧に説明を試みる。親身になって教え諭す。
「あのね、その少女はたったひとりで暮らしているのよ。あなただって、ひとりはさみしいでしょ?」
自分の痛みならその少年にも理解できるようだ。少年はこっくりと頷く。
「うん! おか~さん、ぼくひとりはやだよ!」
「そうでしょ? でも、その少女はもうずっとひとりなのよ……」
「ふ~ん? そうなんだ?」
でもけっきょく、少年にはよくわからなかったようだ。
――というか……なんだこれ……?
かつて誰かの語ったそれとは、さっきから微妙に、しかし致命的に演出や展開が違う。なにか嫌な予感がする。
そして案の定、それは起きた。
穏やかだったはずののっぺらぼうが突然豹変したのだ。
「――――ッ」
なんて悪趣味な改変。
発せられたのはとても聞くに堪えない罵詈雑言の数々。
優しくないその少年には、どうやら生きる資格がないらしかった。
それから唐突に場面は移り変わり……。
すっかり今と同じ姿に成長した俺は、巨大な壁にもたれて煙草を吹かしていた。
その向こう側から聞こえてくるやけに楽しげな歌へ耳を澄まし……、
より深く、より強く心を傾けていくうちに、次第に少女の泣き声が聞こえてくる。
やがてそれはひとつのメロディへと新たな像を結び始め……。
――これは。
不意の驚きに俺は目を覚ました。
しかしその歌が鳴り止むことはない。
俺は訝しく思いながら音のするほうへ顔を向ける。
果たして、そこにはひとりの少女の姿があった。
彼女は俺の1mほど横に座り込み、聞き覚えのあるメロディを口ずさんでいる。
まるで世界そのものを拒絶するように、重く硬質な空気を身に纏いながら。
「……あの?」
歌が鳴り止んだ後、俺の口から漏れ出たのはそんな間抜けな声のみだった。
少女はぎしりと気だるげに振り向く。
すべてがどうでもいいとでも言いたげな、そんな無機質な表情で。
「……なんですか?」
ぼそりと、冷たい声が灰色のコンクリートに落ちた。
「……いや、なんでもない」
――今きみの歌っていたメロディは俺の曲じゃないのか? まさか聴いてくれていたのか?
などと、とてもそんな白々しいことを言えるような空気ではなかった。
重苦しい沈黙がひたすらに続く。
少女は一体ここでなにをしているのか?
こんなところで、一体なにを求めているのか?
世界にもうなにも期待していないみたいな、硬質な拒絶を身に纏いながら。
なんとなく俺は立ち去る気にもなれず(そもそも先にこの場にいたのは俺なのだからべつに気を遣う必要もないだろう)ただ、少女と同じように遠く海を眺めていた。
そしてふと思う。
まるであの物語のなかの少女みたいだ、と。
――ずっとずっと昔から、ひとり壁の向こうに暮らしているという孤独な少女みたいだと。
まさかな、とは思う。
だがその可能性は必ずしも否定できない。なにしろ手がかりなど、ほとんどあってないようなものなのだから。
そんな茫漠としたことを考えるうちに腹の虫が「ぎゅるぅぅ~」と鳴った。
少女がまたぽそりと呟く。
「……お昼、まだ食べてないんですか?」
「ああ、つーか昨日の昼からなにも食べてないんだ」
「……そうですか」
少女はまた黙り込んだ。
なにかを考えるように首を傾け、やがて大きなコンビニ袋を持って俺のそばへ来る。
「……これ、よかったら一緒に食べませんか?」
「え、いいのか?」
「……はい。せっかくですから」
「あー、でも、今は手持ちがないんだが……」
情けない。これじゃあまるでタカっているみたいだ……。
「いいんです。どうせ……いえ、とにかく気にしないでください」
「……そうか。ありがとう」
「じゃあ、全部開けますから。適当に摘んでください。お箸とかフォークとかもいっぱいありますから」
少女はそう言って、次々に惣菜や弁当や菓子パンやケーキやパスタやスナック菓子なんかを広げていく。
――その光景があまりにも懐かしいものに思えて。
俺は不覚にも、少女の頭にそっと手を置いていた。
「…………」
少女は一瞬目をぱちくりさせてから、そのまま目を瞑った。
それはなんとなく、やわらかい時間のように思えた。
けれど、そんな揺籃めいたひとときは、少女の曖昧な声によって終わりを告げる。
「……あの、やめてください」
冷たくはない、ただどう振舞っていいのか戸惑っているかのような、そんな声……。
俺にはとてもその意味が読み取れず、ただゆっくりと手を離した。
「……ごめん。知らない男にいきなり触られるのなんて嫌だよな」
そんなあたりまえの言葉で茶を濁して。
「いえ、そういうんじゃないんです。べつにぜんぜん知らない人ってわけでも、ないですし」
少女はまた淡々とした声で言った。
「あ、ってことはやっぱり――」
「早く食べましょう。暖めてもらったものもありますので」
「そうか、なら急がないとな。じゃあ、いただきます」
「はい、いただきます」
俺たちは食べ始めた。
しばらくして、少女がぽつりと言う。
「……お兄さんは、不思議な人ですね」
「ん? どういう意味だ?」
「あの、ふつう引くものですよ。女の子がこんなにいっぱい食べてたら。なのになんかすごく優しくて……でも、べつに媚を売ってるとか、同情してるって感じでもなくて」
「ああ、そういうことか。なんでだろうな」
自分でもよくわからなかった。
ただ、上手く優しくできていたのなら良かったとか、またそんな度し難いことを思った。
そんなものに一体どれほどの価値があるのか、散々思い知ってきたというのに。
「……バカみたい」
少女は冷たく吐き捨てた。
その態度の意味が、ようやく少しだけわかった気がする。
俺たちはただ黙々と食べ続ける。
他にどうすることもできないのだ。
それなのに不思議と暖かな空気の流れていることが、そればかりが性懲りもなくうれしかった。
「ごちそうさまでした。……やっぱり誰かと食べるというのはいいものですね」
まるで心にもないように。ただただ無機質に言う。
「ごちそうさま。ああ、そうだな」
少女はしばらく固まったまま動かなかった。
「…………」
やがてなにかを思いついたようにか細い息を漏らし、逡巡するように考え込む。
そして訥々と言葉を発する。
「…………あの、ごめんなさい。お兄さんにお願いが……あるんですが……」
ひどく申し訳なさそうな声で、精いっぱい搾り出すように。
「ん、なんだ?」
「……ごめんなさい。今はまだ、言えませんが……」
「そうか。じゃあ、いつ教えてくれるんだ?」
「……明日の朝とかで、いいですか?」
「ああ。お願いを叶えてあげられるかどうかはわからないがな」
「……ありがとうございます。聞いてもらえるだけで、十分です……」
「じゃあ、どこで落ち合う?」
「……この近くに、廃線で使われなくなった駅舎があるんですが……」
「……悪い。わからないな」
少女は手早く地図を描いてくれた。
それから別れ際、俺の手を締め付けるように握手して、
「……あの、ありがとうございました。明日もよろしくお願いします」
今にも泣き出してしまいそうな顔でそう言った。
「ああ。こちらこそありがとう。なんだか知らないけど、よろしくな」
「……はい……さようなら」
少女はまた無機質を纏って歩き始める。
「……おう、またな」
そして一度も振り返ることなく立ち去っていった。
――今夜は週末だからか人通りが多い。
稼ぎ時だ。
俺は道行く人々の世代に合わせ、古いロックの名曲とかいうのをカバーして行った。
日銭のために、今日を暮らすために。
それでも自分の心とはあまり大きく離れないように――。
生きててよかったそんな夜を探してるとか、
この憂鬱な顔をきっと笑顔に変えようぜとか、
自由なんて言葉は僕は信じないとか、
心のないやさしさは敗北に似てるとか、
僕はなんて思えばいいのかわかんなくて君に逢いたくてまた明日を待ってるとか、
そんな言葉の数々を歌っていった。
ほとんどの人が見向きもせずに通り過ぎるか、立ち止まってもすぐに去っていくなか、何人かがしばし聴き入っては金を落としていった。
やがて人通りも減ってきたので、ひとり残っている若い客に声を掛ける。
「お兄さん、今日はありがとうございました。次で最後の曲にしますね」
「……そうですか。こちらこそ、いいものを見せていただきありがとうございます」
心から出た言葉なのだろう。他の客がみなノスタルジーに浸って楽しむなか、彼だけは真剣な面持ちで聴き入っていた。
「ありがとうございます。あ、なにかリクエストとかはありませんか? ある程度なら応えられますけど」
「いいんですか? じゃあ、お兄さんの曲とかあったら聴かせてほしいです!」
やたらと食いついてくる。
まあ、悪い気はしない。
「わかりました。では、僭越ながら――」
そして俺は歌い始めた。ほんとうは誰に届けたいのかもロクにわからないままに――。
世界は狂ったままで、
今日もどこかで誰かが泣いてるし、
君の痛みは俺には消せないけれど、
それでも君には生きていて欲しいとか。
あんたはもう十分優しかったから、
今度はおまえがおまえのために歌えよとか。
聴く資格も歌う資格もないって勝手に決めんなよ、
そんなん初めからねえよとか。
痛いって思うなら痛いって言えよ、
こんなの痛みじゃないってそれ誰が決めんだよとか――。
そんなどこかで聞いたような言葉の数々を、ただ歪に貼り合わせただけの嘘くさい代物だ。到底、誰かに届くはずもないような。
だというのに男は満足したようだった。
歌い終わった後、礼を言うと興奮した様子で握手を求めてくる。
「あの、すごくよかったです! 必死さがめちゃくちゃ伝わってきました!」
――必死さか。
そんなものはただの感情で、叫びや祈りはいつだって身勝手なものに過ぎなくて。
きっと誰も救うことなんてできやしないのに。
「これ、少ないですけど……僕の気持ちです」
男は五千円札を手渡してくれた。
そして「がんばってください!」と言い残し、自分のギターを背負って去っていった。
……バンドマンなら金に不自由してるはずなのにな。
彼なりにそれだけなにかを感じてくれたということなのだろう。
俺は不覚にもそれをうれしいと感じてしまう。
意地汚い承認欲求だ。
しかしそう思ってしまうこともまた、二重に不誠実な心の動きだと言えた。
……俺はいったいなにをしている?
心の虚無がまた少し拡がる。
俺は性懲りもなく辺りを見回す。
すでに何度も繰り返したように。
物や人の陰にその姿を見落とすことのないよう注意深く――。
だが堤防で出会った少女の姿を見ることは、けっきょく最後まで叶わなかった。
朝、バイクにガソリンを入れてから約束の場所へ向かった。
見捨てられた駅舎。
その目の前の地面に、チョークで大きな矢印が描かれていた。
少女の凝らした趣向かもしれない。
俺はそれを辿って行った。
矢印は切符販売機を指して止まっている。
そこに貼られた使用停止の紙の隅に、小さな文字が書かれていた。
《かつて竜の立ち止まりし家》
……竜ってなんだ?
いや、まずは家……ハウス……ホーム――。
綴りは違うがもしかしてプラットホームか? なら竜はたぶん電車のことだろう。
さっそく行ってみる。
……やっぱりな。
それで正解だった。
次に見つかったのは掲示板に貼られた図。
《人》という字を四角が囲み、はみ出たてっぺんをはさむようにして横向きの《き》と《ぷ》が並んでいる。
それはどことなくゆるくて、かわいらしいタッチで描かれていた。
……しばし眺めてからその場を動く。答えのほうはすぐに憶測がついていた。
俺は舎内に戻り駅員室の扉をノックする。
……しかし返事は返ってこない。
仕方がないので思い切って扉を開けてみる。
…………。
キャラクター物のボストンバッグが目立つ場所に置いてあった。
無用心な話だが、もしかすると少女はここで寝泊りしていたのかもしれない。
それとも単に荷物の処分に困っただけなのか。
あるいは渡したいものを目立たせるための小道具としてそこに置いたのかもしれない。
いずれにしても、そこにはもう新たな謎も少女の姿も存在しなかった。
俺はバッグの上に乗せられた脱力系デザインの便箋を開く。
†
びっくりさせてしまって申し訳ありません。
他にこの手紙を受け取っていただく適当な手段が思いつかなかったのです。
……実を言うと一度こういうミステリチックな遊びをしてみたかったというのもあるのですが。
それで、どうでしょうか? ほんの少しでも楽しんでいただけたでしょうか?
もしそうであったならば、とてもうれしいです。
いえそうでないにしても、こうして見つけてくださっただけでやっぱりわたしにはうれしいのです。
こんな風にわたしなんかと一緒に遊んでくれてありがとうございます。
それはきっとわたしにとって最後のいい思い出となるでしょう。
それでは前置きはこのくらいにして、昨日言っていた「お願い」をここに書いておこうと思います。
(……もしあなたがなんの心当たりもないようでしたら間違いなく人違いです。ここで読むのをやめてください)
とは言っても、いったいなにから話したら良いものか……、手紙を書くというのはなかなかに難しいものですね。
などとありがちなことを言っていてもなにも始まりません。わたしはわたしを終わらせることができません。ですのでとにもかくにも支離滅裂でも無理やり進めちゃおうと思います(ごめんなさい、こんなダメなわたしをどうかお許しください)
……さて、もう薄々感づいているとは思いますが、あなたがこれを読んでいる今わたしはもうこの世界に存在していません。死んでいます。さよなら、してます。
などと言っておきながら失敗していたら飛んだ笑いものですがそのときはそのときです。なるようになっちまえですね(こんちくしょー)
……なんだか妙なテンションになって来ましたが気にしないでください(遺書なんて気持ち悪いモノ、とてもまともな心理状態では書けません――なんて言っちゃうわたしがおかしいのでしょうか? いろんな方からひんしゅくを買いそうですよね。でもでもわたしにはもう関係あ~りません! ウフフ! 死者はムテキなのです!)
いえそもそもこれから自殺しようという人間がまともな心理状態をしているわけもないのですが……。
ほんとうに、わたしの人生にはなにひとついいことなんてありませんでした。
世界はいつだって残酷で、なんにもいいことなんてありませんでした。
それなのに、そんなのはごくあたりまえのことに過ぎないという現実が、なおさらわたしを追い立てました。
だって苦しいなんて言えないですから。
辛いなんて泣けないですから。
けっきょくわたしの弱さがいけないのです。母も不調の出始めたわたしにそのようなことをよく言っていました。わたしもそう思います。
わたしはわたしよりずっと凄惨な境遇にいる人たちがいくらでもいるという事実を、他ならぬ母の教えによって知りました。その人たちがわたしよりずっとがんばって生きているという事実もです。わたしはグーの音も出ませんでした。見事に退路を断たれたのです。
わたしはもう、なんとかがんばるしかありませんでした。
世界がますます嫌いになりました。
優しさなんかじゃありません。わたしより辛い立場にいる人たちを思ってのことではありません。
わたしはわたしを「不幸」にカテゴライズしてくれない世界の狭量さが憎くて憎くてたまらなかったのです。
次第にわたしの言動は荒れてゆきます。抑えても抑えてもダメでした。心のまんなかあたりがわたしを無視して暴れるんです。
おかしくなっていく心を抱えながら生きることは、ひどくままならないことでした。
……なんて、こんなのも所詮弱いわたしの言い訳に過ぎないんでしょうね。
けっきょくわたしは愚かで卑怯者で、誰かに優しくしてもらう資格なんかこれっぽっちもなかったんです。
友だちをしていた子たちにも切られます。
あたりまえです。仕方のないことです。
なんとかひとりでがんばってみました。
無理でした。すぐに心が折れました。
もうどうにもなりません。
わたしは情けなくも死を選ぶことにしました。
……こうして書いていて自分でも気持ち悪くなります。
ほんとうはこんなことを書くつもりではなかったのです。
だってまるで悲劇のヒロインみたいじゃないですか。
ふさわしくありません。わたしの属すべきカテゴリーではありません。
これでは生活保護の不正受給みたいになってしまいます。
だから楽しいこと書きます。
思わず笑顔になれるようなこと書きます。
それであなたがずっと肌身離さず持っていたいと思うようなそんな超ステキ遺書にしてみせます!(やっぱ重いなコイツ……)
じゃあえっと……
……ごめんなさい。ハイ、なんにも思いつきませんでした(すごい! 一行で挫折しちゃったよ! さすがあたし! クズ人間のカガミ!)
――あ、そうだ! じゃあ前にやったレグカ(20針も縫ったよ! あとで
……あ~、なんとかおもしろくしようとがんばってみたんですが、つまんないですよね、わたし。今のだってどうせ使い古された芸風でしかも劣化版ですしね。
というわけで、奇をてらうのはこのへんで終わりにします。
つき合ってくださってほんとうにありがとうございました。
もしあなたがクスリとでも笑ってくれていたならこんなにうれしいことはありません。
……さて、ここからは感謝の言葉です。
ほんとうは、ずっとこれを言おうとしていたのです。
あなたはわたしにほんのすこしだけ楽しいことをくれました。
ほんのすこしだけいいことをくれました。
ちょっとだけ、生きてきてよかったのかなあって思わせてくれました。
さっきは冗談で言いましたが、実際楽しいことなんてなかったんです。
ずっと息苦しく喘ぐみたいにして生きて、それで死ぬことに決めて、そんな人生です。
なんにもなかったんです。
それでも自殺旅行ぐらいは楽しめるかなって思いました。
進学用にバイトして貯めていたお金をぜんぶ下ろしました。
それまで贅沢なんてしたことありませんでした。
でも最期だからと自分に言い聞かせて豪遊してみました。
いろんなステキなところや賑やかなところへ行ってみました。
でもちっとも楽しくなんてなれませんでした。ただただ疲れるばかりです。
……あの、実はそれでわたし、けっこうすごいことに気づいたんです。
世の中の楽しみのほとんどは生きている人のために用意されてるんだなあって。
だからすでに半分以上死んでいるわたしには無関係なんだろうなあって。
それで、そろそろ死ぬ場所を探そうかなって、この海辺の町に辿り着きました。
でもわたしはそこであなたと出会ってしまいます。
あなたが歌う歌をわたしは隠れて聴きました。
わたしなんかが聴いていいものじゃないって、やっぱり思いながら。
だってわたしはまるで優しくないですから。
ほんとうの痛みなんてぜんぜん知らないですから。
それでも、あなたの歌を聴いているとすこしだけ安心できました。
わたしはいつもの悪夢のことを思い出しました。
わたしはひとり洞窟のなかで暮らしています。
洗濯したり木の実を集めたり、とにかくロハスにのんびり過ごしています。
もちろんそれだけならとても心地よい夢ということで済むのですが、
すぐにそんな生活はぐちゃぐちゃに壊されてしまいます。
あっけなく踏みにじられちゃいます。
たくさんの声がどこからともなくやってきて、わたしを口汚く罵ります。
響き合う大音声はまるでかみさまみたいにざんこくです。
わたしは耳を塞ぎながら洞窟の奥へと引きこもります。
それでも言葉の暴力はわたしを追いかけて逃がしてくれません。
わたしはなにかを叫び続けます。けれどもどうしてか声というものがまるでひねり出せないんです。
……そんな夢です。
わたしはそれを、必死に被害者ぶって、少しでも楽をしようとしている卑怯者の夢だと、ずっとそう思っていました。
でもあなたはそうじゃないって言ってくれました。
心の底からそう叫んでくれました。
わかってます。そんなものはただの言葉です。
なんの説得力もない、無力なただの言葉です。
でもあなたがそう叫んでくれてるのですから、少なくともその場限りではそうなのです。
わたしはあなたの歌を聴き続けました。
あなたの歌の世界にいる間だけは、わたしはあの罵声から逃れることができたのです。
わたしは次の日もあなたの歌を聴きに行きました。
だんだん人間としてのあなたにも興味が湧いてきます。
……恥ずかしながら顔もすごくタイプでしたので……。
そんな折に、堤防で居眠りするあなたを見かけます。
ちょうど残りのお金も使い果たしたばかりでした。
せっかくの機会です。それにこれで最後だからと思って、なんとかあなたに話しかける勇気をしぼり出しました。
……でもけっきょくわたしは身勝手で、最後まで冷たい態度しか取ることができませんでした。
怖かったんです。今の自分が壊れてしまうことが。
恐かったんです。なにかの拍子に生きなきゃいけないって思ってしまうことが。
……ほんとうに、どこまでも度し難いことですよね。
でもこんなずるくて弱いわたしに、優しくしてくれてありがとうございます。
頭を撫でてもらえて実はとてもうれしかったです。
バカ食いするわたしと一緒にご飯を食べてくれてありがとうございます。
ほんとうはもっとたくさん話したりしたかったです。
あなたと過ごせた時間はわたしにとってとても大切な思い出になりました。
ほんとうに、いろいろとありがとうございました。
……おかげさまで最期は安らかにいけそうです。
……わたしはやっぱり酷い女ですね。
こんなモノを押し付けることになってしまい誠に申し訳ありません。そのうえ逃げてしまってごめんなさい。
それでも、こんなわたしがいたことを、
悪趣味で、ずるくて、よわくて、大食いで、ついでにちょっと面食いで、芸風の古臭い、
やたらと愛の重い雑魚すぎる女がほんのいっしゅんあなたのそばにいたことをどうか覚えていてください。
ずっとずっと、忘れないでいてください。
それがわたしからの「お願い」です。
最後までお読みくださりありがとうございました。
あらあらかしこ
×××
†
…………。
……また己の無力を思い知る。
いったい何様だ?
それでもやっぱり思ってしまう。
また救えなかった……と。
けっきょく歌はいつだって届かない。
わかってる。あたりまえだ。
初めから救うつもりもなかった。
だから思ってしまうのだろう。
こんな嘘みたいな言葉を、
諦めたみたいな感謝の台詞を、
すこしでもうれしいって、そう思ってしまうのだろう。
……ほんとうに、度し難いのは俺のほうだった。
キンキンとなにかの軋むような音がする。
俺はTシャツの内側に垂らしたペンダントをつまみ出す。
半透明のきれいな玉だ。
それは静かなうなりを上げながら青く瑞々しく輝く――。
俺はバイクへ飛び乗り走り出す。
もしかしたらまだ間に合うかもしれない、と。
少女の悪夢と忘れられぬ物語には不思議な符号があったから。
だからまだ間に合うかもしれない。
いや間に合わせなければならない。
そう、悪あがくように思った。
アテもなく海岸沿いを走る。
やがて飛び込んできたのはもうすべてが終わったあとの光景だった。
浜辺に打ち捨てられた少女。
――ずぶぬれになってはだけた真っ白なワンピースは、彼女なりの死に装束だったのかもしれない。
その姿は奇しくも玉のなかに沈む少女模型のそれに似ていて、
それでも胸に下げたペンダントは変わることなく光り続けていた。
「……違ったん、だろうな」
思わずそんな呟きがこぼれ出る。
……それはたぶん、どうしようもなく安堵の言葉だった。
少女に哀悼の意を捧げ、その場を立ち去る。
――俺は少女の名を知らない。これからも知ることはないのだろう。
手紙の文末に添えられた文字、俺にはそれを読み取ることができないのだから。
……名前は魂に似ている。
生きてきたいろいろな歴史を染み込ませ、それらを蓄積ないしは鬱積させていく。
名前とはそういうものだ。
所詮記号とうそぶいてみたところで逃れられない。
それは
だからこそ他者の名を知ることは相手への情を強める魔法となる。
――手紙の末尾に祈るように添えられた可憐げな線の固まり。
それを意味の取れない記号としてしか見れないことは正しく俺の業の深さを示しているように思えた。
それでも、いやだからこそ。
せめてその固まりを図として覚えていたい――。
ずっとその形を忘れないでいたい――。
都合よくそう想いながら、俺は行くアテもなく走った。
ただ胸にぶら下がる玉だけがうるさいくらいに青く瑞々しく
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